105 《地の実りに感謝せよ》 (1)
鏡が、歪む…?
今一瞬、鏡が歪んで見えたわ?
ありえないことじゃないと、夏美は思った。
昔、似たような経験をしたことがあるもの。
ちょっと身体がぐらぐらするような気持ちになり、目の前のテーブルをしっかりと掴んだ。今、うっかり怪我をするわけにはいかない。
鏡は不思議。
鏡は怖い。
昔誰かに、もうあまり鏡を見すぎないようにと釘を刺されていたのに。
それはわかっているけれど、つい見入ってしまう癖が抜けない。
たぶん、本当は鏡の魅力のとりこになっているのかもしれない。
ホテルの立派な控え室の鏡は、古い鏡と違ってひずみもないのに…。
少し、不安になる。気がつけば独りぼっちだ。
「心配だから、なるべく一人きりにならないで」
と釘を刺されていたというのに。
ドキンとしたけど、思い直すことにした。
もうあと数分で、真凛さんも来るから、大丈夫。
3日後のパーティに向けての最終リハーサルが終わったばかりで、部屋を出ればすぐに誰かに合流できる位にみんながいてくれているから、絶対に大丈夫。
疲れすぎちゃったのかな…?
ついつい、おだてられるとあちこちの木に登るお調子者なんだから、私(笑)。
少し息を整えておこう。
またつい、鏡を確認してしまう。
自分が青白い顔をしている気がする。
え? これ、私の顔?って一瞬思ったが、良く見ると紛れもなくいつもの、自分だろうと思いながら、見ている顔だった。
廊下で真凛が、誰かと明るく挨拶をしているのが聞こえてきた。
ああ、良かった。ライさんを心配させないで済むわね。
夏美は、ホッとする。
相手の声は良く聞こえないが、真凛の声は気持ちの良い高音で良く通る。
どうやら誰かに控室に一緒に入りましょう、みたいなことを言って誘っているようだ。
部屋が賑やかになれば、変な物思いも吹っ飛ぶわね!
「夏美、ごめんなさい、お待たせしました。
打ち合わせも終わったし、帰りましょうか?
でも、帰る前に少しだけお話したいと、ラインハルト様が言っているんだけど?
どうします?何なら、おふたりでまた私の車に乗る?」
「え?でも…真凛さんも今日ずっと動きっぱなしで疲れているのに。
そんな、お仕事の延長みたいにならないですか?」
「いえいえ。
あら?夏美は少し顔色が悪いみたい、大丈夫?」
「ええ、今さっきちょっと立ち眩みみたいになって、」
「あら、それは困った。大丈夫? 医務室に行く?」
「いいえ、もう全然普通に立てますもん。真凛さんの顔を見たら、ほっとしました」
「今日の最終リハーサルがハードだったものね。そうですよね、疲れちゃったわよね?
今ちょっとお引き合わせしたい人をお見掛けしたのだけれど、その人が遠慮ばかりしていてね、でも遠慮して帰って行ってくれて、ちょうど良かったのだわ。
夏美をさらに疲れさせるところだったかも」
「パーティの時にご紹介してくださる?」
「ええ、もちろん。でもその方はとても恥ずかしがりやさんで、パーティには来られないかもしれないの。
ラインハルト様が熱心に勧めているのだけど。
でも機会があったらぜひ、ご挨拶させてあげてね。
善蔵さまとも知り合いの、年配のまじめな紳士よ」
「ええ、ぜひお願いします」
外から扉をノックされる。
「「どうぞ~♪、今は大丈夫ですよ♪」」
ドアを開けて、ラインハルトがひょこっと顔を覗かせる。
「へえ、女性側の控室もけっこう広かったんだね。まぁ、男子禁制だろうから、ここで話すけど。
夏美も真凛も疲れたかもしれないから、僕の車で夏美を送るよって誘いに来たよ♪」
「あら、でもライさんだってお疲れでしょう?」
「大丈夫。山本が運転してくれるから。夏美があまり好きではない高級車らしいけど、今夜は送らせて欲しいな。夏美と話したいことがあるんだ。
真凛も疲れただろうから、今夜はまっすぐ家に帰ってもらいたいし」
「私はけっこう元気ですよ。
でも、夏美様が心配ですから、その方がいいかもしれませんね。
今少し立ち眩みをしたそうで、」
「え?そうなの?大丈夫かい?」
「ええ、ちょっとだけ。もう治ったみたいですけれど。
じゃあ、ライさんのお言葉に甘えます。
真凛さん、ごめんなさい」
「いえいえ~、お気遣いなく」
「うん、じゃ、つかのまのデートだ♪
なかなか時間が取れなかったからね。帰り道に少しだけでも話をしたいと思って」
♣︎♣︎♣︎♣︎♣︎
「大丈夫? 気分はどうかな?
