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理解不能の、弱い蒼  作者: 倉木 碧
13/148

12 《光と闇の狭間に立つ誓いを》 (3) ー ☆ ー

 

 木藤はラインハルトのスマホを持って、本人を探していた。

 自分の部屋で休養しているのだろうと思って東館の3階まで上がって来たが、当てが外れた。ノックして声をかけるが返事はなかった。

 諦めきれずにドアが開くか試すと、簡単に開いた。

「鍵もかけていらっしゃらないとは…」

 溜め息をついて、周辺を見渡す。

 机の上は、今日はまあまあ片付いているほうだ。書きかけの手紙の下書きや、何かの図案を大雑把に積み上げて寄せている。つい整頓したくなるのを我慢して通り過ぎながら一番上の落書き絵をちらっと見て、キッチンの冷蔵庫の中をチェックしに行く。

 いったい、何の絵だというのだろう?

 あまりにわからなさすぎて、つい考え込んでしまう落書きだ。

 絵を描くのがとても上手なハインリヒと違って、ラインハルトの絵はいわゆる画伯過ぎて訳の分からない絵なのである。

 犬か猫かわからない四つ足動物が‘伏せ’の姿勢で、いや、四つん這いの姿勢か?模様のついたボールみたいなものを前にしている。


 ようやく腑に落ちて、つい声を出して笑ってしまった。腑に落ちたのは、何が描かれているかわかったわけではなく、落書きが描かれた背景のことである。

 やはり、先日の姫野の提案をやってみることにしたのかもしれない。

 パーティの趣向で、ラインハルト他数名の画伯?が出されたお題で真剣にイラストを描き、何が描かれているか当てるクイズをするとか言っていた。正解絵はもちろん、ハインリヒが描いておくらしい。

 …ハインリヒ様も大変だな、いろいろ引き受けなさってお忙しいだろうに。

 退出する前にと再度机の上を見たが、やはり何度見ても難問過ぎる。とりあえず、四つ足動物で間違いないだろう。魚でも鳥でもないことがわかっただけでも良いかもしれない。こういう場合、消去法で誤答をつぶしていくほうが確実だろう。動物の目の前に置かれているのは、とりあえず丸いからボールに近いもので、いや、何かプレートや皿の類かもしれない。きのこではない、いや、待て、きのこの可能性も捨てがたいか…。

 数分後、木藤は我に返って慌てた。こんなことにはまっている場合ではない。

 古いだだっ広い洋館を歩きまわっているだけで疲れてしまったので、他についでにやっておける用事はないか確認する。

 ベッドそばにラインハルト愛用のバックパックが置いてあるのが見えた。一泊旅行に行くような用意がしてあるようだ。ああ、明日はお出かけになる予定だったか。台風が来るかもしれないのに。天気予報を再度確認して差し上げなければならない。


 木藤は腰の後ろを軽く叩いて痛みを散らしながら、重い足を引きずって本館に戻る。そこで情報を得て西館1階のリハーサルルーム(兼室内運動場)まで行く羽目になった。

 そこは、彼が最も立ち入りたくなかった場所である。


 ダンスや訓練に使えるように頑丈な樫を用いた床の下に軽くスプリングを入れてあり、身体への負担を軽減させている、まるで体育館のホールのような仕様だ。と言っても、高い天井から吊るされているシャンデリアはスワロフスキーのクリスタルガラス製である。

 いざとなったら小さなパーティが出来るくらいの規模なので、天井の裏にはミラーボールや現代的な照明が隠された状態で備えられている。もちろん音響の装置も備わっている。改装されてからは、壁紙なども明るめの色に変更されたが、未だに壁も眺めたくはない。


 30年前にラインハルトが、ふざけて自分で(と、彼は証言した)小型ナイフを壁に仕込み、避ける練習を重ねていた場所でもあった。どちらかというと華奢なラインハルトは、重量級の戦士には太刀打ち出来ないので、防御中心で攻撃してもすぐに退避して間合いを稼ぎつつ、意外な反撃を繰り出す戦法を得意とした。誰もがラインハルトに遠慮してナイフなどを投げたがらないので、訓練のために変な仕掛けを作り出したものらしい。

