116 Interlude 〜 Ⅲ 〜
ロベルトは、かなり疲れていた。
父に指摘されるまでもなく、疲れている自覚はちゃんとあるのだ。休みだって取ってはいるのだ。
しつこく注意されているみたいな気がしてしまい、早く退出しようとばかり考えていたことを今更ながら反省する。
もうずいぶんと大人になったはずなのに、家族だと甘えが出てしまうなんて自分もまだまだ子供だな、と思った。(それも父の指摘どおりだ)
あちこちに目配り、心配りをしているつもりでも、まだまだ未熟で至らないのだろう。
父上、済まぬ。
それでも、父のとりなしで元老院の会議所にごあいさつに伺うことが出来たのだから、良しとしよう。
先日の低温冬眠装置の故障による事故の処理は、これですべて円満に終了したと考えて良いだろう。危機は去ったのだ。
うっかり気を抜くと、ため息が出そうになる。第一の侍従として自由に使わせてもらってはいるが、私室ではなく、ここは殿下の部屋に通じる待機部屋だというのに。
…心の奥に刺さった楔のようなもやもやする気持ちは、父上にも隠し通したが。
いや、この楔は誰にも抜けないだろう。
そして、安易に抜いて欲しくもない。
辛い思い出として、切り捨てることも出来ぬ。
なにより、あの不思議な瞬間を味わったのは、自分だけなのかもしれない。
それは、ある意味貴重で、そして苦さのどこかに暗い…甘さを秘めていた。
ラインハルト様の魔法の力量をまざまざと感じた。
ふだん良く見せる優し気な眼差しのかけらの一片もない、冷たい深い蒼が瞬時に巨大化したように思えた。それは、ロベルトの身体を完璧に捕まえていた。…術師系ではないから実態はよくわからないが、そう感じた。
はるか遠い日本から、しかもご本人の魔力や身体に悪影響を及ぼすと言われている、衛星中継電話線を通じて術を行使するなんて…。
自分の内臓を全てくし刺しにされたまま、それらすべてを巨大化した瞳で、丁寧に見改められているような感覚…。
瞬きするよりもわずかな時間だったと思うのに、圧倒的な支配力だった。
息は十分出来ていたし、痛みを受けたわけではない。
普通に思い過ごしかな?くらいの出来事だった。だが、あの魔法のせいで(おかげで)取り戻したものがあった。
まるで古いコートのポケットの底で干からびて無くなろうとしていたもの。それは、あいまいな自分の過去の記憶。
それを反芻するきっかけとなった。
すぐに検分は終わったのだろう。魔法の重圧、支配感みたいなものは、瞬時に霧散した。
ロベルトを始めとした侍従たちが、ハインリヒ殿下の事故をもたらしたのではないと得心したのか、いつもの愛想良しの笑顔をご自身の顔に貼り付けて
「ロベルト、大変な時に電話に出てもらって済まなかったね。
色々と…済まない…。
ハインリヒにも、無理をさせてしまったのだろう。
ロベルトがまたさらに立派になって、本当に頼もしいよ。有難う。
こちらでも色々とやれるだけのことはやってみる。
スヴェンソン卿を怒らせてしまうかもしれないが、ハインリヒのためなんだから。良かったら、取りなしを頼むね、」
と何事もなかったかのように伝えられた。
自分も即座に
「はっ。かしこまりました」
と儀礼的に返事するにとどめた。
が、心中で今受けた魔法と違和感と、それに伴って思い出した子供の頃の記憶をけして忘れぬように足の指に割り振った。
そして、復唱した。
「スヴェンソン卿に、ご助力を最大限賜れますようにつとめます」
ラインハルトは、破顔した。
「うん、頼むね。じゃ、」
とそそくさと電話を切ったのだった。
スヴェンソン卿というのは、もともと低温冬眠装置を管理する一族の長であり、身分も気位もすごく高い人だから、どうなることかと思った。
が、その後のラインハルト様の横やりのような指示にかなり悪態をつきながらも、ご自分が納得した後は、部下全員に自分の決裁なしでラインハルト様に協力させることにしてくれた。さすが、頭のキレるじい様である。
本日元老院でお会いした時には上機嫌であったから、遺恨は残らなかったようだ。今後の情勢に響くかと気にしていたのだが、この件についても安堵できた。処理終了後に、ラインハルト様から直々に丁寧な挨拶状が届いたらしいと父も言っていた。
「ラインハルト様も、昔はやんちゃばかり目立ったものだが、すっかり大人になられたな」
そうかもしれない。
昔よりも上手に、感情をお隠しになっておられる。
目配り、気配りもしっかり出来ておられて。
が。
楔を抜くように、この記憶を消されてはかなわない。
術にとらわれて、蜘蛛の巣の上で蜘蛛に見つめられているような、
いや、解剖台にのせられたひきがえるのような、惨めな状態だったにちがいない。
思い出す度に恥ずかしくて赤面する。が。
そんなことにとらわれず、覚えておかねばならないと思った。
子供の頃のあいまいな記憶を、あの瞬間に思い出せた。
いつしか忘れてしまっていた。もしかしたら封印されていたのかもしれぬ。
地下墓所で、自分やハインリヒ殿下と同じように子供だったはずのテオドール様がすすり泣いていたところを夜中に見てしまった記憶。
あれは、いつのことだった…?
