132 《地に平和をもたらしめよ》 (5)
車の中で、夏美はラインハルトと真凛と柔らかいクッションに囲まれて幸せを感じていた。
ライさんの高級車にもだいぶ慣れた。
夜の外気は冷たいのに、ちょうど良い暖かさに保たれた車内。運転手の方々がいつも気を配ってくれているので、空気は清浄で微かに夏美の好きなオレンジ系のほのかな香りが漂っている。
お行儀も気にしなくて良いらしい移動なんて、快適でしかない。おかげで、上等なソファに座ってしまうと条件反射的にリラックスして寝てしまう癖がついてしまったほどだ。
今日は木藤さんが神社の話をしてくれそうなのに、すでに寝てしまいそうになっている。
もったいないと思うけれど、踏みとどまれるかどうか自分でもあやしい。
寝る前に絵本を読んでもらう子供のように気持ちはワクワクしているのに、まぶたが重くなって閉じていくのがくやしい。
しかも木藤さんの話が始まる直前に、なぜかアクセサリの話にそれていってしまう。
真凛も寝そうになっていて、忘れないうちにと珊瑚の話題を出したので、ライさんが嬉しそうに身を乗り出したからだった…。
木藤さんにはいつも色々と褒めてもらえる習慣があったようで、工夫した点まで説明したいと、呆れるほどの早口で話している。ほぼ独壇場だ。
口を挟むと、かえって長引いちゃいそうな気配…。
「ええと、他には…。
あ!そうだ、イチオシのヤツの感想を聞きたいな!
夏美の胸を飾っていた”真珠”を見てくれたかい?
ウィンナーワルツの時のヤツだよ?
とても良く似合っていただろう?」
というライさんの発言に、寝かかっていたはずなのに驚いて目が開いてしまった。
だが、どうやら慌てたのは夏美自身だけみたいだった。真凛はほぼ寝てしまったようで、とくに反応はない。
木藤さんは…どう思っただろうと考え始めたけれど、あ、そうか、とすぐに夏美は納得した。
先ほどからの話によれば、木藤さんは神社関係者みたいだった。
善蔵さまともご縁が深く母の真琴のことも見知っていたから、故郷を離れてしまっている私たち家族よりも宝珠のことを良くご存じなのかもしれない。いや、もしかしたらもっと…善蔵さんと同じくらい何か宝珠について説明出来るくらいなのかもしれない。落ち着いた時にもっと話が聞きたいくらい。
でも、こんな時にライさんがいきなり宝珠の話を切り出すなんて…少し違和感。
木藤さんは、ええ、ええと鷹揚にうなづいている。
「まことに夏美様ともども、輝き合っているように見えました」
「ああ、僕は本当に木藤にあれを見せてやりたかったんだよ、感動的だよね、」
と嬉しそうにするライさんと対照的に、木藤さんは慎重に答えを選んだ感じだった。
「ええ、感動しましたのですが…、あれはただの”真珠”ではありませんので、そのう…」
たぶん、ライさんの暴走にある程度慣れている木藤さんも、ちょっと困っているのじゃないかしら、と思う。私もなんだか木藤さんの方に同感。
木藤さんは、初対面の私がどこまで宝珠のことを知っているかわからないのだから、ここでいきなり本格的な話をして良いのかと逡巡しているに違いない。
「大切な物でございますしね、ええ。
晴れがましいお披露目よりも、今後もきちんと保管してくださいませと…お願いいたしたく、」
と言うのにとどめてくれているようだ。
ライさんもさすがに、気まずそうにしている木藤さんの気配を感じたのか、口調がゆっくりになった。
「うん、軽々しく扱うものじゃなかったね。
…わかっている。
安心して。いよいよなんだよ。
…木藤に見せてあげられたから、ついつい嬉しくて。
ふだんは、元の木箱にしまって厳重に保管をしているんだよ。
僕はね、自分でも悪さはしないよう特に注意しているから(笑)。
そこまでの力量は、もともと無いからね」
「おお、それはようございました」
と、木藤さんの声がする。安心してくださっただろうか。
なんとなくライさんに慣れてきたように最近では思っていたけれど、私もたまにこういうちょっとしたことで驚かされる。
育ってきた環境、文化が違うのだから仕方ないのかも。
日本人的な、”周囲に配慮して空気読んだりしてから、行動する”とかも、正しいとは決して言えない。先回りして判断されてしまう側のニーズにぴったり合えば良いけれど、そうじゃないと相手は余計に居心地が悪いということになりかねない。
だから、けっして日本風のやり取りの仕方にして欲しいというわけではないけれど。
最近、ライさんの私に対してのちょっとした気遣いが減った?(笑)みたいなのをちょこちょこ感じる。
もうすでに同じ土俵に私が立っているみたいに考えて、前提説明を省いている気がする。
「え?そんな話?