 開いた窓から野良猫が入ってきたので、ラインハルトが庇おうとして失敗したという話に最後は落ち着いたが、あの怖ろしい光景は死んでも忘れられないだろう。

 ラインハルト自身の命令ですぐに箝口令がしかれ、主だった者しか事情を知らされてない。自分の心の底には、その時の澱が沈んだままだ。

 ラインハルトが復活してからはまた、ふとした瞬間に心がかき乱されてしまうことも多い。スノーボールのおもちゃを振ったかのように忌まわしい澱が瞬く間に乱舞する。狭い小さなスノーボールの中で、それが自分を取り巻き、責め立ててくる。その澱が静かに沈むまでの間、自分は一人、誰にも相談できずにただじっと耐えているのだ。

 ここには、ろくな思い出がない。


 武道の訓練は30分も前に終わっており、他の参加者は全員、ラインハルトを一人残したままひきあげてきて、本館でお茶を飲むなどのんびりしていた。なぜ、あの方を一人で置き去りに出来るのか、旧式の人間である自分には良くわからない。今いる人間は、あまりに無防備すぎる。少し小言を言えば、のほほんと言い訳を並べてくるし、こちらがどれだけ辛抱しているか知りもしないで…。木藤は、のろのろと部屋に近づく。

 改装されたおかげで、廊下の内窓から部屋の中を確認できるようになっている。そこから部屋の中央に一人でいるラインハルトが見えた。

 難しい技の練習でもしているのかと思えば、普通に手を振って前に歩いてみたり、そこからいきなりかなり速いスピードで後ろに飛びすさってみたりの繰り返しをしている。ふざけていることも多いのだが、真剣に何か取り組んでいるようだ。ダンスのステップかと思いきや、そうでもないらしい。…?


 ノックして部屋に入ると、ラインハルトが照れたような笑顔を向けてくる。つい、沢山の小言を言いそうになる自分を抑えて木藤は言った。

「…ご熱心なことですな…」

「手と足の連動が、どうしても上手くいかなくてね。

 元はと言えば、そうだよ、あれだ!

 木藤が教えてくれたナンバ式なんだけどね、原理は頭でわかっているのに、歩いているうちに、いつもの歩き方になってしまうんだよ。

 木藤も僕達と一緒に訓練をして、見本を見せてくれればいいのに」

「…ラインハルト様、ご勘弁ください。もう私には無理ですよ。

 私は腰痛だけでなく、最近では股関節痛までありますから。お屋敷の中を歩き回るだけでも辛くて、もう情け無いありさまですよ、かつての鍛えた全てを忘れ果ててしまいました…」

「そうか…。アドバイスだけでもと思ったけど、木藤は元々武道の達人だから、逆にここに来るのも辛いんだね。ごめんよ」


 ここに来るのが嫌な理由の一つに、あの事件があったからだと木藤は言いたいのだが、当の張本人のラインハルトがまるで気にしてないのんびりようで、馬鹿らしくなってくる。

「いえ、…まぁ。もっかのお悩みは、その歩き方のことですか?」

「うん、あのね。西洋の歩き方と日本の古式武道の歩き方を上手くミックスするつもりで練習していたはずが、身体に染み込んでいなかったんだね、迷いが出て、それが解消出来ないんだ…」

「何かあった時に咄嗟に身のこなしが上手くいかないということですか?」

「そう、そうなんだよ!

 ほら、考えてから動くのじゃなくて、反射という感じで自然に動きたいのに。やはり僕はそんな“際”の瞬間にまで結局[自然に動こうとしなければ]と考えてから動いているみたいだよ。…やればやるほど迷いが生じてしまう」

「迷いですか、それは良くないですね。つまずいてしまったら危ないですよ。

 迷いを解消するには、やはり地道に練習するしかないかもしれないですね」

「…⁉︎

 …まぁ、そうだよね、練習不足なんだよね。何年もサボっていたわけだし。

 …杖捌きもそうなんだ。前は迷いなく振ることが出来たけど、迷うようになったんだ。

 やはり、迷うのはマズイよね?

