133 《地に平和をもたらしめよ》 (6)
物音をほとんど立てないまま部屋に侵入してきた人影は、戸惑ったように立ち止まった。
部屋の中は、夏美好みの柑橘系の香りが微かにしている。本格的な香水というよりも、リネン用のうっすらとした軽い香りだ。
ほぼ部屋の中央にある天蓋付きのベッドからは、ささやかな寝息が聞こえる。
それを確認してから、避けるようにして壁際の木製の本棚、デスクの辺りへと人影は足早に向かっていく。
壁際のフロアランプが鈍い橙色の光を放っているが、かなり暗い。それでも、懐中電灯などは使わずに進んでいく。つと立ち止まったが、デスクの上に並べられた、可愛らしい文房具や画集には用が無かったらしい。かすかな寝息が聞こえてくるベッド付近をそっと振り返る。
ベッドの天蓋は中途半端に開いたままになっていて、横向きに寝ているらしい夏美の黒い髪までが見えた。
寝息以外の音といえば、室内の時計の針の音くらいか。そのどちらもが乱れることなく刻んでいるのを確認したのだろう、人影は意を決したように歩を進めた。ベッドに近づいていく。
ベッド横の小物棚の上には、充電器に繋がっているスマホ、写真立て、ハンドタオルなどとティッシュ箱、いるかのぬいぐるみ、小ぶりの宝石箱があった。
宝石箱に一度手を伸ばしかけたが、手を引っ込めた。
「… …」
一呼吸おいて、その人物は小声で何かを呟いたようだった。
宝石箱の後ろにたたまれたタオルが数枚重ねられて置いてあったのだが、ふとそれがしなりと崩れるように動いた。その陰に隠してあったのだろう、古い木箱があらわになった。
が、人影はすぐに動かない。
さらに一呼吸おいて、また小さく呟いたように思う。
まるで小さな虫の羽音位の音声だが、一定のリズムがある。祝詞に近いリズムのようだ・・・。
木箱になにかの反応を求めていたようだが、困惑して少し周囲を見渡した。
「…」
「…!」
眠っている人物の布団の隙間から何かが穏やかな光を放ち始めたのが、天蓋のレースごしにも見える。一歩近づいた。はたして、夏美の首元にあるネックレスの中央が光っているのだった。
―――背中がかっと熱くなる。その熱が収まりそうにない。気づいた瞬間にうっかり声を出しそうになったが、かろうじて耐えた。気配がにじみ出ぬように心を無にして侵入してきたが、もはや無理だ。
なんて…うかつなことを。
《宝珠》を身に着けたまま眠ってしまったとは…!
ため息、いや、それもなんとか抑えた。
ネックレスの美しさに魅了されるのも仕方ない、仕方ないが…。
どうして、先祖伝来の宝物である《宝珠》をそのように扱うことが出来るのかわからない。いくら真珠に似ている外見をしていても、だ。
いや、今どきの若い人に悪気などはないのだろう。
そう悲しく思い、小言を言うようなみっともないことはしないように心がけてはいるのだが。
先ほどまでの華やかなパーティも、これまでのあの一族らしからぬ、目立つ振る舞いにも思えた。
若い2人の門出を祝すためだけではない、来るべき権力の継承を祝すためなのだろうが。全員が全員、やりたいと願ったわけではないだろう。反対したいが口をつぐんで我慢している人間のことまでも考えてのことなのか。まぁ、よそごとだから、自分にとってはどうでもいい話だが。
結局、力のある者が優位に立つのだ。劣後する者は従うか逆らうかしかないのだ。
やはり、彼らに任せてはおけぬ。
一瞬、躊躇したものの、夏美の首、いや、首元の《宝珠》に向かって手を伸ばした。
「やめてくださいっ」
と夏美が叫んだ。
慌てて手を引っ込めた。
予想もしていない位の素早い対応に驚いたせいで、ほぼよろけそうになり、後じさった。
それ以上騒いで人を呼ぼうともせずに、固い表情のまま暗い中で、気丈にも侵入者を見定めようと目を凝らしているようだ。
よろける侵入者に
「大丈夫ですか?」
と手を差し伸べようとした気配すらあった。予想外の優しさに、かえって動揺してしまった。
「あ、も、申し訳ございません。驚かせてしまいまして…」
と、つい口をついて出た。
問答無用というわけにはいかなくなった。丁寧に頭を下げる。
「ま、誠に申し訳ございません。突然、このようなことを致しまして。
怖い思いをさせてしまいました。…木藤でございます。
どうぞ、どなたかをそちらの呼び鈴でお呼びくださいませ。
ですが、お願いです。その前に、もしもよろしければ…。
図々しいお願いですが、少し年寄りの言い訳を聞いていただけませんでしょうか…」
と、ともすれば倒れそうになりながら、さらに離れるべく、後退する。
無意識にデスク近くの椅子の背もたれをつかんで息をつく。
およそ2メートルは離れたが、もう少し離れて床に座った方が安心してくれるだろうか。だが、股関節の痛みのせいで、這いつくばるようなことは、もう出来ないのだが…。
たどたどしい動きの必死さに心を寄せてくれたのか、か細い声で答えてくれる。
「ええ、わかりました。あの…、本当に木藤さんですよね?
