140 《地に平和をもたらしめよ》 (13)
何が何だかわからなくなりました。
普通に、遠目にみたら、暴力をふるったのかどうかわかりにくいこともありました。もしも仲の良い友人同士でしたら、それこそふざけあっていると見えなくもないような…。
それでも、彼のせいで美津姫様があっけなく音もたてずにふらっと藪の中に倒れ、全く対岸の自分から見えなくなったのは事実です。ただ、倒れた音、悲鳴などは聞こえませんでしたが。
私は、叫べませんでした。
様々な考えが浮かんでしまい、声が出ませんでした。
ですが、かえってそれで良いのかもしれないと思い直しました。静かに、とにかくそばに走り寄って不意討ちにするくらいじゃないと、長身の彼をとどめることができないかもしれませんから。
私は怒っていました。
彼にでは、ありません。自分のふがいなさに、です。
噛みしめた歯から血がにじんで嫌な味がしました。
彼を全く疑うことなく、招き入れたことが間違っておりました。
私たちの態度がお墨付きのようになったからこそ、美津姫様も信じ切ってしまわれたのでしょう。大変賢い方とは申せ、やはりずっと悪意と無縁に成長なされた少女なのですから。
青年の雰囲気が、奈良のご本家の方々や、美津姫様たちの上品さに似通っていたとはいえ、なぜ青年を簡単に信じてしまったのか。
私どもは、心弱りし過ぎていたのかもしれません。優しいお心の、柔らかい褒め言葉に飢えていたのでしょう。寄り添ってくれそうな雰囲気に、疑うこともなくすがってしまった愚かさを感じ、とても惨めでした。
そして、青年が怖くてなりませんでした。
本当に心から震えておりました。…情けないことですが。
彼は自分よりも弱く守るべき存在を突き倒す瞬間でも、平然と美しくて優しい笑顔を浮かべていたのです。
恥ずかしながら、それまでそんな人を見たことはありませんでした。
そんな言い訳なんて、何の役にも立ちません。
幼女や少女を誘拐する悪者の話を聞いたことは、幾度もあるはずなのに。
自分の身近にそんなことが起るかもと考えたことがない自分が、大馬鹿者なだけです。
間に合ってくれ!
どちらかというと、命を奪うようには思えませんでした。
では…? やはり、そういうことなのだろうか?
とても嫌な想像をしてしまいました。
自分も男ですから、男のいやらしさというのは分かります。
早く、お助けせねば!
幼い姫様が汚されぬうちに、いや、帯など解かれたりせぬうちに。
たぶん、まだ男女のことなんて教えられたことはなかったはずでしたから、どんなに驚いておられるだろうと思うだけで、焦ります。
私は、声の出せぬまま、どんどん焦りと怒りを募らせていました。
数分後に到達するはずが、その数分後がもう、とても待てないのです。
口の中の血だけではなく、必死で見開く瞳からも血涙が流れていたかと思います。
今すぐ、彼にばちが当たればいい!
自分の身に代えても、命に代えても美津姫様を守ってください、神様っ!
私が、ふたりのそばに到達するより前でした。
自分の耳元で、足元でごごごうっ、という音を聞いたのです。地が揺れるほどの突風がうなりを上げたのです。予兆などなく、突然のことでした。
あっ!と思う間に、足が、それも両足が、ふいに宙に浮きました。
そのまま自分の身体を制御することが出来ず、私は近くの木に頭からぶつかり、倒れて地面にひっくり返りました。
そう、私の感じた竜巻、突風かもしれませんが、そのようにいきなり起こったのです。
目で見ることが出来たわけではないですが、、風の渦巻くのを確かに感じました。
頭をぶつけた時、一瞬目の前が暗くなり、気が遠くなった状態でしたが、それから数分もしないうちに私は立てたと思います。もちろん時計で計っていたわけではありませんが。
立ち上がった時にちょうど、風が群れをなすようにして湖から離れてふもとの村に降りて行ったように感じました。
この言い方は変な表現ですが、まぁ、そうとしか言えないのです。
風が意志を持って集まっていたように感じていたのですが、自分のそばから、その強い風が全く無くなったのです。
そう、風が突然に出現し、それからすぐ同じように突然収束して静寂になるという、信じられないくらい瞬間的な出来事でした。
頭はズキズキしましたが、私はあわてて立ち上がり、またふたりのもとへと急いだのです。
美津姫様は、顔を横にして倒れていました。いつもよりもさらに顔色が白く見えましたが、一見したところでは、けがをしているようには見えませんでした。
そんな様子は、すぐ近くに寄らずとも、良く見えました。
その一帯がちょうどひらけた草地でしたから。
着物や帯などは少し崩れていましたが、解かれてもいませんし、はだけられてはいませんでした。
心からほっとしました。
ちょうど口の前に位置する草花が、美津姫様の呼吸に反応してかすかに揺れているのが見えたからです。
そして、たぶん自分が一番ほっとしたのは、そばに青年の姿がなかったことです。
隠れてこちらを観察しているような気配もありません。
ああ、あいつも先ほどの怖ろしい風にやられたのかもしれない。
そして、傍らで倒れている美津姫様が自分の想定以上にぐったりしていたので、慌てて逃げて行ったに違いない。
そう思いました。
湖をぐるりと囲む道は木立や藪には邪魔されておりますが、たぶん対岸の私が木にぶつかった時に痛みで叫んだから、気が付いたのだろうと考えました。
ナップザックを拾って逃げていくだろうが、中に入れてあった宝物は取り戻し済みですので、彼を追うよりは、まず美津姫様です。
走り寄って美津姫様を助け起こそうと思った時に、私の袂の中の木箱が異常に熱を帯びていることに気づきました。
非常に焦りました。
全く初めてのことでしたが、すぐにこれか!と立ち止まることが出来ました。
常日頃から、宝物同士をお側に近づけないようにと戒められていたからです。
もちろん、ただ近づけただけでは何も起こらないと言われていましたが。
竜巻といい、その前の自分の気持ちといい、あの青年を罵り、龍神様のばちを当てて欲しいと願った自分の気持ちは、絶対に龍神様の宝物、ひいては神様がご覧になっていたのだと思いました。
これ以上、災いが起きないためにも…宝物同士を近づけてはなりません。
美津姫様のそばに、《宝珠》の木箱が転がっているのは見えましたが。もはや呪文を使って確かめる気力はありませんでした。
巫女姫様の力を発揮して、宝物を鎮めていただきたい気持ちもありますが、美津姫様は倒れ伏したままです。
どうしよう…?