 僕は次の段階に行けると思うかい?」

「…私もそうでしたが、やはり地道に練習するようにとしか申し上げられませんね。

 …それよりもメールチェックのお時間ですよ?」

 と木藤がラインハルトのスマホを差し出す。


 まだ何か足捌きの動作を繰り返すようにして床を見つめていたラインハルトだったが、慌ててスマホを受け取った。

「ああ、ありがとう。

 …便利な世の中になったものだね。スマホを最初に見た時は驚いたよ」

 と言いながら、ざっとチェックする。

「30年前には、兆しはあったものの、このように小さな物で電話とパソコンの役割を持たせるようになるなんて、想像もしていなかったと思います」

「うん、そうだね。ちょっと待ってて。今、二つ三つ返事を書いたら、また預かってもらうから」

「はい、どうぞ。ごゆっくり。失礼して座らせていただきますね」

 と木藤は言葉を切って、壁際のソファに座る。

「スマホを返さなくていい、とかそういう選択肢はない?」

 と、いい笑顔でラインハルトが聞く。

「申し訳ございません。…やはり本国のフローベル夫人にもう一度伺いましょうか?」

「…いいよ。だいたい君達が婆やに言いつけるから、こんな、面倒くさいことに」

「スマホを手に入れた後に、勧められたからとか言っていきなりゲームをやり始めて、その後寝る間も惜しんで遊び、体調を崩されたお方がいけないと、私は思いますけどね」

「……」

 メールの返信に夢中になっている振りをして少しムッとしたまま返事をしないラインハルトの横顔が昔ながらのやんちゃな様子で、木藤は笑ってしまいそうになるのをこらえた。

「やはり、ラインハルト様のお身体が第一なのですから。

 先日の報告書の中にもありました通り

 フランス国内に置かれてる研究所では、…」

「わかってる、一族独自のスマホを開発しているとか言うんだろう?

 でも、…ゲームは禁止とか言って来そうな予感」

「ラインハルト様に降りかかってきそうな毒と害悪は、前もって私共がすべて排除させていただきます(笑)」

「あのさ、ゲームも日本文化だよ、立派な。

 広い意味で、僕の勉強の一環と言えるかもしれないよね?

 だいたい読書だってなんだって、文化はある意味、まさに全部!毒なんだからね」

「その通りでございます。…かしこまりました。これからすぐに立ち戻り、図書室にある本を全て排除する手配を致します(笑)。

 それから、あの、先日の膨大な書類の山も廃棄致しますか?」

「やめてー。本まで取り上げないでくれ。本は節度を持って読むから、婆やも本は電磁波なんて発しない、くらいは納得しているから(笑)。

 あーそう言えば、あの報告書と資料の山を全て監修して紙で作成してくれたのは木藤なんだってね、手間だったろう?

 どうもありがとう」

「ああ、いえ、パソコンの中の保存書類も全て紙に印刷してお見せしろと本国から指令が飛んできたので」

「…徹底しているな、とことん。そんなことだろうと思ったよ。

 僕だって、自分が選んだ仕事が自然を相手にするものだと充分理解している。

 でも、婆やはね、仕事が上手くいかないことと、最新の人工物による弊害の相関関係なんて立証されていないのに、そんなの考えなしでいろいろ言ってくるし。

 だけど『訳の分からない、ありとあらゆる電波がお身体を蝕むかもしれないでしょ』と言い出したら、もうどんなデータを持ち出そうとも婆やには勝てないんだ」

「はい、フローベル夫人は、最高の料理人にして最強のお方だと思います」

「うん。とにかく大事な仕事を成功させてから、婆やを攻略してみる。婆やに勝てるようにならないといつまでたっても僕は、坊や扱いだからね。

 書類は全部読み終えて、必要な物と処分する物と分けたから、僕も何か手伝おうか?」

「あ、いえ。廃棄する方は私どもでやりますので。

 ラインハルト様には大切なお仕事が…。

 それに…やはり、明日はN県までお出かけになるご予定なんですね?」

「うん…。明日ならまだ台風の影響は来ないと思うからね。

 木藤も一緒に行って欲しかったんだけど、やはり駄目なのかい?」

「申し訳ございません。私は小さな用事がありまして。

 少し前に私も出かけて行きましたが、昨今ではかなり行くだけで疲れる場所になってしまいましたからね。

 村はすでに無いですし、国道から少し上がった所に車を停めて徒歩で山道を歩くのですが。目印の石標が苔むしているとわかりにくいのでご注意くださいませ。

 …古びた祠は残っていますが、確かだいたいの場所は覚えていらっしゃいますでしょう?