声がそうですものね?
ああ、良かった。
それなら、その椅子に座ってください。
私も安心してお話をお聞きできると思います」
木藤は、ありがたい気持ちで一礼をする。それから、ゆっくりと椅子に座った。
たかが椅子の立ち座りだけで股関節が軋む。痛くない時もあるのだが、つい痛さを避けるようにのろのろと動く癖がついてしまったのだった。
どうやら、邪魔だてせずに自分が話を始めるのを待ってくれているようだ。
伸びやかに育てられた素直な気質、品の良さを改めて感じる。
明るい口調に聞こえたが、語尾が震えていたことに申し訳ない気持ちが募る。
当たり前だ。
怖くてならないはずだ。
数時間前に挨拶したばかりの老人が、いつのまにか勝手に自分一人の寝室に忍び込んでいるのだ。
しかも、どうやら術に対する心得はまるでなく、耐性すらないことは、本人よりも自分の方が良くわかっている。
…ホテルの着替え室の鏡に術を仕掛けて置き、それとなく試してみた時も、ほぼ素人の反応しか出来なかったようだから。
「勝手に、お部屋にお邪魔して驚かせてしまい、申し訳ございません。
もともとこの館に勤めておりましたから、実はマスターキーでどの部屋にも入れてしまうのです」
かすかにうなづいたようだ。
「お疲れの時に申し訳ありません。手短に申し上げます。
私は引退して隠居の身です。たぶん、二度とお目にかかれることはないでしょう。
そう考えておりますうちに、《宝珠》の扱いなどをご存じなのだろうかと心配になりました。
ずっと宝物を見てきた者の話をお聞きになりたいと思ってくださっているのでは、と。
それで、参上した次第です」
「はい…わかりました。私も、本当のところが知りたいのです。
自動車の中でもっと木藤さんのお話をお聞きしたいと思っていたんです。
だから、どうぞお話をしてください。長くても大丈夫です」
ね?と言うように、大きな枕をベッドヘッドにクッションのようにして座り直した。
「感謝申し上げます。お優しいお気持ちにすがらせてください。
私は神社に長らく勤めておりましたから、夏美様やラインハルト様よりも《宝珠》に詳しいのでお役に立ちたいと思うのです。
そして、…。
いえ。まずは謝罪をさせてくださいませ。
申し訳ございません。
私が、今その《宝珠》を奪おうとしたことに間違いありません。
泥棒みたいなことをしでかしました。ですが、理由を、その…言い訳をですね、」
「はい、理由をお聞かせください。言い訳みたいになってもいいです。
質問がなければ、私はこのあと邪魔もしませんので。
お話をお聞きしたい気持ちは本当なんです(笑)。ご遠慮なく」
「ありがとうございます。
古い伝統の宝物をアクセサリのようにパーティで身に着けておられたのを見てから、勝手に思い詰めておりました。
夏美様が、宝物の今後のことを一任されたとは伺いましたが…。出過ぎたお節介であることは承知の上で申し上げますが。
かつて神社に勤めて、私も運んだり扱わせていただいていた時には、それはそれは…厳しい戒めやら封印やらが施されておった大切な物でしたから。
失礼ながら申し上げますと、あまりに畏れ知らずのように思えました」
かすかにこくんとうなづいて、それでも黙って聞いてくれている。
「ラインハルト様から、どのようなご説明があったかはわかりませんが。
古来より伝わった物は、他のどんなものでもなるべくですね、…。
たとえ実感できませんでも、不思議な力があるという前提でお願いしたいのです。その方が安全です。
まず、畏れ、かしこまねば。
