112 《地の実りに感謝せよ》 (8)
「ええ、そうらしいです。
《蛇の目》は、絶対に割れないし、斬りつけても斬れなかったと聞いたことがあります。確か子供の頃から親戚の人に聞かされていたのは、とても古いおとぎ話でした。《破鏡の嘆》とか《破邪の嘆》とかタイトルのように言っていて、私はずっと普通に世間にあるおとぎ話かと思っていたんです。
ええと、その昔、一族の宝を守る巫女姫さまに魔物が取りついたことがあったんですって。
巫女姫さまに恋していた若者が、巫女姫さまを助けようと魔物に立ち向かったのです。魔物は《蛇の目》の中に入り込み、若者の愛と心を試すと言い、嘲り笑ったのだそうです。
《蛇の目》は鏡ですから、若者と巫女姫さまが映しだされていたのですが、その中に魔物がいて巫女姫さまの方に手を伸ばし、かき抱いたような恰好に見えたそうです。
一途な若者はいきり立ち、自らの剣で鏡を斬ろうとしたのですが、上手くいかず、最後は《劔》を持ちだして、鏡を斬り払ったのです。鏡を斬ったはずなのに鏡は割れず、斬られていないはずの巫女姫さまがその時に亡くなられたという謂れがあって。
…それで、その若者は《劔》を持ったまま、湖の中に身を投げたそうですから」
「うん、それも伺ったな、たしか《劔》が無くなってしまった時の話だよね」
「その話を聞いたからかしら、《蛇の目》だけじゃなくて、鏡は怖いものだという印象しかないんですね」
「うん、ある意味{審判者}の役割を持つと言われているからね。鏡は、ただ真実だけを映す冷徹さがあるのかもしれない。
あと、鏡の特徴はまずは、自分自身を映すってことだよ。やはり彼は、何かを見てしまったのかもしれないな」
「あ、そうですね。自分を知る、見つめる、ってことに繋がるんだわ」
「《gnōthi seauton》『汝自身を知りなさい』ってね」
「私たちの一族の三つの戒めの言葉の中で、その言葉だけがライさんのご一族に伝わってきた言葉と符合していなかったんだわ」
「いやいや、正しくはデルポイのアポロン神殿の3つの箴言だよ、僕の家のオリジナルじゃないからね。著作権法違反?で世間の皆様に怒られちゃうよ」
「あ、そうですね、ごめんなさい(笑)。
あれ?
やっぱり、これ、もしかしたら、…。
このことにも意味があったのかしら?今、気がついたわ!
ライさん、ちょっと私、思いつきの話をしていい?」
ラインハルトが、目でどうぞと促してくれる。
「私、ライさんと私たち一族の戒めの3つの言葉と、アポロン神殿の3つのお言葉と比較して話してた時に、その符合しないことにしっくり来てなかったのよ」
「うん、」
「あのね、うちの一族に伝わってきた言葉は。
……『劔は、お返し申した』と、唱えよ。
無用のことはするな。
分をわきまえよ。……
だったでしょう?」
「うん、そうだね」
「『劔は、お返し申した』と、唱えよ。
というフレーズは、アポロン神殿の言葉と呼応していなくてもったいないなぁってずっと思っていたのよ」
「もったいない?(笑)」
「ええ(笑)、表現が変だけど、せっかくだから全部呼応していたら、ぴたっとスッキリした気持ちが味わえるじゃない」
「確かに。
『無用のことはするな』は、『誓約と破滅は紙一重』や、『無理な誓いはするな』と同義だと言えるから、一致するね。
『分をわきまえよ』は、『過剰の中の無』とか、『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』と同義だと言えるから、これもまた一致するね。
『劔は、お返し申した』、だけだね」
「そうなのよ、呼応するはずだったのは、」
「ああ、『汝自身を知れ』のはずだった」
「そこなのよ。
鏡をきちんと見なかったから、ええと…。
もしかしたら、その言葉が存在していないのは…劔を投げ捨ててしまったからなのかしら?って、今ちょっと思ったのよ、違うかしら?
