146 《地に平和をもたらしめよ》 (19)
ラインハルト様は、ずっと元老院会議の決定に反対の立場でした。
すなわち『先遣隊だけを送っただけで、手練れである国王陛下の目覚めを待つということは事態を悪化させるだけだ』という論調で、その立場を支持する長老も相当多く、僅差の決定でした。
ラインハルト様はそもそも元老院会議のメンバーなどではありませんから、意見を聴聞されただけです。会議決定の投票権もありません。
現国王の長男であったとしても、そしてまるでおとぎ話の勇者のように、いずれ国を出て世界のために働くという特殊な地位にまつりあげられていたとしても、あのご一族の国では規範や規則にのっとった多数決で物事が決まるようでした。
東洋のように、忖度などはありません。
血縁や、知り合いを大事にするより、合理性や体制や法規順守で実にシビアです。ラインハルト様がもし戦闘能力で評価が低ければ、一兵卒と同じ扱いで、意見も表明出来なかったことでしょう。
父上様の代理でこなす書類仕事をそれまで倍速で片付け始めてましたけれども、さらにスピードアップさせていました。
黒竜騒ぎの鎮静化に乗り出そうと思われていたからだけではなく、ご自身や反対派が主張したように、最初の隊では抑えきれないだろうと予測していたからでしょう。ベッドでのんびりと寝ることもやめ、机に突っ伏して仮眠を取っておられました。臨戦態勢だと示したかったんでしょう。
ただ、お側にいる従者の方も当然そのことを把握して報告もしておられたようですから、ラインハルト様は城で待機する予備のグループに入れられたままでした。
ラインハルト様ご本人のご意思はともかく、実は…本当のところ、ご本人の体調は万全ではなかったようです。医療チームから、ラインハルト様、そして多くの兵役担当者のデータは、きちんとまとめられて、しかるべき部署、そして元老院に提出されているのです。
武器を振り回して実戦で戦うようなことなどは、全く避けるべき状態だったそうです。
結界の外での活動も多くて身体に負担があり、それこそ低温冬眠装置で真っ先にお休みに入らなくてはいけないと、医療チームに言われていたそうです。
ですが、美津姫様のサポートを優先させたいというご本人の意思が固いので、順番を入れかえて父上様、弟君に先にお休みを取っていただいていたのではないかと思います。
お身体のメンテナンスを終えた父上様たちを待つという決定は、実に合理的な、妥当なものだったと思います。ただ、{待つ余裕があるかどうか}という点を除いては。
ですから、決定後も事態は注視されていました。
結界を破られるようなことになれば相当広い範囲を防衛しなければならないことは、合致した見方でありましたから。
そして、ついに。
さらに状況が悪化したという知らせが相次いで届きました。
初動部隊だけでは抑えることは結果的に出来ず、増援部隊を要請してきたのです。
そもそも竜討伐に力を発揮する武器、すなわちドラゴンキラーはかなりの重さがあり、扱える人が足りなかったようです。すでに疲弊している討伐部隊のための交代要員も必要で、増援の要請はとても軽視することは出来なかったのです。
急遽、ラインハルト様と数人の騎士などが配置換えされて、出動することに決まったようでした。
美津姫様に寄り添ってなごやかな暮らしを送ってこられたラインハルト様が、本格的な竜騎士の重装備を着けるのを見るのは、私にとっては初めてでした。
最初に出陣していった竜騎士達のように筋骨隆々という感じでは全くありませんでしたが、お疲れも見せず、むしろ高揚感に溢れた、凛々しい立派なお姿でした。心配しつつ、用意を整えていた従者や婆やさんなども、その頼もしいお姿に安どのため息や微笑みがこぼれましたほどです。
ご本人もようやく撃って出られることで、ご機嫌な様子でした。
周囲の配慮により、後回しにされて事態の悪化だけの報告を聞くだけの日々に、相当ストレスを溜めておられたように見えてましたから。
その頃の美津姫様は、ほぼ目が醒めないかのように床についていました。