事あるごとに、ハインリヒを守ってくれと頼んできた頃か…?
僕は、狭間に行くと決めた
みんなのそばにはいられない
葛藤なされていた頃だろう、今はそう思えた。
戦士系の自分やハインリヒ殿下よりも細いお身体で、剣や槍の修行までがむしゃらになさっていた…。
自分たちの目標でもあった方が、笑顔の奥に封印しようとしている心を、ストレートに”弱さ”として感じることができたのは、子供だったからこそに違いない。
大人になってしまったら、頑なに仮面を被り、隠さなくてはならない”なにか本当のところ”をさらけ出させるわけにもいかず、また我らがお支え出来るものでも決してないのだろうが。
この”なにか本当のところ”をせっかく思い出せた以上は、記憶にあらためて刻んでおくことにした。
ドラゴンを切り伏せた時の強さを誇るような表情とも違う、少し意地の悪そうな魔法使いの瞳の表情もまた、記憶に留めようと思った。
いずれ、なにかのお役に立てる材料の一つ、かもしれぬ。
社会が発展し文明が進化した陰で、意味不明のまま欠落しかけている魔法や幻想を尊重する一族の端くれである以上、自分が理解できず用いることが出来ない類のものこそ大切にして、専門家の意見を聞くことにしている。
たとえ理解不能なものに対して悔しい気持ちがあろうとも、劣ったもの弱いものとしか自分には見えないものであろうとも、在る、在ってくれることにまずは価値があると推定するようになった。
そして、そう思えるようになった自分は、幸せだと思う。階級が上ろうが、学べば学ぶほど自分の知識の浅さもわかり、古今東西の知恵に素直に頭を垂れることが出来ている。
騎士団始め周囲の友、先生方や書物が自分を成長させてくれる実感を得ているおかげなのだろう。
今はまだ若輩者だが、人格を磨いていく、磨いていける自負がある。
「自分は、戦士として強いという事だけではなく、人格を最上の出来にしたいと努力し続けている人間として評価されたいのです」
と告げた時の、父上のお顔。
嬉しそうに
「うむ、その言、忘れるなよ」
と、長話から解放してくれたのだった。
そろそろ、お昼寝終了の刻限になる。
ロベルトは、ハインリヒ殿下の寝室に移動する。
殿下の現在の部屋ほど快適な部屋を、ロベルトは知らない。
男子の部屋だから決して華美というわけではないが、豪奢な家具や上質な調度品が使いやすいように考え抜かれて配置されている皇太子専用の部屋である。
今冬の儀式を前に、また先日の事故をきっかけに、引っ越しを完了させたのだ。その部屋を中心とした区画はかなり広く、十分な設備を置いた医師団の待機室も備えることが出来、一つの城をもらったに等しい。
高い天井の部屋だからなのか、天蓋つきのベッドが小さく見えるほどだった。その深緑色の天鵞絨のカーテンの中でハインリヒは静かに寝ている。
部屋を引っ越しただけではない。お身体の『成長程度』の調整が再検討された。
ここにきてハインリヒは身長と体重を増加させ、伸びやかな肢体をもつ青年騎士然とした姿を備えたのだった。
それで、医師団からの睡眠時間や栄養の摂り方など細かな指示を主従共に固く守っている。
少しツンとして見えてしまう位の高い鼻梁だが、柔らかなウェーブがかかっている茶褐色の髪、それとお揃いの長い睫毛がお行儀良く伏せられている寝顔を見るだけで、先日の危機をよくぞ乗り越えてくれたものだとロベルトは胸がいっぱいになる。
微笑むかのごとく薄紅の唇が緩められた寝顔は、先日まで維持され続けてきたあどけない少年の表情をもまた、とどめているのだ。
兄上のラインハルト様に、やはり似てもおられるが。
それでも、やんちゃな少年期が長かったからだろうか、喜怒哀楽も素直に表現する性質からか、城内のみならず城下でももとより、とても愛される人柄である。
ハインリヒ本人としてはどうやら周囲の反応がこそばゆいらしく、太くて濃い色の髭が生えてきただの、成長痛が辛いだの、とぼやいているのだが、それはそれで楽しい話題として側近や侍女たちとの会話が盛り上がるばかり、皇太子殿下を中心に笑い声が絶えない日々が戻って来た。
それでも。
やはり、思い出してしまうのだ。
果てしない闇に囲まれた孤独。
あの、冷たい蒼い瞳を宿す孤高の方は。
今度こそ、運命の奥様を迎えられる。
どうか、お二人でお支えあってお幸せになられますよう…!