きっと、それは関係があるように思うのよ」
「ああ、…うん、つまり、
もしも、若者が鏡をきちんと見つめて自分自身を見つめ直すことが出来ていたら、劔を失うようなことはなかったって言いたいのかな?」
「ええ、ちょっとその人には悪いことを言っているみたいですけど」
「ああ、僕もだよ、僕も、その若者を悪く言いたくはないけれど、でも、本当にそう思うよ。
もしかしたら、その若者は巫女姫さまのフィアンセか何かだったりしてたんだよね?」
「ええ、確かそうよ。そんなことがなければ、おふたりはご結婚されていたはずという話だったみたい。というか、その若者と巫女姫さまがいた頃がうちの一族はとても栄えていたそうなの、その中で若者と巫女姫さまのご結婚は待望の慶事だったらしいのよ。それなのに、おふたりが共に亡くなり、劔も失われたことが、私たち一族の運命は大きく変わってしまったのだそうです。宝物は、勝手に利用することなど許されない、龍神様からの預かり物で、それを失ったのだから、その後、神社が衰退したり、ご本家にも障りがあったことも、みな仕方のないことと、つまり天罰のようにご先祖さまたちは考えて、頭を垂れて生きてきたっていうお話でした」
「…そうだね、《劔》には正義のご銘があったのだから、その宝物を失ったのは、確かに一大事だったんだよね。
『自分自身を知ること』を怠ったりしたことが、劔を失うことに繋がっているのではないかって夏美は言いたいんだね?」
「ええ、そうよ、そう思えたの、今」
「うん、なんか納得だな。
それに、さっき話したことに繋がるような気がするな。
若者はうかつな者とかではなく、まじめな好青年だったんだね?」
「ええ、そうです」
「怠けているのではなくて、まじめに正しい道へ向かおうと努力していたはずなのに、一生懸命過ぎたのか、そして自分のことだけでなく愛する人が囚われている、そんな時こそ焦ってしまったのかもしれないな、そういう時こそ落とし穴に落ちてしまう危険が潜んでるよね、って思うよ」
「本当にそうですね、だって私の聞いたところでは、巫女姫さまも若者も非の打ち所がないおふたりだったみたいです。若者は、まるでそうね、勇者のように武勇に優れて、模範的でふだんはとても優しい若者だったとか。
だから、宝物だけではなくておふたりを惜しんで、多くの人が嘆いたということでした」
「なるほどね、、落とし穴というか、その魔が差すようなこと、って本当に危険だよね。
僕の、《ラインハルト》って名前は、純粋な光っていう意味を持つんだけど、これもまた危ないな」
「…。
ライさん、そんな風に言わないで」
「《ラインハルト》っていうのはね、継承する名前なんだ。前も言ったかな、{とある役目を持つ}者がそれを受け継ぐんだ。
つまり、僕の前にも、その《ラインハルト》を受け継いだ人間がいるんだけどね…。そして、僕よりもずっと優秀であったと思うけれど、実はその人は、挫折してしまったと言われているんだ」
「…そうなんですね、劔を失った人と似ていますね」
ラインハルトは、苦々しげに言った。
「いや、どうだろう、挫折だけならまだ良かったのかもしれないな。夏美の一族の話よりもっと嫌な気持ちになる話だよ、彼はとても卑怯な振る舞いをしたんだ」
「卑怯…?」
「ああ、魔が差したと言われているけれどね、とても卑怯で許しがたい行いをしたんだ。
彼は、ある日突然に周囲の者を何人か殺害したあげくに自分をも殺したんだ。僕は、その話を聞いた時に、彼の行為だけではなくて、彼そのものを憎んだ。
いやもう、それだけじゃないな、その話そのもの、その話を聞かせてくれたお祖父様に対しても、嫌な気持ちを持ったくらいだ。
『僕と同じ名前を継承した人間の、嫌な話なんて聞かせないでいいのに』
と言って怒ったんだ。
大切な話に違いないんだけどね。
とにかく、そいつはとても嫌な奴で、闇魔法に染まったのだろう、ある意味悪に徹底的に染まったのだろう、って幼い僕は思ったんだ。
そいつ、ああ、失礼だけど彼なんて言いたくないから、そいつ呼ばわりでもいいと思うんだけど、それでもね、そいつは、聞くところによれば、とても良い人間だったらしいのだ。驚いたよ。全く理解が出来なかった。
彼こそは高みに昇り、きっとご先祖伝来の試練を乗り越えて光と闇の狭間にいって目的を達成するのだと思われていたらしい。それこそ、いわゆる《光の勇者》みたいな、ね」
「そうなのね、なんか嫌ね、理想形みたいな人がそんな風になってしまうなんて、惜しい事だし、理解不能で、思考がストップしてしまうわね」
「そうなんだよ。どこでそんな風になっちゃったんだろうって、理解できないってずっと思っていた。
とにかく、非の打ち所がないくらいのそいつはね、ある日、自分で自分を見つめ返して、虚しくて寂しいと思ったらしい。
そう聞いたよ。
最終段階かもしれない所にいたのかも、な。
すごく優秀な者だったらしいから、そいつ以外誰もいないところに到達したのかもしれないね、それならそれで仕方ないことじゃないか。一人しか到達していないのだから、孤独はむしろ、当たり前だよね。
とにかく、手を伸ばしても、何もつかめない絶望を感じたとか記録に書いていたそうだ」
「…怖くて、寂しいわよね」
「ああ、何もない虚空をつかむような気持、怖ろしいだろうよ、寂しいだろうよ、なんとなくわかる。
だけど、そいつは自分の絶望と自分の寂しさを、仲間であるはずの、他の者にも背負わせようとしたんだ。
卑怯者だよ!、そいつは。
そいつと同じ視点で同じものをみられているわけでもない、彼よりも弱くて彼よりも劣っていたかもしれない人間に、自分の辛さ、マイナスなもの全てを付け替えるようなことをしたんだ。
良く考えればわかることだが、人間の感情なんて数式のプラスやマイナスとは、まるっきり違うんだよ。
そんな簡単な道理すら最後は考えられなくなっていたのかもしれないが。
自分の辛さ、マイナス要素を他者に付け替えて、そうすることで自分からマイナスが消えてなくなり、自分の気持ちが落ち着いたり、助かることが出来るわけがない。
まるっきり論理的じゃないよ!
