143 《地に平和をもたらしめよ》 (16)
「さて、姫様…、もう少しよろしいでしょうか?」
美津姫様がほぼ話し終えたところで、善之助が切り出しました。
まだ何か踏み込んで聞くのかと、少し意外でした。
無駄にデリケートなところをつついて、美津姫様が嘆いたり、お心を閉ざすような結果になるかもしれないのに。
「…まぁ、的外れでしたら申し訳ないのですが。
姫様はもしかして、ご自身の祈りによって《宝珠》の力を発動させたとか、つまり竜巻を起こして自分が被害をもたらしたかのように思われて悩んでおられるのでしょうか、」
美津姫様は、うなづきました。
「そうです。
怖ろしいことです。
私は村のため、湖のために祈るのではなく、ただ自分のために祈ってしまっていたのです。
正気ではありませんでした。
いえ、そう言うのは…あまりにも無責任ですね、私…、私は、自分が怖ろしいです…」
その先も続けようとしたかと思いますが、涙をおさえながらも言葉が途切れてしまいました。
善之助は、ゆっくりとした口調で言いました。
「姫様、よろしいですか?
確かに、そこが大事なところですね。
どうぞ、じいの話を聞いてください。
姫様は、肝心なことをお忘れですよ。
《宝珠》は最も力のない、優しさに満ちた宝物ですよね。とてもじゃないですが、《宝珠》に対する祈りだけでしたら、ささやかに雨が降るだけかもしれません。
《鏡》や《劔》が揃っていない場合は、力が弱いのですから。
どうか、ご安心くださいませ。
こんな話になっては困ると思いましたから。
私は、戻って来てすぐに自分の眼で確認しておきましたよ。
《鏡》はずっと宝物庫にあったようですからね。間違いありません。
とてもとても、《宝珠》だけでは、竜巻なんて起こすことは出来ませんよ」
「それは、…本当なの?」
善之助がしっかりとうなづいている後ろで、私もうなづいておきました。
美津姫様が、ほっと小さく息を吐きました。
「そうなのですか…。
では、ええと、それではもしも私が《鏡》の方を持ち出していたならば、どうでしたか?」
「ああ、まぁ、《鏡》は審判者としての役目を持っているから《宝珠》より強力でしょうが、それでも。
たぶん、《鏡》だけでも、同じように無理かと思うのですよ。
かつては、三つの宝物と三人の巫女姫様がそろい踏みで雨乞いの儀式を行うと、たちどころに慈愛の雨が降ってきたと記録されてはおります。
が、そのたちどころだって、雲が集まってきた後にようやく雨が降ってきたはずですからね。数時間後、あるいは翌日雨が降ってありがたかったというお話かもしれません」
「でも、私。
あのね、ちょうど先日学んでおりました…、あの巻物の最後の方の言葉が頭にありまして、」
と美津姫様がさらに何かを言おうとなさいましたが、善之助が慌ててさえぎりました。
「姫様、すみません。そのことは申し訳ないのですが、巻物の中に書かれた事柄、お言葉などについては、巫女姫様のみに伝えられるべきことですから、今ここでは、」
「はい、…そうでした。ごめんなさい…」
どうやら言いかけておられたのは、私や姉やさんが聞いてはいけないような話だったようです。
「まぁ、ともかくですね、姫様がご自分で考えて、反省すべき点を反省したいというところがあれば、今後にも繋がりますので、むげにお止めはしませんが。
起きたことについて勝手に意味付けなどはしないで、今少し我慢をなさってください。
前例のないことが起きているのですから、そういう時こそ慎重にしなくては。
神様のご意思であるのでしょう。
そうでしたらば、しばらくは《宝珠》を大切にお身体に宿しつつ、いっそう信心におつとめなさるのが良いことだと思いますよ。
ともかく、先ほど申したように、姫様と宝物が湖で祈っても、そう簡単に竜巻などの現象を起こせるなどということはないということだけは、はっきりと言っておきますよ」
