114 《地の実りに感謝せよ》 (10)
ラインハルトが、そうっと夏美の手を外す。
夏美は、少しがっかりした。
手を握っていたいのに。
私の気持ちを伝えたいのに。
あなたを繋ぎとめていたいのに。
まるで、その言葉を察したかのようにラインハルトがそっと言う。
「ごめん、気を悪くしないで。…あのね、あまり夏美に優しくされるとね、僕は甘えているだけの、ただの弱い男みたいでさ…。
とにかく、安心して!今の僕は、とりあえず死にたがりなわけじゃない。だから、心配し過ぎないで。あと、…僕を甘やかし過ぎないで(笑)」
最後の、僕を甘やかし過ぎないで、の所で夏美はちょっと笑ってしまった。
「もう、ライさんたら。私、そんなつもりじゃないわよ?」
「うん、わかってる。でもね、僕もつい甘やかされる方に行きたがっちゃうからセーブしたいんだ。
昔ね、フィリップって強い人がなんかデレってしていて、急に弱く見えて変だなって子供心に不思議に思っていたけど、今、なんとなく理解が出来た(笑)」
「そうなの?」
「あ~、男って女に惚れて、女にからめとられるともうダメなんだ、きっと(笑)」
「もう…、ダメにならないで。あと、女性全般のせいにしないで。
そんなのだったら、男はズルイって言うわよ?
とにかく…ライさんは私より強くて素敵よ♪」
「ダンケ♪、お世辞は素直に受け取るよ」
とラインハルトは言いながら、絶対に尻に敷かれているって皆に冷やかされるだろうことを想像できてしまった。だから、話を強引に戻すことにした。
「じゃ、話を続けるよ。
《蛇の目》は、僕達が受ける印象よりも…、なんだろう、とにかくそこまでネガティブな陰鬱な、冷たい厳しさを表すような宝物じゃないってことを夏美にも伝えておきたかったんだ。
ひんやりとした雰囲気の中でも、確かに僕を見定めて審判しているような気はしたよ?それでも、どこか慈愛の眼差しを感じたんだ。
そう、『失敗したから、これで終わりだ』という行き止まりを一方的に示してやり取りすら終わらせる、というのではなくてね。
『では、次にお前は何をする?(お前の時間はまだ残っているのだが、どうするのだ?)』
と伝えてきてくれた感じだったのだ。うーん…上手い説明にならないなぁ。
断罪ではなくて、償いを申し渡すでもなく、そう、責任をのみ負わすのではないんだ。審判という意味よりもっと緩やかな、無理やり道を定めるのではなくてね、」
「ええと、私が今受け取った感じを言っていい?
つまり…、もしかして審判をする時に全て知って理解して判断してくれているみたいな、いえ、全て理解できていなくても、ライさんを信じてくれているみたいな感じね?」
「うん、そう、それだ。
そう、信じてもらえる気がしていたんだ。僕が下手な説明をしなくても、フラットに公平に事実を把握して判断してもらえているような。
僕は嘘をついたり、ごまかしたり自己弁護をしなかった。たぶん、神様の遣わせている宝物なんだからお見通しなんだと思っていたし、必要ないよね。
そうだ、赦されている、というよりも、公平な信頼かもしれない。
無用に責められず、事実をご存じの上で一定限度の猶予を与えてくれて、僕に未来を考えさせてくれるようだったんだ。審判というのは、もっと厳しい、一方的な申し渡しという意味だと思うけれど。《蛇の目》からは、違った印象を受けた。僕には選択肢が残されていたんだ。
例えば、僕が絶望のままに全てを終えるという自由も選択できたに違いない。《蛇の目》は、ただの優しさや欺瞞で繋ぎとめようともしてこないのだからね。
でも、僕に選択が委ねられている、残されているということが、僕の心を落ち着かせてくれた気がする。ヒステリックに絶望を見るだけ、自分を哀れむだけの行為を止めることが出来たのはそのおかげだ。
僕は、…自分の心の中にやはり微かな炎が消えていないって思えた。それが、本当の僕の本心だった。
美津姫を一人きりで悲しませたまま死なせてしまった、僕はその償いをしたくても、償い方法すら思いつかなかった。だから、安易に、て今なら言うよ、安易に命を差し出そうかと思ったんだ。もしかしたら、僕の命ですら、償うには足りないかもしれないのにね。
僕は、自分の命を惜しんでいる、潔くない人間って自分で思いたくなかっただけかもしれない。でも、かっこ悪くても潔くなくてもいい、僕にはやはり、やりたいことがたくさんあり、未来の未知の冒険に行きたい気持ちを否定できなかった。
かっこ悪くてもいい、最初の東方のミッションを失敗してしまったのは確定だけど、やり直しからのスタートでもいい、そう思った。
潔くありたかったけどね。
あと、悲しみからも逃れたかったけどね。
でも、辛さを背負ったまま、涙を流しながらでも進んでいく人間になりたいって思った。過去も忘れたくはない、でも僕は、未来へ進みたいって思えた」
「そうね、やっぱり…未来を向いてくれて良かったと思うわ。美津姫さまも、ライさんが本心から良い選択肢を選んだと喜んでくれているに違いないし。
私にも他の人にもそれくらい辛い目に遭うことがあるとするならば…。
それは、とても怖いわね…。
でも、きっとそんな辛い時にも選択肢を探すべきなのね、たぶん希望は残されているんだわ」
「うん、その希望だって、大したものじゃなくてもいいのさ。そう思わない?