やはり黒竜騒ぎと比例してお加減が悪くなる傾向に思いました。それでも、お医者様の指示に従って寝続けていますと必ず改善する、という繰り返しでした。
ラインハルト様が見舞っても会話が出来ない日が続いていたのですが、身体を治すための眠りだと感謝してもおられました。寝顔を見て、すぐに自室に戻ることが増え、逆に仕事が目に見えてはかどっておられましたし、それでラインハルト様ご本人も少し余裕ができていましたのは良い点とも言えました。
鎧を着ける前にそうっとお部屋にお見舞いくださったラインハルト様は、
「心配をかけたくないから…内緒で出かけるよ。
乗馬の訓練で遠乗りしていると伝えてほしいな、」
とお側に付いている侍女たちに伝えて廊下に出ました。
熱も下がってきていましたし、黒竜討伐さえ上手くいけば慶事の準備などに専念できると嬉しそうでした。趣味である、美津姫様のアクセサリ作りも再開して、新しいものを快気祝いに差し上げたいのだと従者に話していたそうです。
ところが。
ちょうど私どもが出立をお見送りするために集まりかけた、まさにその時でした。慌ただしく転げるようにして美津姫様付きの侍女が走ってきたのです。
美津姫様の身に何かあったのかと、全員が即座に立ち止まりました。
聞いてみると、体調の悪化などではなかったのです。
が、やはり何か感じられたのでしょうか。
美津姫様が目を覚まされたというのです。
ラインハルト様をすぐに呼んで欲しいと言っていることが伝えられたのです。
タイミングが非常に悪いので、少しラインハルト様が迷われたように思いました。
優秀な方ですから、もともとかなりせっかちな所もあります。
自分のペースで何事もどんどん処理していく方が楽でしょうし、効率は良いですからね。
ただ、そうやって捻出した時間を美津姫様のために使うことも優先してくださっていて、陰では相当我慢も努力もなさっていたのではとお察しします。
それでも、すぐに決断なさいました。
慌てて玄関広間の横の待機部屋に駆け込み、せっかく装着した鎧などをさっと取り去ったのです。
「会わずに行けば、僕が後ろ髪を引かれるからね、すぐに見舞おう」とおっしゃって、そばにいた私を伴って美津姫様のお部屋に行ったのです。
侍女の手助けでようやくベッドで身を起こした美津姫様はやつれた顔でしたが、以前見たのと同じように、熱で潤んだ瞳、赤みのある頬をしていて、とても美しく見えました。
「良かった、…何日ぶりだろう、やっと君と話せたのが嬉しいよ。
昨日より少し顔色も良くなったみたいに見える。
軽いものなら食べられるのかな?」
「ええ、少し。
お白湯は先ほどいただいて、お医者様も消化の良いものとお茶を、と」
美津姫様を嬉しそうに見つめておられましたが、ふと手を伸ばして美津姫様のおでこに触られました。
「ああ、熱もひどくはないようだね、…気分も大丈夫?」
「ええ、」
と、少し驚いた様子ではにかむ美津姫様と離れがたい様子で、次はそっと布団の上に出ていた手を優しく包み込みました。
「お茶に付き合ってあげたいけれど。僕は済ませてしまったし。
ごめんね、実は…今からちょうど出かけようとしていたんだ。
乗馬の先生がね、遠乗りの訓練の予定を組んでくれたので、騎士団の皆と支度をしてたんだ。
だから、今夜は帰るのが遅くなると思う。
心配しないで待っていて?
お医者様の許可が出たら、明日また一緒に過ごそうね、」
と、ラインハルト様はつとめてのんびりした声音で言われました。
ついでに、こんな時だから、熱を出さない程度に何でも好きなことをした方が良いよ、というようなことをにこにこと言われたのですが、勘の鋭い美津姫様をさすがに誤魔化しきれていない感じでした。
ラインハルト様が話している途中から美津姫様の目に涙が溜まり、それが次から次へとこぼれ落ちるのです。
とうとう泣きながら、か細い声で
「今日は日が悪いので、出かけないで欲しい。
…どうしても出かけるのなら、自分も連れて行って欲しい」
と、途切れ途切れにおっしゃるのです。
乗馬なんて全く出来ないのにですよ?