クッションはもう一つあててみようか?」
「ええ、今はちょうど良い感じで、楽です。
ご心配をおかけしました。本当に、ただ一瞬の立ち眩みみたいな感じだけでしたから、」
ラインハルトがにこっと笑って、仕切り窓を指さした。
「あのさ、今パーティションを閉じているから、そんなに気を遣わなくてもいいよ。
疲れているのなら、もうちょっとぐで~~っとこんな風にしてても」
ラインハルトがでれ~っとお行儀の悪い座り方をする。
「でも、意外とこの姿勢の方が、疲れる気もするけれどね」
と言って、すぐにいつものような行儀の良い座り方に直した。
「何かあったんだね?
顔色はともかく、ちょっと表情が固かったもの。
話してもらえる?」
夏美は、うなづいた。
「鏡がね、一瞬、控室の壁の鏡が一部だけ歪む気がしたの。
たぶん、気のせいだと思うんだけど」
「そうか、夏美は鏡が怖いって、ずっと言っていたんだっけ。
そうだね。女性用の控室は、大きな鏡だらけだもんね」
「ええ、私はなぜなんでしょう、怖いと言いつつ、鏡に強く惹かれるものがあって。
逆にものすごく鏡が好きなのかもしれない。と思う時があるの。
鏡を見ると、自分がもう一人いるような気がするでしょう?
映っている自分を見るのが好きとかじゃなくて、鏡そのものの不思議さがたぶん好きなんだと思うんです」
「なるほどね。何となくわかるよ。
僕も小さい頃、独りぼっちの時に、鏡の中の自分に話しかけていたりしたよ」
「ライさんも? なんか鏡の中の方が、ううん、どっちの自分が好きだった?」
「もちろん、その時によるな。いつもの自分よりも少し良い方の自分。そっちが好きだな。
僕は叱られて『部屋から出てはいけません』って言い渡されても、外に出ていくから。
『さっきの僕じゃないよ、今の僕は。お利口さんの方のテオドールだから』って理屈をこねる可愛げのない子供だったから」
夏美は笑った。
「ライさんてば。そういうの、いつも成功したの?」
「うん、まぁ五分五分かな(笑)」
「あのね、一つ変な話をしてもいい?
誰にも話したことはないんだけれど。だって、その人が真似したら困るから。
だから、聞いたらすぐに忘れて欲しいんだけど」
「うん、いいよ?」
「昔、小さな頃の話よ。
親戚の家に、古い細工の三面鏡があってね、自分の顔を中央の鏡の近くまで持っていって、左右の鏡を折りたたんで自分の頭をその△の中に置いてみて何が見えるかやってみたことがあるの」
ラインハルトは、手をたたくようにして笑った。
「ああ、そんなことか。
ふふふ、僕たち本当に似た者同士かもしれない、それは僕もやったよ。どういう仕組みかわからなくていろいろ試してみたりして。
夏美には何が見えたの?」
2人で顔を見合わせ、夏美はほっと息をついた。
「良かった、ライさんも知っているのね?
完璧に顔を突っ込んで、きっちり左右の鏡を閉じてしまう位にすると、意外と暗すぎて何も見えないんだけど、そこから少しづつ鏡を開いて光を少し取り込むと、ええ、たぶん{見てはいけないものを見た}のだと思うわ」
「うん、まぁ、僕は{見てはいけないものを見た}というよりも、わくわくしたけどね」
「じゃ、違うものを見たのかしら?
ほぼ全部、私のコピーだった」
「そりゃそうだよ、同じく」
「自分の顔がそんなに好きではないのに、こんなに増殖していて、なのに、その中に自分じゃないものが混ざっているような気がしたわ。
そんなことなかった?」
「うん、あったよ。そんなのを探していたもの」
「ああ、そうなのね。私は、何が起こるか興味津々なだけだったので。
『あれ?今変なのを一つだけ見つけた!』って思って、次の瞬間にまじまじと良く見ると、やはり全然普通のコピーに見えてしまい、{そこに無い}んだけど、またざっと見直してみると、今度は別のところに間違い探しみたいに少し異質なものが発見できて。
ああ、どんどん話が飛んじゃうわね、つまり魔力のある鏡だとしたら、いつも{自分と同じものが映るとは限らない}かもしれないし、{自分ではない自分に似た誰か}がそこに映っているのかもしれないかなと思って」
「うん、わかるよ。僕の場合は、魔法生物とか探しているって言っただろう?