何をすればいいのか、必死で考えました。
《宝珠》を持つ美津姫様に、《鏡》を隠し持っている自分が近づいては、やはりいけないのだろう。
いや、それどころじゃないかもしれない。
先ほどの竜巻というのは、宝物が近づくという条件が達成されていなくても起きたことなのではないか?
もしかしたら木箱の中の《鏡》は、さきほどの、あの刹那、私の気持ちを受けて理解してくれたのではないか?
そうだ、もしかしたら竜巻は、私が望んだために…起きたのではないか?
私が、私こそが彼にバチを当てるために…災いを望んで招いたのか…?
いや、そんなはずはない。
私にはそんな力など無い。私は巫女姫様ではないし…。
存在するらしい、怖ろしい滅びをもたらす呪文なども習ったことなどはない。
私に、責任などは…ないはずだ。
心の中で、私は否定し続けておりました。
でも、もしかしたら…。
もう少し、良く考えろ!
私は、その次の瞬間、さらに青ざめました。
思い出したのです。
そういえば、あの時。
あの風が起こった時、なにかトクンという鼓動のようなものを感じたような…?
それは、私の身体の、すごく近いところじゃなかったか?
間近というか、もうその鼓動に包まれているかのように…?
いや、違う、…
あれは、風が起こり、木を揺すぶった時の音だ、そうに違いない…
そんなことより、どうやって美津姫様をお助けしようか。
自分が…先ほどみたいに…無意識に、やってはいけないことを何かやらかすのでは…?
怖ろしくて、考えることからも逃げたくなっていた、ちょうどその時です。
同僚が二人ほど、担架を担いで坂を上ってやってきてくれました。
そしてすぐに、青ざめて立ちすくんだままの私に声をかけてくれました。
「やはり、ここだったか!
…おい、何を呆けた顔をしてるんだ?、しっかりしろ!
美津姫様はご無事だぞ!
お前だってたいして血も出ていないぞ!、一人で戻れるか?
石頭で良かったじゃないか、しっかりしろ!」
などと明るく励ましてくれ、現実に引き戻してくれたんです。
その者たちに美津姫様のことを頼み、自分は先に神社の方に戻ることを決めました。
怖ろしさというか畏れで、自分の膝をがくがくさせたまま、おろおろと坂を下りました。
ともかく、《鏡》がさらに熱を帯びたりしないように、大切に元の場所にお戻しすることだけしか、思いつきませんでした。
心の中で、私が悪うございましたと唱えました。
何度も何度も唱えました。
まるで痴れ者のように、泣きながら神様に謝ることしか出来ません。
誰か特定の人を罵ったり、恨むのではなく、ただただ龍神様の本来の優しさと恵みに感謝して参ります、どうぞお許しくださいませ。
必死でした。
分をわきまえずに、巫女姫様以外の者が、しかも男である者が、龍神様の宝物を用いてしまい、そのあげくに自分も巫女姫様も滅びた前例、あの伝説《破鏡の嘆》と状況が似ていると思いました。
坂を転げるように下りていく時に、ナップザックを見つけた、あの分岐点を通りますのですが。
草藪付近をちらりとみたら、何も見当たりませんでした。ですから、いよいよ彼は荷物を持って逃げ去って行ったのだと思い込みました。
同僚にはまだ何も説明出来てはいませんでしたが、明らかに彼は勝手に宝物庫から《鏡》を持ちだしたのち、美津姫様を押し倒したわけです。
目的が泥棒なのか、美津姫様に乱暴したかったのかはわかりませんが。
とにかく、彼は悪事の発覚を恐れて逃げていったのだろう、と思いました。
忌々しいという気持ちは、すでに萎えていました。
怒りや恨みの感情が悪いことを呼び込んでしまうのです。
私の心の汚れが、《鏡》に影響を与えるような危険をもう冒したくはない。
青年のことは、頭から追い払うことにしました。
そして私は神社に戻り、慌てて宝物庫の、元あった場所に《鏡》の木箱を戻しておきました。
その時には、木箱は全く熱を失っていて、中をのぞいてみますと、古い鏡がぼんやりとあるだけでした。
現代の鏡とは違う、鮮明に映らない、古く穏やかな鏡。
いつもの当たり前の光景が、こんなにも幸いだということを噛みしめました。
龍神様にいっそう信心しますとお誓いしました。
命が続く限り、私の身も心も捧げようと決めたのです。