全然、伝わってないんですけど、」
って言えてしまう自己主張の強い私で良かったわよ、ある意味。
お行儀の良い人だとネガティブになるかもしれないし、ぽんぽんツッコミみたいに言えないじゃない。
本当にそうよ!
と夏美は、ほぼ眠りに落ちていきながら胸の中で呟いている。
呟きは、合唱のように響いている。
言いたいことが溜まっているのかもしれない…私ってば。
ああ、今日のライさんは、特に暴走気味だったわね。
そうだったかしら。
でも、嬉しかったわよね。
夏美の中で夏美が答えている。
確かにそうね。
でも、嬉しいサプライズになったのよ。
最後のウィンナーワルツで身に着ける予定の首飾りは、もともと違う真珠のネックレスのはずだった。
それなのに。
直前になって、ライさんは満面の笑みで宝珠のネックレスを見せたのだった。
私の驚く顔を見て、ライさんは得意そうに
「サプライズ成功だね♪」
と子供のように喜んでいたけれど、私は驚きすぎてしまっていた。
心の準備、どうしてくれよう…。
嬉しいけど、不安なのに…。
ねぇ、私たちの《宝珠の謎解き委員会》の重大懸案事項そのものじゃないの!
そういえば、委員会の会合は…最近ちっともやっていないわよね?
現実的な生活準備に追いやられて、脳内マヒして忘れ去られていたってわけで、お互いに責任があるわけだけど。
そんな風に、私が忘れている間にも。
ライさんは、一生懸命一人で宝珠を渡せるようにと工夫していてくれたのね。
ああ、あの時もたくさんの感情が押し寄せてきて。
そして、そんな内心を上手くライさんに説明出来なかった。
リハーサルだけで、そんな暇がなかったもの!
サプライズより、心の準備のための予告が欲しかったと言いかけたんだけど。
それでも、ネックレスを身に着けてみると、とてもフィットしていたわね!
それは本当にそう、
心地よかったのよね、あんなアクセサリは今まで身に着けたことがない。
ライさんが身に着けていた時も色々とあった宝珠。
かつては、美津姫様の身体の奥に入ってしまったという宝珠。
昔からの、大切な宝の一つ。
それが私の首元にしっくりと収まっている。
ライさんが微笑みながら、尋ねてくれた。
「どう?気分は?
高揚する? それとも違和感がある?
不具合があるんだったら、すぐに外すけれども…。
ずっと、どうやって夏美に渡すのが一番良いのか考えていたんだ。
今の夏美に一番似合うものになってもらわなければと、毎日祈りながらデザインを考えていたんだよ」
それは、他のアクセサリに関してもそう。
飾られている宝石のための表側の美しさを表現する工夫、だけではなくて裏側の身に着ける人の肌に当たる部分までの細やかな工夫を見れば、ライさんがどれほど繊細な心配りが出来る人なのかわかる。言葉で説明してくれなくても、自分に理解できることがありがたいと思う。
宝珠に呼応して、私の胸の鼓動がトクンと嬉しそうに鳴ったことは、説明しなくても瞬時に伝わったみたいだった。
「ああ、良かった。
嬉しそうだよね?