ぱちんと音がするかのごとく、瞳が見開かれた。
ハインリヒ殿下の暖かな、はしばみ色の瞳がすぐに笑みをたたえる。
「ロベルト、やあ、どうだい?
ちゃんと大人しく寝てたよ?」
「ご気分はいかがですか?」
ロベルトが呼び鈴の紐を引っ張る。医師団の回診のためである。
「いや、もうここまでさ、お墨付きの健康を取り戻したというのに、
大げさな回診は、たぶんいらないんじゃない?」
「どうやら、しきたりのようでございますから」
「また、それだ。
ああ、めんどくさいなぁ。
毎日血糖値まで何回も測るからさ、おやつの食べ過ぎまですぐにバレるなんて、罰ゲーム、」
「しっ。いらっしゃいましたよ、」
それでも、医師団が下がるまでは、お行儀よくしきたりに付き合っていた。愛想良しも、兄弟よく似ているかもしれない。
「ここまで元気になったらさ、もしかしたら滑り込みセーフで行けたかもしれないよね、日本に」
と、大ぶりのカップでカフェラテを飲みながら、ハインリヒは心から残念そうに言う。
午後のお茶の時間が、最も気が休まる時間でもある。
侍女たちや他の侍従には休息させて、2人であれこれ話すひとときでもある。
求められるまま、ブラウニーをもう一片ハインリヒの皿の上に追加する。
「そうでございますね。…少し、タイミングが悪すぎました」
「あ~、惜しかったよね、でも、本当は、直々に兄上に怒られる羽目になったかもしれないから良かったのかなぁ。
僕、兄上に軽蔑されるのが一番つらいんだ、」
「先日のことは全て円満に処理が終わりましたから、どうかご安心ください。
さて、それよりも。
どうでしょうか…ラインハルト様に、怒られますかね?
私は、何も言いつけ口はきいていませんよ」
「知ってる。
聞いたよ、兄上にさ。
ロベルトは、僕をかばおうとしてたのか、かなり挙動不審だったって」
「挙動不審?!、でございますか~~?
確かに恥ずかしい受け答えでしたかもしれませんが、、」
「いや、そんな、まともにショックを受けないで(笑)。
『忠義者のロベルトに、お前は心から感謝しなさい』ってチクリと言われたんだ、さっき電話で」
「また、お電話をくださったのですか?
お身体にお障りにならないとよろしいですが、」
「大丈夫、『だいぶ耐性が出来た』とおっしゃっていたよ。
『ロベルトにもハインリヒにも、長い間無理をさせた』
って、よろしく伝えてくれと、とてもお優しかったよ」
「そうでございますか」
「とにかく、兄上達が僕を助けてくれた後、そのまま放っておくわけないだろう?
原因は、すでに突き止められたんだと思うよ。
あえて正面から怒ってこないのは、ことを大きくしたくないだけだよ。
ああ、絶対にバレてるって。
お棺の中に小さなゲーム機を持ち込んだのは、僕だって」
「いえ、結果的に、私の確認不足ですから」
「ううん、僕の責任だよ。以前、小さな金具とかは大丈夫だった気がしてたから。
大きさとか関係ないよね。金属の部品とか精密な電池とか入っているんだからさ。
…本当にあんなことになるなんて思わなかったんだ。
ごめん、ロベルト。
僕のせいで迷惑をかけて」
「いえ、」
と口を開きかけたが、黙った。
「辛いのはね、立場上守ってもらっているからだ。
原因が僕だと判明しても、兄上があえて人前では責めないように決めているみたいだし。
皆にかばわさせてしまって、正面から僕が謝罪できないというのが、わかった。
逆に申し訳なくて、歯がゆくて辛いよ」
「はい、お立場上、今後もそのようなことが増えるかと思われます」
「うん。皆に甘え過ぎてた。
身体だけ大人になったと思われるのは、恥ずかしいからね。
今後は、きちんとわきまえて振る舞うよ」
「はい、私も気をひきしめて参ります」
「頑張ろうね、ロベルト。
あ、あと。
兄上がロベルトにくれぐれもよろしくって。
何だか、ロベルトとも話したそうにしてたんだけどな?」
はからずも赤くなってしまった。
「…それは、誠に残念でございました。
午前中いっぱいは、元老院に出かけていたものですから」
「ロベルトは階級上がる度に、仕事が増えていくものね。
まぁ、ユールにはこちらに戻られるんだからさ、あとちょっとだよ。
それまで我慢しようね、ロベルト」
「はい、楽しみでございますね」
「ロベルト、あのさ、…。
昔、兄上が言った事、覚えている?」
胸がドキンとした。
「は、はぁ、どのようなことでしょう?」
「僕と兄上が今後の制度上の立場で万一対立するようなことがあれば、
僕の手を汚させないように、お前が働けってロベルトにきつく言っていたりしたでしょう?」
「あ、そのことは…ずっと肝に銘じております」
「あの時も、僕は言ったと思うけど。
僕の気持ちは変わっていないからね、兄上に、万一なにかしたら僕はロベルトを一生許さないからね、それも覚えていて」
「かしこまりました。まずはハインリヒ様のご指示を守ります」
「うん。
ロベルト、何かあったらちゃんと僕に相談するんだよ。
ロベルトも、兄上が大好きだよね?