こちらに来てから、馬が可愛いとおっしゃるので試しに一度乗せていただいたことがありましたが、高い位置にある鞍の上で緊張して固まっておられたくらいですから。
いつもなら、多少の甘えやわがままに寛容なラインハルト様もさすがに困っていました。
私がこの場に伴われてきた理由は、ラインハルト様が出立するのを早めるためなのだと思いましたので、慌てて後ろから声をかけました。
「美津姫様、今日は、さすがに無理でございます。
昨今色々とあったものですからね、騎士団として団体で連携して動くとか、なにか難しいことを訓練なさるのも予定に入っています。
ラインハルト様の参加できる日を優先して決めたので、予定はずらせないかと思います。
起き上がれたばかりですし、今日はやめて明日を楽しみにいたしましょう。
皆様のお邪魔をしてはなりませんですよ…」
などと言いかけてみたのですが、とどめられました。
「私は、乗馬の訓練のお邪魔をしたいと言っていません。
私には、つたなくても癒しの術があります。
貴方からもそう言ってくださいな。龍神様に祈ることも助けになります、と。
私は、兄さまが無理なことをなさろうとしているからお供をしたいとお願いしているのです。
お願い、私に嘘をつかないで。
…よけいに心配になります。
本当のことを話してください」
と、息を弾ませるようにしつつも言い切り、最後はラインハルト様を見つめました。泣いていても、強い視線でした。
やはり美津姫様は、ただのか弱い少女ではないのです。
異国にいても、やはり巫女姫様なのです。
私は、自分が善之助であったならどうするだろうと考えましたが、口先だけでは説得なぞできない気がして、言葉を続けられませんでした。
ラインハルト様は、礼儀正しく
「心配してくれてありがとう」
とは言いましたが、全くとりあっていませんでした。
そして、いつもより早口で説明を始めました。
他の小隊はすでに出立し、城門口でラインハルト様が組み込まれた小隊を自分が待たせてしまっているので焦っていたのもあったかと思います。
真面目な顔で、黒竜討伐隊の話をしました。
自分は予備兵なのだと。最後尾の補欠扱いだと。
ただ、ここで一気にかたをつけるためには、投入する人数を増やす必要があるのだ、と。
「でも…兄さまの、テオの悪い運勢が覆らないのです。本当です。
心配でならないのです」
と、美津姫様が呟きました。
私どももラインハルト様も、その言葉にはっとしました。
美津姫様は、自分の体調をかえり見ることなく、ラインハルト様のために祈ったり、占ったりをしていたのです。全く気づきませんでした。
しかも、その占いは…普通の祈りや占いより深いことをしていたのです。
普通に神社で良く見られる一般的なお祓いよりも、古来よりの本格的なものです。
多少のお供物などではすむはずがありません、大切なものを捧げる覚悟で行うような…。
いったい、いつそんなことをなさっていたのでしょうか。
もともと、お身体によくないことはやらないというお約束だったのに。
またお身体が弱られていく原因が掴めないことに皆、困惑していたのです。
先ほども申しましたように、医療チームと連携して、体調を良くしていくことが出来ていて皆、喜んでいたのです。
大真面目に、多くの者が美津姫様のために動いていたことを良くご存じのはずでした。
それなのに、我々に説明や相談を全くしないで…美津姫様が内緒で占ったりしていたこと、を知ったのですから。裏切られたような気持です。
そして、その場にいた方々よりも、元々同じ神社にいた自分は、さらに青ざめておりました。
彼らは知らないでしょうが、ただ占うだけでなく、ご神託を覆そうという類のものは、術や祈祷の中でもかなり無茶というか、無謀というか、…もはや由々しき事態です。
ただ、美津姫様のお立場を悪くすることもできません。
どう説明すれば良いのかと悩みました。
私などが取りなして済む問題ではないのですが…それでも何か言わなければ。
ラインハルト様が無言のままでしたので、
「せっかくお身体が良くなっていたのに…。
どうして私どものアドバイスを聞いてくれていなかったのでしょう、」
と口をはさもうと思いました。
が、嫌な寒気がしたのです。
声が、言葉が口から出せないみたいに。
まるで空気が冷えたように感じました。
私の口だけでなく、全身が凍るくらいに思いました。
ラインハルト様なのです。
私どもと同じくがっかりなさった、いえ、怒りを抑えておられたのでしょう。