 龍ヶ崎神社の鳥居も今では撤去されてしまいましたので、分かりにくいと思いますが。

 お山の権利は、龍ヶ崎様の会社にまだあるからよろしいのですが、送電線やら通ってますから、様相は一変しておりますよ。

 ただ、村の者達の眠るよすがとして祠やお塚は残していただけてますから、そこさえわかれば」

「山本が運転して行くから、大丈夫だと思うけど。僕の記憶もあやしいような気がするけど、どうしても行きたいんだ。

 お塚に。…その、お参りをさせていただきたくてね。

 デートするのは初めてだから、その前に色々終わらせておきたくてね」

「なるほどですね。明日、山本が一緒に行くなら私も安心出来ます。

 デートと言えば…。

 …ラインハルト様のお心は定まったのですか?

 美津姫(水津姫)さまが生まれ変わってきたのかどうか、良くわからないので混乱されていると先日、おっしゃっておられましたが」

「うん…。

 正直、僕はまだ混乱している。

 情報が少なすぎるし、参考になりそうなものは見つからないし、すべて初めてのことだからね。

 夏美さんは、占い師が予言した年の生まれだし、山本達が調べて来てくれた通り、多津姫(田津姫)さまの子孫であることは間違いないし、僕が会った時もなんとなく形質は遺伝しているように思えた。

 だけど、美津姫の記憶を受け継いでいない以上、同一視してしまうのは、今まさにこの現代を生きている人に失礼かと思ってね。

 もしも本当に美津姫が遺してくれた言葉通りに、彼女自身が生まれ変わってくれたのなら、真っ先に内藤と木藤には会わせてあげたいと、ずっと思っていたんだけど。

 今のところ、夏美さん本人はそんなことと全く関わりなく幸せに生きてるみたいだから、別人だと思うしかないんだ。

 …すまない。だから、この先どうなるかまだわからない。

 でも、確かなこともある。

 はっきり認めなくてはいけない。

 美津姫は、僕を助ける為に、あの時、あの場所で亡くなったんだ。

 改めて僕が彼女を助けることが出来なかったことを、守り人であった君達にお詫びしたいと思う」

 言葉を切って、ラインハルトが木藤に向かって頭を下げる。

「いえ…、私共こそは、あの時何も出来ませんでしたので…。…まことに申し訳ございませんでした…」

 木藤の語尾が震える。

「あれから僕は、彼女が死んだことを受け入れることが出来なくて彼女の遺してくれた言葉に縋っていただけで、現実から目を背けていたんだと思う。

 いつかまた逢えると思うことと、あの子がくれた宝珠が僕の生きていく力の源だった。

 混乱はしているけど、心を決めて前に進もうと思うから、お塚に行って、彼女や善之助様達の魂にお詫びしたいと思うんだ」


 木藤は言った。

「でも、やはりラインハルト様は、宝珠を諦めたわけではないのですよね?」

「うん。…それはそうだ。

 元々、僕が日本に来た目的は、本来、そこにあるわけだからね」

「…美津姫さまがお渡しした宝珠だけでは、まだご満足ではないのでしょうか?

 …申し訳ございません、嫌な申し上げようをしてしまいますが」

「いや、大丈夫。

 君達が反対しているのは、十分わかってる。本来なら日本にあるべき宝だものね。だが、打ち捨てられたまま朽ち果てていくだけなら、活用させて欲しい。

 結局、一度僕は失敗してしまったから、信用してくれと言い切れないけど。かつて龍ヶ崎神社の宮司であられた、善之助様が僕に託してくれたことを一つも果たしていないんだからね。

 今度こそ、とはもちろん思っている

 僕には、継承者の義務がある。大大祖父様が、神の定めた寿命という自然の摂理を曲げてまで願った理想郷の思想の為にも、新たな杖には東洋の宝珠の力を必要としている。

 だけど、無理じいはするつもりはない。

 僕の一族は、勝手に西洋と東洋の融合という理想を抱いて乗り込んできただけで、君達の視点から見れば、ごたくを並べている泥棒か悪者にしか見えないのだと思うけど…」

「ですが、どうしても必要ならば、あの時私共が抵抗していても…無駄だったですよね」

「……」

「ラインハルト様のお力をそばで感じたことがあるから、私にはわかりますよ。結局は、互いに無駄なことですよね。お優しい顔で理を説いて私共を迎えいれてくれなくても、ラインハルト様は簡単に目的を達成できる方法があると思いませんでしたか?」