今の、着けた時のフィーリング、僕も感じることが出来て嬉しい。
本当に…すごく似合っているよ。
やはり、君なんだね。
これを継承すべき人は。
揺るぎない真理は、安定しているし、美しいね」
私も、鏡の中の私を見て、嬉しく思った。
宝珠を留めている金具もまた、月桂冠の葉のようなリーフ柄が細かく丁寧に施されていて好ましい。
嬉しい気分を共有出来て、不安が消えていく…
心のどこかで、私にはフィットしないのではないかとずっと思っていたんだけど…
だって、自分の中にお札か、それとも宝珠に関するなにか、もしかしたら古の誰かがいてくれようとも、それを感じることが出来たとしても。
巫女でもない、姫でもない、ただの夏美が宝珠を預かれるに足りる人間になれる気がしなかったのに。
そうよ、分をわきまえよって言われていたのよ。
おばばさまがあんなに心配していたのよ。
でも、宝珠さんがとても機嫌が良いような気がした。
違和感なんて、なにも感じないことが嬉しかった。
それでも、気づかないうちに私の手が震えていたみたいで、ライさんが自分の両手で手をそっと包んでくれたのだった。
「大丈夫。
ちょうど良いタイミングを見計らったつもりなんだよ。
ちょっとずつ慣れていこうよ、このことも。
僕の…妻になってくれることで、色々と修行みたいになっていて、かなり気疲れもしていると思う。
だから、僕はちゃんとサポートするからね。
それと、この宝珠だって君が身に着けるかどうかは、もちろん夏美の判断に任せるさ。
でもね、今日は良い予行演習みたいなものになると思う。パーティで気分高揚ついでにさらっと身に着けて踊ってみて欲しかったんだ、」
「え、こんな大切な物を身に着けて…踊るというの?」
そのまま、少し着替え室の前の廊下で、2人で踊ってみた。
いつもよりももっと、スムーズだった。
私は、宝珠を身に着けたことで、かえってターンがしやすくなったことを素直に伝えた。
ライさんは嬉しそうだった。
「そうなんだよ、良くそこに気づいてくれたね?
やはり宝珠を身に着けていると、シャキッとするというか。
体幹も鎧に守られているみたいになるだろう?
劇の最後のウィンナーワルツは小刻みのステップで円を描くから、本当にちょうど良いんだよ。
体幹がぐらつかない方が、ぜったいに楽なはずなんだ。
他の真珠とは違って、もともと少し重量感があるけれど、そこまでの重さじゃないし。
うん、ターンした時も勝手に遠心力で浮いて動くかなと思ったけど、本当に夏美の首にフィットしているね。
まるで君と一体化しているかのように」
そうね、でも教わった戒めの言葉は守らなくては…
大切にしなくては…
装着した時に、唱え忘れてしまったけど、何も起こらなくて良かったわ…
ああ、眠い。今はライさんがちゃんと持っていてくれて何の心配もないけど。
そうよ、とりあえず…『劔』は今は持っていないし…。
ああ、どうして劇も『劔』つながりだったのかしら?
遥は、最初シンデレラみたいな話にしたいって言ってたのに…
大丈夫よ、おばばさま。
木藤さんもきっと安心したわね、ライさんとお話して。
分をわきまえよ。……そうよ、そうだった…。
私たち絶対に気をつけているわ、ライさんが役目を果たせるように…
車内は、静かになった。
木藤は、要望をラインハルトに伝えた。
「これまで幾度も言ったことですが。
いずれ、祠におさめられるのが一番良いと思います」
「ああ、そうだね、もちろんだよ。
全て無事に神にお返し申し上げられれば、と僕も願う」
祠ですって?
ああ、そうね…
もう神社ではないって言っていたわね、たしか…
それでも。
どこかで巫女姫さまたちが舞っている…
きれいな湖が広がって…林の切れ間で、たまに空の雲を映しているのね、鏡のように…
湖に朝露が落ちて、ちゃぷんと音を立てる…
ああ、…懐かしい…優しい…音
黎明の星に向かって飛んでいて…
女神さまは諦めずにいてくださっているでしょうか…
木藤はまた、そうっと夏美と真凛を見た。
先ほどまでときどき律儀に相槌を打っていたけれど、今は主従寄り添うように眠っている。
安心しきった2人。
その光景がほのぼのしていて、胸を打つのだった。
ラインハルトは、木藤の視線の意味がわかるようで、微かにうなづいた。
木藤は、うなづき返す。
自分のまなじり、頬が濡れている。年のせいだろうか、最近は涙もろくて仕方がない。
ああ、そうなのですよ、ラインハルト様。
お懐かしいですね…。
後藤さんと美津姫様もこのような瞬間がありましたので。
ああ、本当にあの方は…。
宝である宝珠よりもさらに輝いておられたのに。
思えば、天女のような方で。