ささやかな希望、僕らがさっき言った、リレーのバトンみたいにね」
「そうね、周囲や自分自身が自分を責め立てて、過去の嘆きに囚われてしまう、そこで行き止まり。じゃなくて、辛くても未来へ、せめて少しでも先へとつなげていきたいわね」
「うん、そうなんだよ、とにかく《蛇の目》は、押しつけでもなく、変に慰めたり、励ましたりじゃない、清涼な公平さだった。
だから、僕は心の底から
『もしも赦してくださるのならば、僕は立ち上がってまた、前に行きたい。僕は、狭間に行く候補者の一人なんです』って願うことができた。
…そうだね、さっきのリレーの例えで言うのなら、一族の夢を叶えるリレー走者の一人になれればいいって感じかな。昔の僕は気負っていたから、最終走者で自分自身がゴールしたかったけど」
「そうね、リレーみたいって考えると、自分一人だけじゃなくて、自分の前にも後ろにも誰かいてくれるように思えて心強いわね」
「ああ、そうして…。
いつか世界が崩壊して、逃げ惑うようなことが起こる時、もうこの地上に僕はいないかもしれない。その時の僕はどんなに願っても、もう誰も助けることができない。
それでも、誰かが少しでも助かるように、僕は頑張りたいんだ。きちんと命を、平和を、神の愛を、バトンリレーのように繋いでいきたい」
「…」
夏美は無言でラインハルトの手を握り、ラインハルトも握り返した。
「一緒に、頑張ってくれる?」
「ええ、私もよ。私も頑張るから、自分の方も出来ることを頑張りたいし、ライさんのことも協力したいわ」
「うん、」
と少し照れたように言ってから、ラインハルトは言葉を継いだ。
「さっきの話に戻るね。
善之助様は、美津姫のことを聞いてわざわざ日本から僕の城に駆けつけて来てくれたんだ。僕は、美津姫を助けると預かっていたのにね…。
お詫びの申し上げようもないくらいなのに、心から僕を慰めてくださった。
僕のことも、美津姫のことも、信じてくださっていた。
今、夏美が言ってくれたみたいにね。
『たとえ私が実際に目で見ていなくても、最後まで一生懸命になすべきことをしたのでしょう、そう信じてますよ』
と言ってくださったんだ。それだけではなくて、僕の話を一族の人にも伝えてくれていて、宝珠を僕に預けたままにするとの許可を取り付けてくれていたんだ。
僕は、青龍王のお使いの人に言われたミッション{最後の巫女姫さまを助ける}に成功していないというのに、ね。
『果たさなければならないお役目は、これからではないですか』
と励ましてもくださった。《白蛇竜の宝珠》のこともね。
『どんなに望んだとしても、保管してはいけない者が宝物を保管している場合は、どんなにあがいても手放さなければならないはず』だと伝わっているとおっしゃっていた。
つまり逆に言えば、僕が保管することそのものがふさわしくない場合は、僕から宝物が去っていくだろうと。もしくは、たぶん物凄いバチが当たるのかもしれないと。だけど…。《白蛇竜の宝珠》はずっと僕のそばにいてくれて、僕の傷の治りも早かったんだよ。
僕はずっと、本当にお守りのように大切に思っていた。《白蛇竜の宝珠》には、すごく癒しをもらっていたんだと思う。
《蛇の目》の保管については、迷った。元々は美津姫の従者の方に保管をお願いしていたわけだし、善之助様にお返ししようとしたものの、なぜか善之助様では持ちあげられない重さになってしまってね、《劔》のこともあるだろうからと、結局僕がそのまま預かってしまい、別々に保管する形になったんだ」
「そうなんですね…」
「うん、僕にはありがたい話だった。
だから、出来るだけきちんと《白蛇竜の宝珠》と《蛇の目》をお預かりしておいて、いつかお返しすることをそれ以来、僕はずっと願ってきた。もちろん、私物化するつもりではないよ。
善之助様は細かい事までおっしゃらなかったけれど、きっと僕の管理に反対する意見もあったに違いない。でもね、僕もあまり理解していないのだけれど、《劔》はどうやら西洋の古代文化にも関係していたらしくてね。それで、狭間に行く時の証らしいのだからね。
いつかお許しをいただいて《劔》をラインハルトたる者の証のためにお借りするのだと、ずっと心に決めて生きてきたんだ。
善之助様は亡くなられるまで、僕を気にかけてくださっていた。僕を信頼してはくださっていたものの、僕の至らない所もご存じだったろうし、闇魔法に反応して《白蛇竜の宝珠》が暴走する可能性だってゼロじゃないわけだからね。
僕は、ずいぶんご相談をさせてもらっていたんだ。厳しい方でもあったけれどもね、
『資格があると認められて、劔を得られる時がまもなく来るはずです』と、善之助様は、僕を励ましてもくださっていた。
それで、ずっと僕が宝物を預かったままでいたんだよ」
「そうだったのね」
ラインハルトは、ほうっと息を吐いた。
「うん、ようやくこれまでのことを夏美にきちんと伝えることができた。
肩の荷を下ろしたような気持もするよ」