一番最後のフレーズは、美津姫様だけではなく姉やさんと私にも向けられたものかと思いました。
一般人を含めてあまり術や宝物と関係の深くない者には、余計なあいまいな知識をいれないように、基本的な説明をするのが一番良いからです。
あいまいな知識だけを知り、余計な想像を付け加えたら、妄想や無責任な噂を生じさせますからね。
姉やさんと私が聞きかじりの知識で、警察関係や消防関係の方々に今後なにか変なことを言わないように気を回したのだと思います。
祈りや癒しを司っておられる神さまであっても、実のところ負の側面をお持ちです。その側面を表す別のお名前を、元からお持ちになっておられたりしています。そして、そういうことはあえて隠されてもいませんが、わざわざ広く喧伝しなくても良い事実なのです。
シンプルに神様は善なる存在だと思う方が、一般的かつ簡単で、信心するのに迷わなくて良いですからね。
それと同様に術にも別の側面があって、ふだんは決して唱えてはならないような禁忌も当然のごとく存在するらしいということは、宮司様のそばで仕事をさせていただいている関係上、私は知っていました。
が、ほぼ耳に入っていないような、気づいていないような振りをしておりました。
そう、難しいことは良く分からないんですよ、安心していていいんですねという素振りをしていれば、悪目立ちなどしないのですから。
ですから、美津姫様の横に座っている姉やさんと同じようにあいまいに微笑んでおりました。
さて、この時の宮司様と美津姫様の会話に立ち会えたおかげで、《鏡》が一度青年のナップザックに入れられて持ち出されていたことを美津姫様も知らなかったようだという事実を、私は知ることが出来ました。
彼はやはり(私の推測通り)、勝手に《鏡》を盗み出してナップザックに入れ、美津姫様と出かける前に草藪に隠しておいたのだと確信できたわけです。
であるとしたら、今後彼が何食わぬ顔をして再度神社を訪れてきたとしても、彼自身が《鏡》を持ちだしたなんてことは認めない方が得ですから、自分からそのことに触れないはずだろう。
そうだとしたら。
私のごまかしは、たぶん誰にも気づかれないままで、とがめだてなどもされずに終わる可能性が高い。
その晩、私は布団をすっぽりと被り、ほくそ笑んでおりました。
美津姫様のため、宝物のため、神社のため、良かったのだと。
誰も知ることは無いだろうが、私は良い働きをしたのだと。
しかも、大切な秘密を自分だけが知っているのです。
優越感に浸りつつ、その怖ろしさに身震いしました。
そう、まさに諸刃の剣のようです。
今後、何か起きたら、自分は対処できるのだろうか。
そう思い始めると、なかなか寝付くことができませんでした。
自分は、美津姫様や善之助とは違います。宝物のことは、学ぶ立場にはいなかったのですから。
ミスリードなどせずにあらかじめお知らせしておいた方が良かったのにと嘆く時が来たらどうしよう。
術者おふたりのお叱りが怖いという程度では済まされない責任を負える器ではないことをおのれが一番良く知っておりました。
それでも、最も良いだろうゴールだけは、すでに見えておりました。
龍ヶ崎神社がダムの底に沈むと決まってからお二人が最もこだわっていたのは、合祀先の神社にも奈良にもお渡しせずに、新しい村の祠に二つの宝物を納めることでした。おふたりのそばにいてまれに小耳にはさんだことをつなぎ合わせた解釈でしたが。
ですから龍神様にお返しするために、二つの宝物を祠に納める儀式を善之助と美津姫様が最後の宮司、最後の巫女姫として執り行う予定であったのです。
たぶん、それさえすめば懸念が無くなります。神社も原初の祠に立ち戻っていくのです。
善之助は、ご本家との話し合いが暗礁に乗り上げている間も着々と準備をしておりましたから。
勝手な振る舞いではありません。
奈良のご一族の中でも、宝物について一定程度以上の知識を持つ方は明らかに善之助と美津姫に任せようとしておられたようです。