子供とは思えないくらいの才能と美しさをお持ちであった。それはもう、ラインハルト様に匹敵するくらいかと思ったほどだったのに。
そんな姫様も子供っぽく後藤さんに甘える時があったのだ。
それが一番幸せだったかもと思う。
ふだんの姿とはギャップもあり、本人も他の人の目を気にして隠してはいたけれども、子供らしい姿にホッとしたものだ。
唯一そんな時だけだった。
研ぎ澄まされた神経もすべて無にして、空中に埋めて隠してしまったかのように。
本来ならば、そんな子供らしい姿が本当の姿なのだろうに。
あまりにも不思議なくらいの大人びた天才としてお生まれになってしまったのだ。術も、それを支える力量も、あっという間に成長させてしまっていた。
善之助様も、周囲の我々も、その当時は、姫様の天才ぶりが信じられないほどの喜びだったのだ。
赤子のように安心した眠り。
ああ、もしも命を縮めるような力の発露を失ってもいいくらいに。
智も才も力も捨てて。
安らぎを望んでくださっていれば…運命は変わっただろうか。
いや、安らぎよりも…あの方は恋する方の支えになることを望んだのだ…。
ラインハルト様のことを想い、そして…。恋の嬉しさと恋の不安に揺すぶられて。
…。
なぜ幸せな時は長く続かなかったのだろう…
なにが…間違いだったのだろう…
砕けてかけらになったはずが、自ら集まって宝珠に戻るという奇跡が起こるというのなら…
そのお力で…
他のささやかな望みを叶えてくだされば良かったではないか…
ああ、今は亡き宮司様。
私には何も出来ませんでした。
いくらお身体が弱くても、寿命の尽きる運命であっても、ああ、無駄なことばかりであっても。
それでも。
後藤さんを含め私たちは、姫様を全力で守り抜くべきはずであったのに。
力のない者は、ただの傍観者でいるべきなのでしょうか…。
このもどかしい思いのまま…。
手を伸ばさずに我慢をして、ただ祈るべきなのでしょうか…。
それとも…。
♣︎♣︎♣︎♣︎♣︎
「シルクはあんまり、とおっしゃられたものですから。
上質なコットンで誂えておきました。
試作品ですので、また何なりとお申し付けください」
と、姫野さんはすっかり執事の顔に戻り、丁寧に説明してくれる。
「まぁ♪
お手数をおかけしてしまいました。
とても素敵です」
「夏美、良かったね。
とりあえず今日はここで寝てみて、また今後どういう寝具だったら快適か考えてみようよ」
「紋章の刺繍は、中央でなくても何でも良いということでしたので、色々と作ってみましたが、本日はちょうど枕の横に見える位置のものを…。
それと、いえ、失礼しました。ご説明はまた今後に致しましょう。
小部屋に誰か、おいておきましょうか?」
「あ、いえいえ。大丈夫です」
と、夏美は慌てて手を振った。
夏美とラインハルトの寝室は隣り合っているが、双方とも主だった部屋に小部屋、バスルーム、ミニキッチンが付いているスィートルーム仕様なのだ。
小部屋にベビーベッドを置いていたり、ペットの部屋にしているという人もあったり、かつての慣習を踏襲して小間使いを置いておくということもできたりするらしいと聞いたけれども、まだ全然慣れない。
「僕が小部屋にいてあげようか♪
ベルの音に反応して飛んでくるよ?」
「お気持ちだけで結構です♪」
「まぁ、僕達の部屋は間の2部屋の鍵をかけないでおけば、廊下に出なくても行き来が出来るから、用があったら言ってね♪」
「ラインハルト様。貴方もどうぞゆったりとお休みくださいませ。
先日も申しましたが、夏美様。
とくにラインハルト様を煩わせなくても、ホテルに似ていると考えていただければ。内線電話でなんでもお申し付けください」
「とくに、ってなんだよ(笑)」
と言うラインハルトをさえぎって、夏美は言った。
「ありがとうございます」
続き部屋の鍵をしっかり閉めておくことにしよう(笑)
「24時間対応ですので、私どもにはご遠慮なくお願いします。
内線電話で当直の者を呼び出していただきますように」
「枕元には、お守りをちゃんと置いて眠るんだよ」
「ええ、ありがとう、ライさん。いるかのソフィーもいるし、良く眠れそうよ」
♣︎♣︎♣︎♣︎♣︎
夜明けを待つときは、空が暗すぎる。
黎明だ。
もう2度と朝が来ないと疑う者に、いつか誰かが教えるだろう。
夜明け前のそのひととき、黎明が一番闇が深いのだということを。
その言葉が、力づけてくれることもあれば、かえって望みを失わせることもあるだろう。
明けてくる朝の空が、青空である保証はどこにもない。
今まさに、空の遠くで鈍い光がまたたいて、雷鳴が咆哮した。
夏美の部屋の扉の鍵が、かすかな音を立てて外れた。
足音もなく、人影が室内に滑り込んでくる。