「…うん、たぶん目的が宝珠を奪うだけなら簡単だと思う。木藤が今言ったことは、一族の中でも言われてるし、僕ももちろん選択肢の一つとして考えた。

 でも、僕は中原で青龍王にお仕えしている人に会った時と同じくらい、日本文化にも日本で生きている一人ひとりに対しても畏敬の念を持っている。無用な争いは避けたいし、ましてやだれかを蹂躙したくはない」

「夏美様には…?」

「…え?」

 一瞬、頰を赤らめたラインハルトを見やって、木藤は心の奥で澱が揺すぶられるのを感じた。この人は、あの時から変わっていない。

 確かに純粋な優しさをお持ちなのだろう、自分からまっすぐに誠実な優しさをもたらせば、自分にも同じものが返ってくると信じている。理性的な人間像の幻想、理想郷の幻想を抱いた純粋培養されたこのお方はなまじ力を持っていて現実社会を知らないまま、確信を持ったつもりでいる。既に何人も犠牲になっているというのに。


「ご慎重になさってくださいませ。くれぐれも…。祈るような気持ちです」

「うん、ありがとう。ところで…。

 一つ別のことを聞いていいかい?」

 と言って、自分の携帯を木藤の手に渡す。

「はい、私で分かることでしたら」


 ラインハルトは真面目な顔で、木藤を正面から見つめた。

「内藤のことを教えてくれないか。今、どこにいる?

 書類のどこにも、内藤の名前が無かった」

 木藤は、うつむいた。

「ええ、そうでしたか。それは、たぶん…私のミスでした。

 内藤は、彼はもう亡くなったんです。お塚に…眠っています」

「え?いつ亡くなったんだ?

 誰も話題にしないから、僕はつい最近まで、ただ人事異動かなにかで会えないのかと思っていたんだ」

「あまり良い話ではないので、ラインハルト様のお耳に入れたくなかったのかもしれません」

「え?…いったい何があったんだ?」

「あ…申し訳ありません。

 あとは、ラインハルト様のお心を騒がすのも…ためらわれることでして。

 実は私もお聞かせするのも辛いのですが、ラインハルト様が…」

「構わないから、話してほしい。お願いだから」

「…ええ、ですが、私以外の方がどなたも内藤のことを申し上げていないのなら…」

「…皆に心配させてばかりで、そこまで庇われる自分が情けないよ。

 君にとっても辛い話なんだね。でも、それでも、頼むよ。他の誰かから聞くよりも盟友だった君から聞いた方が確実じゃないか?」

「確かに…」

「僕は、君達からの情報を元にして動けるんだよ。何があったのか教えてもらわないと困る。僕の不在の時に一生懸命に皆がやってくれただろうことを頭ごなしに否定して覆したいわけじゃない。

 もちろん、彼の死が僕のせいで、それを知らなかった僕が今受け止めきれないのなら、それは今からの僕の問題だし。そんな時は、やはりサポートしてくれるように頼むかもしれないと思うけど。

 だから、事実を話して欲しい」

「…かしこまりました。確かに私がお話しせねばならないことです。

 ラインハルト様がお怪我をなさった、すぐ後のことでした。ヴィルヘルム様が『ラインハルトの心はとっくに割れてしまっていたのかも』とお嘆きになった後、引き続いて起こったことでした。ですから私の頭の中ではお二人のことが結びついてしまいました。他の皆にも少しそういうことを考えた者もいたかもしれません。思えば、ずいぶん前から内藤は、尊厳死の話をしてみたり、死後の世界の話ばかりしていました。

 そうです、私は内藤の心も壊れているのかなと思ったのです。

 彼はプライドが高いので、他の人に相談などするはずがない。もちろん内藤や私と、ラインハルト様とを同等にするわけもいかず、ただでさえ、ラインハルト様のお怪我を治すことがあの当時は優先されていたので、私からも内藤のことを誰にも相談してはいませんでした。いざという時は自分が止めよう、止められるだろうと思っておったのですが…。

 …私は、結局、間に合いませんでした。

 内藤は自殺しました、N県のお塚のそばで」


 ラインハルトの表情が変わった。

「嘘だ!内藤の性格上、そんな、自殺なんて…するはずがない!」

「ラインハルト様は、そう思われるのですか?