このことが最も大切なことです。忘れてはなりません。
つまりその《宝珠》は…大変貴重な宝物でありますと同時に、ある意味扱い方を間違えれば、報いや呪いがかかっているいわくつきのものとお考えくださいませ。
簡単に言えば、諸刃の剣とでも言いますか…」
いったん切った。が、うなづいて先を待ってくれているようだ。
「まぁ、例えて言うならば、…。
おお、そうだ。
先ほど皆様が演じておられた、あの劇の話を思い出してください。
たとえ正当な資格があり、純粋な気持ちで剣を取り戻そうとしている姫君にさえ、剣が自分の意思で抜けて攻撃してきましたね、あのような形で命を落とすことは、昔からあるのです。
あの…、すでになくなってしまった神社ですが。ずいぶんと古い歴史がございます。龍神様からいただいた宝物についても様々な伝説がありました。
恋する巫女姫様のために、あろうことか《劔》で《鏡》を斬ろうとした若者が命を落としたという伝説は、私も聞いただけなのですが。
ご存知でしょうか?」
「はい、《劔》が失われた時のお話ですよね?」
「そうです。
では、美津姫様のことは、お聞きなさっておられますか?
もともとご病弱の上、災害の時に、お身体に《宝珠》が入ってしまわれて、それで…。
医学の力ではなんとも出来ず、どんどん弱っていかれました」
「…はい、怖いことですよね」
「本当に、怖ろしいと感じました。
たしかレントゲンでも映らなかったと聞いたように思います。
お医者様の診たてより、どんどんお悪くなるばかりでした。祟られたのかもしれないということを否定しながらも、皆やはり心の中でそう思っておりました。
言い伝えられたしきたりを全て守ることはもちろん、勝手に大丈夫だろうと思っても、わからないことはしない方が良いのです。
それ位、怖ろしいものなのです。
扱い方のせいで事故に遭われる前に、私どものような神職や、専門の使用人にお任せくださればと思うのです。そのためにおりますわけで。
もとは龍神様にお返し申し上げる予定の宝物の一つでございまして。本来ならば、N県の、神社のあった場所のお塚に納めるもの。
身に着けたまま、うっかり休まれておられて何か事故でも起きましたら…取り返しがつきませんので」
「ごめんなさい。これからはもっと気をつけます。
正直に言いますと、私はまだ、きちんと理解できてるとは言えないままなのです。
ライさんと善蔵さまに根掘り葉掘り尋ねたんですけどね。
それでも良くわからないので。
また何か大切なことを学んだら判断も変えるかもしれませんが、とりあえずライさんがお守りとして保管している現状をそのまま維持しておくつもりでした。
ライさんは、木藤さんたちにお任せなどしないで、自分でずっと保管していたのでしょう?
とりあえず、それで災害のようなことは何も起きないで来ているので、それで良いように思っています」
「そうですね、その通りです。
残念ながら私どもにお任せくださったりはしませんでした。
もちろん、折に触れてご助言も小言も申し上げてきましたよ(笑)。
本来は、龍ヶ崎神社の宝物でございますから、神社の最後を見届けた身としては我慢をしていたというのが正直なところです。
長年の言い伝えでは、龍神様に残りの宝物をお返し申し上げることになっておりました。
しかも、神社はダムを建設する際に無くなって、最後の巫女姫様が亡くなられてしまったのですから。
それでも、ラインハルト様は…いざとなれば…。
お聞きになっておられますよね?
つまり、魔法を使って対処できる方ですから、」