顔の表情は淡々としたままに見えましたが、あの青い瞳が妖しいくらいに光っているように思いました。
ああ、上手く説明出来ません。
怖ろしいという表現が、適切かどうかわかりません。
いえ、…お二人の口げんかをここで再現したいわけではありません。余計なことですからね。
どうか、夏美様もこのことを教訓にしていただければと思うのです。
ラインハルト様には、気をつけてくださいと言いたいのです。
お付き合いも長くなれば、喧嘩することもあるでしょう。
一方的に夏美様の方が我慢をしてくださいとは思いませんが、魔法を使える人は普通ではない位に思っていてくださってちょうどいいのです。そう思います。
ラインハルト様の力は底が見えません。
紳士的ですし、ほとんどのものがあの方より弱いことも、ご自分で良く理解しておられて、それでこそご自身の行動にも普段から気をつけておられるようにお見受けしました。
幼い頃はやんちゃで、普通に振る舞っているつもりが他者を傷つけていることを認識してからは、つねに葛藤を抱えてご自分を制御なさっている状態なのです。
でも、本気を出せば人間一人、たとえ術の力を持っている巫女姫様の魂ですら、簡単にねじ曲げそうな力があると私は感じました。
元老院の方々、ご家族、付き従っている人達よりも前に、ご自分でご自分を監視して抑制しなくてはいけないと、ご自身が認識せねばならないほどの力です。
たぶん、美津姫様こそは常々感じておられたと思います。
人間的な魅力だけでない、ラインハルト様の隠し持っておられる正邪併せ持つ力を。
感じられるからこそ、怖れがあっても…惹かれてやまないのでしょう。
もう後戻りできないとわかっていても、逃れるよりは囚われていたいくらいの…。
そして、そんな自分を戒めつつ、誠実に生きようとする一人のナイーブな青年としてのラインハルト様の魅力に。
これ以上わがままを重ねてラインハルト様を阻もうとすれば、美津姫様の意思を奪ってでもねじ伏せたり、どこかに閉じ込めかねないと思いました。
私が伴われてきた理由、それは美津姫様を説得するためだけではなく、自分に抗うかもしれない美津姫様を守って欲しいということが第一なのだと感じました。
嫌なことを申してすみません。
…
「そうなんですね、覚えておきます。
ライさんには気をつけますね、」
と答えてくれている声には、笑みを含んでいる気がする。
まだまだ実感が無いのだろう、無理もない。
それはそうだ。
ラインハルト様と出逢ってあっという間に恋に落ちたばかり…今が最も幸せな時だろうからな。
けんかする相手をも守らなければならないほどの、ラインハルト様の強さを怖れなければならない日が来ないといいが…。
抗うことを望んで、…すぐにその抗う望みを自分で砕かなくてはいけない…そんな思いをしないで済めばいいが…。
…で、続けますね。
もちろん結局、美津姫様が折れましたとも。
うつむいたまま、小声で謝ったのです。
すぐにラインハルト様は、ありがとうと応じてましたよ。
この頃のお二人のけんかは、いつもそんな風に終わるのでした。
そして、回復部隊を当初より増員することも約束し、微笑みました。
私ども従者の中にも《宝珠》由来の回復の術を使える者がいましたので、美津姫様の代わりとしては力不足ですが、ラインハルト様のおそばにつけることに決まりました。
それから、また…おふたりが見つめあっておられました。
ラインハルト様が頬にキスしたり、優しく手を握ってすぐに帰るからと囁いておられ…。
そばに控えていた私どもも、胸の奥がツーンとしました。
時が止まってくれたら…、永遠におふたりで見つめあったまま…そうであったなら。
私はずっと楽観的だったのです。
つね日頃のラインハルト様の様子を見ていたら、竜にも簡単に勝てそうに思っていて、実感が全くなかったのです。
ですが、やはり命がけの戦いに行くために恋人たちは寂しい、辛い思いをするのですよ。
事情を話さないまま、一人でその思いに耐えて行こうとしておられたのでしょうに、どちらも気の毒な思いをされて…。
それでも、部屋を出たラインハルト様はきりりと引き締まった表情でした。そして遅れを取り戻したいというように、慌ただしく出立なさいました。で…
「あの、そこで質問なんですけれど。
お出かけになられた時、《鏡》はどこにあったのでしょう?」
「え~と、…出撃された、その時ということですか?
ラインハルト様はドラゴンキラーと弓矢装備でしたはずで…」