 私も、今でもまさかと思いますよ。でも…様子がおかしいと思い、ずっと気になってはおりました。日本に帰国してからは

『仕事を辞めて、N県で余生を送りたい』

 と常に申してたので、最初はただそれだけかと思っていたのですが」

「信じられない…」

「ええ、ですが、他人の心なんてはたから見ていても理解出来ませんよ。

 白状するついでにもう一つお話ししておきましょう。

 ラインハルト様が大怪我をなさっていた時には、申し訳ございませんが、ヴィルヘルム様のお話と足し合わせて、ラインハルト様が自殺を失敗したという説も出てましたよ。

 でも、いかがですか?そんなことなかったでしょう?

 人の心なんて動きますよ。魔がさすということもあります。内藤の心も他人から見れば簡単に理解できないんだと思います」

「だけど、やはり信じられない…」

「そうですね、発作的なものかもしれないです。走り書きのメモがあって、それを遺書だと判断されました」

「メモ…?」

「ええ、英語で書かれたメモです。内藤の自筆でした。姫野様にお渡ししたら、ええと、ウィズ何とかと書かれていたと言われましたっけ、弓と矢がどうのこうのとスズメが出てくる、何か英語のわらべ唄だという話でした」

「なんで日本人の内藤が、英語のわらべ唄の歌詞なんて書いたんだろう?」

「わかりません、私を庇ってくれたのかもしれないです。最後に一緒にいた人間が疑われかねないと思ったのでしょう。

 私は、彼が死んでいくのを見たんです!

 最後の日に、私は内藤の様子がおかしいと思い、N県まで一人で彼の後を追っていました。それでもまだ、内藤は故郷で落ち着いて心の整理をしたいのかと思っていました。私が追っているのに気づいていたのならば、思いとどまってやめてほしかったですがね。

 結局、止めるのには間に合いませんでしたが、私は最後の姿を見てしまいました」

 ラインハルトはうつむいたまま、うなずいて聞いている。

「…」

「ただ、ただ良かったのは…。それは本当に一瞬のことでした。長いこと彼が苦しむことはなかったですよ。我らがいざという時のために渡されている、あのお薬を飲んだのですから。

 改めて皆様の高めてこられたものの凄さを感じ、それで…それが…少し私の心を落ち着かせてくれました」

「…うん。そうだろうけど、でも、そんなことより…どうしてそんな…」

 ショックをおさえきれなかったのか、ラインハルトは言葉を詰まらせた。

「お嘆き過ぎないでください、ラインハルト様。

 私がお話して良かったのかどうかと思うのも、…私も辛いですから。

 もう彼は安らかに眠っていると信じてやってください」

「…うん、わかった。

 彼のために祈るよ。

 それから、木藤、君のためにも祈る。

 辛いことを話してくれてありがとう。

 悲しい話だけど、明日、僕がお塚に行く前に聞けてよかったと思う。

 ちゃんとあの場所で、彼のために心をこめて祈るよ。

 今の僕には、…それくらいしか出来ない」

 木藤が、ラインハルトの顔を気遣うように眺める。

「きっと…内藤も、そして美津姫さまもラインハルト様をずっと見守ってくださってるはずです。

 明日は気をつけて行ってらしてください」

「うん。

 …ありがとう、木藤。

 部屋に帰ってシャワーを浴びて、休憩してくる」

「明日は山本にスマホを預けておきますので」

「わかった。帰りは遅くなるから。でも、泊まらないと思う」

「かしこまりました」



 ♣︎♣︎♣︎♣︎♣︎




 唇をぎゅっと噛み締めたまま、ラインハルトは自室に戻ってきた。幸い、廊下で誰にも会わないで済んだ。今の自分はかなり怖い顔をしていると思う。鏡を見ないようにして一気に服を脱ぎ捨てて、ラインハルトは頭からシャワーをザバザバ浴びる。


 なるほど…

 “Isaw him die.”、か。

 内藤、何故、そんな選択をしてしまったのか?