先ほどの話と似たようなことで、関係のない人は全てを見渡し理解しているわけではないので、判断材料に事欠いているわけです。
ああ、そうでした。夏美様は、奈良のお婆様をご存じでしたね。そのお方こそはまさに中心となって我らを信頼してくださったのでした。
というわけで。
祠に《宝珠》も《鏡》も納めるまでこれ以上何も起きなければ、これまで通りのおだやかな暮らしになるだろう、あとたった一年位だ…大丈夫に違いない。
そう考えても、なかなか眠れませんでした。
ずっと考え続けているので、脳みそが勝手に起きて働いているように疲れてしまい、ますます眠れないのです。
やはり私は、小心者に過ぎないのだなと再認識しました。
自分は、つねに強いコンプレックスを持っており、それで己を縛り付けようとしているのに…。
自分の脳みそは、勝手に思い返そうとしている。
考えて、考え抜いて味わいたいのだ…、まるで忘れたくない、みたいに…。
あの竜巻が沸き起こった瞬間を、です。
実は勝手な、甘やかで自分に都合の良い妄想が生じ、止まらないのです。
もしかしたら、…。
あの時偶然にも、美津姫様と私の心は、シンクロして同じことを祈ったのではないかという妄想です。
そして、もしかしたらそれに応じて、二つの宝物、《宝珠》と《鏡》はあの時共鳴してくれたのではないか…?
とても美津姫様と釣り合うような立場でもない自分なのに、思いが交錯したかのように想像し始めて、唇に笑みが浮かんでくるのです。
大きな湿り気のある風にあおられた瞬間を怖ろしいと思ったはずなのに、良い思い出のように勝手に妄想を付け加えて反芻するかのように思い出したくなるのです。
ああ、自分こそがバチが当たるべき存在だったかもしれないと思おうとするのに。
いや、まさにそうだ。
あの大切な方のために私が代わって神罰や責任を負えるのなら、どんなに幸せなことだろう。
自分だって、宮司を継がせたい、息子よりも見どころがあると善之助に褒められたこともありました。それで、美津姫様と共に初歩的な祈祷や術を共に習い、ずいぶん昔には兄弟子のように接してくださったこともあったのですから。
なぜかふだんの儀式の時のように、《鏡》の巫女姫の代理を務めて美津姫様の横に立っていたかのように思い始めた自分。あの竜巻の瞬間をもう一度体験したいかのように、復習しているかのように繰り返し思い出そう、考えてみようとするのでした。
しばらくうつらうつらしてようやく眠りについたはずだったのですが、怖い夢を見てしまいました。
龍そのものと思われるような、低い、深みのある声が高みから響いている場に対面して、私は土下座しているかのような姿勢で這いつくばっておりました。おでこをこすりつけていてかしこまっておりました。高貴な存在だと感じるそのものを仰ぎ見ることはできませんでした。
唸り声かと思うのですが、どこか意味のある言葉として、脳みそに浸透させられるような感じをうっすら覚えています。
正義か、正当か、その両方かもしれません。
そんな言葉が脳裏に浮かびます。そんなことを問い詰められているようでした。
その龍神様のような存在が問い詰めているというよりは、私自身が説明や言い訳を聞いていただきたいと思って焦っている様子でした
。
それは最初からそうであったわけではなく、上手く立ち回ろうとしていたのに何かに失敗したのか、心はまだ悪あがきをする機会を願いつつ、震えているみたいでした。
自分の負の側面が表面に出ぬように大げさに震えてみせているようで、私は夢の中の自分に自己嫌悪を感じました。そう、正義か、正当か、その立派な言葉を言い訳に使おうとしている自分の醜さ。
なぜか私は夢の中で、巫女姫様の格好をしておりましたように思います。地面に頭をこすりつけていて、ふと目にした自分の袖は、まさに巫女姫様のまとう美しい衣装の袖でした。