ミッションと言うよりも、子供の頃から誰に言われなくても、そういうことをしてしまう子供だったんだ。
{そこに誰かいないかな}って探していた。なにか、うっかり鏡の妖精がボロを出してくれて、知り合えないかなって思っていたと思うんだ。
そうじゃなくてもさ。普通の鏡も不思議なことはあるよね?
普通の鏡を見ても、僕もたまに『これが僕だっけ?』と思ったりすることはあるからね。
これ、本当に僕の顔が写っているって断言していいんだろうか?みたいに疑ったりして(笑)」
「ライさんも?」
「うん、ずっとふざけているわけじゃないからね。
心もとない気持ちで眺める時もあるんだ。
以前に話しただろう?
時を飛び越えるために冷凍たこ焼きのように眠っていたりする僕は。
長い眠りの時は、起きたはずなのにぼうっとしている時もある。寝ぼけていて夢の中のことの方が本物の現実だったように思っていたりもする。だから、夏美の夢の話も、すごく好きなんだよ。
ずいぶん眠っていると、『元々、僕ってこういう人間だったのかな?』とか、思い出せない何かがあったりする。
かと思うと、それこそ夏美の夢じゃないけれど、僕が今の僕じゃなくて、空想の中の僕だったりするような、僕のじゃない記憶のもとに夢を見ていたりする、ややこしい話だよね。
僕は以前、考えたことがあった。眠りと死ってある意味、近いような気がしない?
もしかして僕は、いったん全部ダメになって死んでしまっていて、何か{ラインハルトだろうとおぼしきもの}を拾い集めて錬金術で固めるように合成した、元の僕のまがい物なんじゃないかと思ったりもしたんだよ。
そこに、僕の記憶がパソコンか何かのソフトウェアのように移植されていたりしてね」
「そういうの、すごくわかります。
私も不思議な夢を見過ぎると、どっちが本物なんだろうって思ったりしていました。今ここにいる夏美という存在の方がまがい物で、鏡の中の自分の方が、あ……!」
「どうしたの、夏美?」
「ええ、そうよ。いつかどこかで、私が寝ぼけてかんしゃくを起こしていて。
鏡の向こうで私じゃない誰かが倒れたような気がするんです。
夢なのかな?
夢じゃないのかな?
そして、起きて現実に生きているのは、私。
私が誰かに取ってかわってしまっていたとしたら、ちょっと申し訳ないような気がしたことがあるんです」
「僕は、夏美に会えて良かったなぁと思っている側で。夏美は夏美であって良かったなと思う。そして、これからまたちょっと性格が変わったり、知らない側面を見せてもらっても、夏美なんだ~って思うけれどな。あ、ツッコミというか、意見はすると思うけど。
夏美は、最近魂の中にたくさんのみんながいて、その複合体だって喜んでいたじゃないか。
僕は、その夏美の考え方、すごく気に入ったし、僕もとても気持ちが落ち着いたんだよ。
夏美がね、azuriteが弱い石で孔雀石に変質したとしてもそれでいいって言ってくれていたことを思い出したからさ。僕は気が楽になったんだ。
僕が、変質したとしても。夏美が変質したとしても。
お互いに変な影響を与え合ってしまって変質させてしまったとしても。
僕たちはまがい物なんかじゃなくて、本物なんだと思えばいいのかなって」
「ええ、そうなんですけれど。それに関連して。
私が最初にライさんの家に来た時に話した夢の話をもう一度してもいいですか?」
「うん、もちろんだよ。どの話?」
「ええと、黒いドレスと白いドレスの話なんです。
ごめんなさい。
ライさんは、この話があまりお好きじゃないかもしれないでしょ?
『白鳥の湖』っぽい話。だから本当はやめようかと思ったんですけど」
「うん、以前はそうだった。色々と思い出させられることがあったから。
でも、良い機会だから夏美と話したいって僕も思うようになった。
それに、別に僕はあのバレエの名作を嫌っているわけじゃないからね」
「良かった、私、あの時そこまで深く考えていなかったけれど、あの夢の中のことが私にとって大切なヒントだった気がするんです。先日考えていたんです。私の中のお札さんのことを良くわかるきっかけになりそうで」
「ああ、そうだったんだ。夏美も一つ前進するんだね♪
後で僕の葛藤も聞いてくれるかい?
夏美のおかげで良いヒントをもらえることが多くて、僕もまた一つ進める気がするんだ」