 泣きたくはなかった。水量を強めにしたまま、シャワーを両目にもぶっかける。


 わからない…。

 何が内藤をそこまで追い詰めることになってしまったのか。

 それはやはり…とどのつまりは僕なのか?

 僕が存在することが。

 僕が何かを選択して事を進めていくことが。

 僕が使命を果たそうとして動くことが。

 次から次へと、自分以外の誰かに犠牲を払わせてしまうことになるのか。



 皆が心配していたというのか…?

 僕の心が壊れるのを怖れてたって…?

 馬鹿なことを…


 ラインハルトは薄く笑った。

 何も知らないくせに…。


 タオルで身体を拭いた後、バスローブを纏ったまま、ベッドにダイブした。

 痛っ…。

 首にかけられているロザリオ代わりのクロスペンダントが跳ねて鎖骨の辺りに刺さりかけて、紅い小さな三日月を残した。


 身体も頭も熱を帯びているようで鬱陶しい。

 外の暑さのせいなのだろう、きっと。まだ夏が始まったばかりだというのに、容赦のない太陽の光がギラついている。開け放っていた窓からレースのカーテンが飛び立つように翻って見えた。その先には勝ち誇っているかのような夏の青空だ。吹き抜けていく風が自分の熱を奪ってくれる気がするのが、せめてもの救いだ。


 駄目だ…。風だけでは足りない。


 自分の全身の血流が一気に覚醒したかのように脈打っているのを感じる。自分に対する怒りが引き金になったのか、血の滾るような凄まじい衝動をこんなに感じたことがなくて、自分を今、持て余している。

 夏美が何か思い出して怖い夢を見ないように、美津姫に貰ったお守りの宝珠の力を抑えようと身体から離していたのがまずかったのかもしれない。慌て手首にはめたが、自分を癒してくれる、いつものひんやりとした光は淡く弱まっている。


 何かが変だ。いや、変ではない。

 僕はずっと前から知っていた。そう、これも認めたくなかっただけだ。

 自分の中に内包された暗黒な部分が膨れ上がってきているのを感じているのに。

 本来の、自分の優等生的な部分をそれが圧倒して消し去ろうとしている…?


 いや、違う。そうじゃない。そんな風に認めたくない。

 このまま飲み込まれたら僕は、本当に変質してしまう。

 自分がなりたい理想像とかけ離れた、忌まわしい化け物になってしまう。

 そうだ、まさしく夏の蝶の嫌な話のように。


 以前、ハインリヒがアゲハ蝶の蛹を前にして羽化を楽しみにしていたが、出現したのは黒い蜂だった。青虫の頃にはすでに黒い蜂の卵を産み付けられたのを知らずに蛹になっていたらしい。羽ばたく夢を見ているうちに身の内側から食い破られて、生きたまま殺されていた。

 その運命を、僕は辿るわけにはいかない。


 神さま…!

 子供の頃に暗唱した一族の祈りの言葉の意味を噛み締める。

『我らを試みにあわせたまえ。』

『光にも闇にも向き合わせたまえ。』


 宝珠の柔らかい白い光を見つめていると、美津姫のはにかんだ笑顔、そして夏美のケーキを頬張った時の笑顔を思い出した。そばにいないはずなのに、夏美が

「ライさん、」

 と自分に呼びかけている声が聞こえる気がした。

 君を勝手に好きでいるだけなのに、僕の中にそんな思いがあると気づいただけで、こんなに柔らかなあたたかな気持ちになるなんて。


 そう、今わかった、たぶん大丈夫だ。不思議だけど、好きな人を思うだけで心が少し浄化されていく。化け物に近い存在の僕なのに、ちゃんと善良であろうという気持ちを保っていられる。

 君がそばにいてくれなくても、たとえこの先、この恋が実らずに終わったとしても、僕の中には君への温かな気持ちが確かに存在して、何者にも消し去ることは出来ない。僕自身でも消し去ることは出来なかったのだから。その思いが僕に勇気を持たせてくれる。