僕もロベルトに負けない位、兄上が大好きなんだからね!」
「はい、もちろんでございますとも。
私もラインハルト様を尊敬してます」
「僕は、兄上の代わりに王位を継いで、自由に城から出られないかもしれない。
でも、そんなハンデは、この時代には関係ないね!
僕は精一杯兄上をサポートするつもりなのさ、
だから、事態が悪化した時も、僕らで兄上より先に良い解決策を見つけて、兄上をぎゃふんとさせてやろうね」
「はい、頑張りましょう」
「龍の化身を宿しているお嫁さんがこれから側につくらしいけど、僕らが結集すれば勝てる気が、ね?…うん」
「は、はぁ…」
主であるハインリヒ殿下が口を濁す気持ちが良くわかった。
稀代の魔法使いと東洋の龍の化身の連合軍、か。
勝てるのか(笑)?
「まずは、おふたりを良く知り、我らが理解をするようにつとめたら何とかなるかもしれません」
「とりあえず、昔いてくれたお姫様みたいに黒目黒髪の人だって。
あと、よく食べて、とても元気な人なんだそうだ。やっぱり龍の分も食べなくちゃいけないのかなぁ。
しばらくは新婚さんだから、きっと兄上もしばらくはデレデレ、にこにこしているだろうな」
「ラインハルト様も、本当のところはとてもお優しい方ですから」
「そうお?ロベルト、ずいぶん前には兄上のことをとても怖がっていた気がするけどなぁ…」
と、なぜか嬉しそうにロベルトを見やる。
強くて賢くて、と、いつも自分よりも、大好きな兄上の自慢をしたがるのが、なんとも微笑ましい。
「そうですね、優しいお顔の下に怖いところも隠しておられて、でもその怖い心の奥にも、揺らがない強い優しさというのが、ある気がします」
先ほどまで自分の頭の中になかった言葉がすらすら出てきて、自分でも驚いた。
が、たぶんこれこそが、自分の心が今受け止めているラインハルト様の、”なにか本当のところ”なのだと腑に落ちた気がする。
「うん、ロベルト。ああ…納得だよ。
それだ。そうなんだと思う。
僕も…兄上はたまに僕らと離れた高みで、大変なのかなと思ったり。
以前、厳しい処断をなさったとか聞くと、怖ろしい方かなと思ったり。
でも、どんなに兄上が自分の方に悪や闇を引き寄せて、僕らをかばおうとも、僕らには、兄上を信じられる強さがあるんだし。
その信じられる根拠は、兄上が考え抜いた言葉や行動とかから受ける印象からだけじゃない。
もっと奥にある根っこの部分なのかもって思えて納得だよ。
僕らは、兄上が思っておられるよりもずっと、兄上のことを根っこの部分で理解し、敬愛しているし、それを積み重ねてきているんだから。
対立が起きようとも、兄上と僕らなら過去の悲劇なんて関係ないってことを、兄上にも解らせらて差し上げられる僕らでいようね」
「はい!」
頼もしくおなりになった。
侍女たちが戻ってきて、にぎやかにお茶のセットを片付け始め、ようやくロベルトは心から安堵のため息をついた。
自分もさらに精進して、ついていかねば。おくれを取ってはならない。
11月ともなれば、夕陽も儚く残ることはなく、潔く落ちて冷たい風を呼び、闇を招く。
ユールの儀式まで2か月を切って、いよいよ準備が加速している。
机に座り、一心不乱に明日の帝王学の講義の予習を始めた殿下の横顔を見やりつつ、ロベルトはカーテンを引く。
ある程度、反対勢力の妨害を想定して対策をとっているものの、幸いまだ何も起こっていない。それでも、安穏としてもいられまい。
一番怖ろしいのは、緊張を緩める心の隙だ。
ロベルトは、さらに気を引き締めようと決意した。