そいつは、全てをギタギタにした。そいつの事件の後、それが引き金となって僕の一族は大騒動になり、分裂したんだ」
「そうなんですか…ちょっと似てますね。大騒動が起きて衰退していく、みたいな意気消沈する感じの」
「ああ、似ているよね。
僕の一族は、宝物を失ったわけじゃないけど、偉大なるご先祖様のお言葉そのものが揺らいだんだ。
もともと光と闇との統合を謳い、相い反する特徴を持った魔法を統合してコントロールしうる者を理想形として、探せとおっしゃったこと自体が間違っていたと主張する一派が生まれ、旧態依然の派閥と対立してね、最も大切な教義すら忘れて争ったんだ」
「最も大切な教義って、何ですか?」
「地上の平和、さ。星乙女のモデルになったアストレイアさまが最後まで望んでおられたことだよ。
たぶん、さ…。
《自分自身を見つめ直す》ってことは、言うほど簡単なことじゃないんだよ」
「そうですね、鏡で自分の姿を普通に見ても、あらが目立ってきて嫌な気持ちになってしまうということも多いですもんね」
「うん、そうなんだよ。
さっきも例えで話していただろう?
何も考えずにいた方がある意味、幸せなのかもしれないんだ。
うかつでさ、善と悪がどうとか、考えたりしない人間の方が、さ。
檻に気づかずにいれば、檻を出ようとして暴れることもない。飼いならされたまま、暮らしていける。
神様に作られたままを、ただそれだけを守って生きていければ、それはそれである意味、幸せなのかもしれない。進歩したいとか、新しいことを創り出していきたいとか欲を持たないようにしている方が、ね。
だが、地上に争いが生まれ、神が見捨てていき、ただ生きているだけでは滅亡に向かっているのだとしたら、それに気づいて抗うすべを考え、平和をもたらしたいと考え、踏み出そうとしたら、大いにまじめに考えなくてはいけない。
答えなんて見つからない、苦しさがある。未知の領域にも踏み込む覚悟が必要だし、なかなか上手くいかないことだらけで絶望が生まれるだろう、そんな時に魔が差すことがある、そういうことを予測して耐え忍ぶ力をもまた身に着けてやっていかなくちゃいけないんだ。
むしろ、何かをつかもうとした手で何もつかめず、虚空を恨めしく眺め、絶望にのたうち回り、涙を流してからが、スタートなのかもしれない。真の意味のね。
それは、ある意味《覚醒》っていうことなのかもしれない。気づく、覚醒ってことは、幸せというよりは不幸せなのかもしれないな」
「怖いですね…」
「でも、僕は気づかないよりも気づいて、神の定めた元型からはみ出していきたいと思うんだ。不幸せと隣り合わせでも、覚醒したい。
ある意味、ちょっとだけ檻みたいなものに気づく脳みそを与えてくれていることを、心から神に感謝したいよ。
本当は、もうちょっと優秀なものだともっと良かったかもしれないが、絶望もそれと比例して大きなものになったかもしれないから、ちょうど良い脳みその程度だったのかもな(笑)。
だから、僕は、覚醒のもたらす絶望にも負けたくない。負けそうになっても、そいつのような卑怯な振る舞いだけはしたくない。
歯を食いしばっても、自分を阻止するよ」
「そうね、私も卑怯なことだけは、絶対にしたくない。
あと…本当に怖いと思うけれど、私もきちんと気づきたい。
自分の役目を上手く果たせていないことにも、きっと気づかなければならないわね。自分自身を見つめ直したら、きっと。
ええ、それでも、私はもしも踏み出せるとしたら、踏み出したいわ。
それで、私も卑怯なまねはしないし、自分自身を見つめて自分自身にダメ出しして、自分で泣いて、きっと自分を嫌いになりながら、自分を哀れに思うでしょうけれど、…。
私も、誰かに自分のマイナスを押し付けたりなんてしないわ、自分で、その自分のマイナスの痛みを全部受け止めて、のたうち回ることにする」