 僕は、自分の人生を選んだ。恋した相手に後ろ髪を引かれても、やはり僕は自分の道を選んで進みたい。

 僕は光にも闇にも向き合って、怖ろしい試みに遭遇する世界樹を辿る旅に出た大大祖父様の跡を継ぐのだ。


 ようやく、気持ちが落ち着いて微睡み始めたところにドアをノックする音が聞こえた。

 返事はしなかった。ひさしぶりに気持ち良い眠りに落ちていくところなのに…。


「暑いさなかとは言え、そんな格好で寝ると風邪引きますよ?」

 姫野、いや、メフィストかもしれない者の声が聞こえる。


 

『VII THE CHARIOT 戦車』


《光と闇の狭間に立つ誓いを》の章のイメージは、このタロットカードに託してます。


7という数字の冠されたこのカードは、《4+3= 7》ですなわち4番目の『皇帝』と3番目の『女帝』から誕生した子供を表します。

凛々しい若者が、天蓋付きの1人乗り用の戦車に乗っている姿が描かれます。

ウェイト版では、白のスフィンクスと黒のスフィンクスの二頭が戦車を引きます。白のスフィンクスは、彼の意思の力と光からの導きを表し、黒のスフィンクスは、彼の欲望と闇からの誘惑を表しています。その相反するもの達が、彼の運命を載せた戦車を引くのです。

スフィンクスは、運命の秘密を守る守護聖獣であり、予想できない運命の力を象徴しています。故に若者の命運〔勝利か否か〕は全くわからない状況です。

更に、このカードは上半分が若者で下半分が戦車を描く構図になっています。このような構図の時は、顕在意識が、無意識な部分の動きを理解していないということを表現したいのだそうです。

となると、若者は、この二頭のスフィンクスが引く戦車のことを理解不能のまま、制御していかねばならない命運を背負っているのです。つまり、このアルカナは、『自分を振り回すものをなんとか制御していかねばならない困難さ』を内包しているのです。


しかもそれだけではありません。

若者本人は頼もしい表情をしていますが、若者の着用している鎧の両肩の部分に月と仮面が飾られていて、その仮面の片方は笑顔、片方は気難しい顔になっています。

これは、ペルソナ(他人向けの顔)と言われています。戦車の背景には町が描かれていて、社会を表しています。人間は、社会的な生き物です。

前述したように彼は彼の内面の中でも、正しいことをしなくてはいけないという意思と欲望への誘惑との葛藤と戦わねばならないのに加え、さらに対外的に社会的な仮面を被ったり、使い分けしながら生きていかねばならないようです。

自分らしく生きていくという幸せを追求したいのに、それはなかなか出来ずに、他人向けの顔をして空気を読むと言われるような迎合や妥協をし、自分に嘘をつくようなことまでしていかねばならないかもしれません。


ここまで書くと、非常に辛いカードみたいですが、このアルカナのテーマは、ずばり《征服》なのです。

辛いことも葛藤もある、たいへんな困難に打ち克つから《征服》と言えるのでしょう。

正位置のキーワードは『困難の克服』、『勝利』を表します。

逆位置のキーワードは『悪戦苦闘』、『勇み足』となります。敗北という‘終了’も示しますが、どちらかというと、その征服や克服を遂げられずに苦しむ状態が続くのを感じさせる意味も多いのです。


この章の《光と闇の狭間に立つ誓いを》というタイトルは、主にラインハルトのことを示しています。

彼が聖魔法と闇魔法を双方使える術者であることと、西洋と東洋の融合、人間と魔法生物の融合を図っていくことの誓いを立てたということの暗示を込めています。

また、ペルソナの話も念頭においていたので、彼が相反する価値観などに葛藤していく姿を描きたいと思いました。

もちろん、ペルソナの葛藤は、夏美や他の登場人物にも当てはまっています。自分をどう表現するか、どう振る舞えば受け入れてもらえたり愛されるのかという悩みにもこの章では触れて、『対人関係等に悩まない人なんてたぶんいないし、皆が皆、葛藤に苦しむ』ということをテーマにしています。


ラインハルトの一族においては、本来の『我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』という祈りの一節が、本文中のように変更されたという設定になっています。相異なる物質を、そして光をも闇をも融合しようと試みた錬金術師たちの勇気に満ちた不屈の精神を表現したかったのです。

[2019年4月17日]

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