「そんな時は、僕も少しは夏美を手助けするよ」
「私もよ、私もライさんを手助けするわ」
「そうだね、これが共闘の、一番大切なところかもしれないな、ね?」
「そう!、私もね、今そう言いたかったの」
「あはは(笑)、また夏美より先に答えを言っちゃったね?、ごめん」
「そうね(笑)、でも、いいわ。ライさんがうまくまとめてくれたわ、そう思う。
そして、やはり思うわ。…きっと鏡を斬ろうとしたのは、何か若者が心を試されて、とても痛くて辛くて、自分を見つめ返すことから目をそらして、鏡そのものを怨むことで気を逸らしてしまったからなのかもしれないわね、気持ちだけは…すごくわかるわ。
私って、そういう人間だわ」
「そうなんだよ、僕もそう思うんだ、全く夏美に賛成だよ。
僕と、そいつ、つまり僕より以前のラインハルトとね、似ているところが僕の中には大いにあるんだ。だから、余計に嫌な気持ちになるんだと思う。
だけど、僕は目を逸らさないようにする。
ネガティブなことも、いつかきっと自分の肥やしになる、自分の成長を助けてくれるって思うしかないな。
その時には見えない景色が、ずっと先に到達して振り向いた時には、きっと見えることを祈って。そこまで報われることが少なくて、苦しいかもしれないけれどね、ずっと先に到達するまで耐える力を出し続けていきたいな」
「そうね、それくらい意識を先にまで伸ばして、自分にも少し猶予を与えて、いつか素晴らしい景色にしてやるって思わないとね。
もう少し気張って、審判者の鏡に『目に物を見せてやる!』くらいの気持ちで」
「おう♪、夏美はけっこう強いな!…僕もその意気を見習おうっと」
「もう、からかわないで(笑)」
「からかっていないよ、夏美のその意見は、僕をとても勇気づけてくれるよ」
「それならいいですけれど。
…ごめんなさい、また横道に逸れたわね、ライさん、話の続きをお願いします」
[2022.1.9後書き修正]
デルポイの神託を求める者に対する3つの箴言は、デルポイのアポロン神殿の入り口に刻まれていたと伝えられている。
一つ目は「55」、二つ目は「56」、三つ目は「89」の後書きに既に登場させた。
一つ目
《gnothi seauton》『汝自身を知れ』を重要視し、この「112」に至るまで説明を端折っていたので補足したい。
この第一の箴言(格言)だけでも、多くの人に知っていただきたいと願う。
哲学=『フィロソフィアphilosophia』はギリシア語に由来している。すなわち、〈知恵(ソフィアsophia)を愛する(フィレインphilein)〉という意味から生じた言葉なのである。
ソクラテスが『無知の知』という思索をするようになったのも、第一の箴言に触発されたからだという説がある。《ソクラテスが当代随一の賢者》という神託を頂いた友人の話を考え抜いた末の結論らしい。
哲学の黎明期のギリシャにおいてもすでに、{食べて寝る、愛し、家族をつくり、日々を過ごすことだけが生きていくことではない}という考え方が生まれ、知を愛する者たちが{より良く生きていくための指針}を論じ始めていた。それが哲学のスタートとなったようだ。
『汝自身を知れ』、この言葉は自分の心の判断指針となり、自分の行為を決めるのに非常に有用なものと考えられていたようである。
その効用の一つには、暴力行為、自暴自棄などに走るような{自分の心の怒りのエネルギー}を抑える効果が含まれている。
己だけの幸福を追求するのではなく、他者への共感性を持ち、社会性を身につけることが出来ると考えられていた言葉であろう。
知識量の多さ、学歴の有名さ?、地頭の良さなどに関わりない。
{自分自身をきちんと見つめ返す}ということは、いつでも、誰にでも出来得ることだと思う。それこそが自分自身を尊重することだと思う(まれに自己嫌悪MAXなので、しょっちゅう自分にも言い聞かせている)。