第143話、王子の受難
「爺や、何か外が騒がしいぞ?」
王子が外の異変に気付き御者席と馬車内とを繋ぐ小窓から声を掛けます。
しかし爺やは正面に立ち塞がった1匹の大猿と睨み合いを続けていて王子に返事を返す余裕はありません。今、後ろを振り向けば確実に首を刈り取られた騎士と同じ運命を辿るでしょう。
爺やは御者席に座りながらも、杖を持ち上げその先端を大猿に向けると取っ手を捻ります。すると――先端から鋭利な刃が飛び出しました。
王子は呼んでも返事が無い事を訝しみ、小窓から外の様子を窺うと、そこには醜悪な貌の魔物が今にも爺やに襲い掛かろうとしている様に見えました。
一方、騎士団長は――。
まさか一撃で精強な騎士団の一人が倒されるとは思ってはおらず、残った1人と背中をくっ付け死角を減らす様に大猿と対峙していました。
「騎士団長、あの長い腕は厄介です」
「そうだな。まさかリーチの差をこれ程感じる戦いは俺も初めてだよ」
騎士団長は一瞬チラリと足元に倒れている息絶えた部下を見下ろし、言葉を交わします。こちらの隙を窺っているのか、2匹とも動く気配はありません。
しばらく睨み合いが続きますが、均衡が崩れたのは予想外の方向から騎士団長を呼ぶ声によってでした。
「騎士団長! 大変だ! 爺やが――爺やが殺されてしまう!」
実際には爺やは大猿と睨み合っている最中なのですが、慌てた王子が横の窓から顔を出し馬車の後方へ声を掛けたのでした。
「――ちっ」
騎士団長達と睨み合っていた大猿が王子に気づき、隙だらけの王子に標的を変えようと飛びかかった瞬間、騎士団長も王子を守る為にその斜線へと駆け袈裟懸けに剣を振り下ろしました。
大猿の動きは素早く、剣は狙った胴体では無く足を軽く切り裂きますが、グオッホ、と悲鳴を上げただけで馬車の屋根に飛び移ります。王子は突然馬車の方に飛んできた大猿に驚き、悲鳴を上げると腰を抜かして車内に転げ落ちます。
馬車の窓は小さく、車内に籠られると入り込む事は出来ず、
偶然にも王子の身を守る役割を果たします。
これを好機と読んだ騎士団長が馬車の屋根に飛び移った大猿に向けて懐に閉まっていた小型のタガーを投げつけます。
大猿はそんな物で自分は倒せぬぞとでも言うように高笑いをあげますが、これは大猿の気を逸らす為の騎士団長の策で、大猿が長い腕を振るいタガーを撃ち落とした隙に馬車に近づくと――屋根からはみ出ている両腕目掛け剣を一閃。
ザッと、鈍い音がすると馬車の周囲に大猿の血飛沫が飛び散り、馬車の脇には切断された両腕が落ちていました。
腕を無くした大猿は断末魔の雄叫びをあげ騎士団長から遠くへ逃げようと膝を曲げますが、騎士団長は打ち下ろした剣で両手を切断した瞬間に燕返しの様に剣を持ち上げると助走をつけ飛ぼうとした大猿の腰を剣先で薙ぎ払いました。
「こんな所で坊ちゃまを死なせる訳には参りません」
大猿と睨み合いを続けていた爺やは、懐から小瓶を取り出すとコルクを抜いて中に入っている黒く粘り気のある液体を杖の先端、刃を忍ばせてあった方へと垂らしました。大猿は爺やのそんな姿をジッと見つめています。
事態が動いたのはやはり王子が馬車の窓から大声を上げた時でした。
エリッサちゃんの時と同様、魔物は弱者を甚振る傾向があり、隙を付くのがうまい。いや、隙を見逃す愚かを犯さない。
人と違って良心など無いのだから当然です。
怪しげな雰囲気の爺やよりも余程王子が甘い餌に見えたのでしょう。
腰を下げ飛び上がる瞬間、爺やから視線を逸らしました。
この隙を爺やも見逃しませんでした。爺やの持っていた杖は突然伸びると助走を付けようと中腰になった大猿の脇腹へと吸い込まれて行きます。ウォッ、刺さった深さは浅いですがそれに驚いた大猿は王子とは逆の方向へ飛び退きます。
刃に塗られた黒い液体は即効性の毒で大猿の体内を蝕み、大猿は着地した瞬間、ガクリ、と崩れ落ちますが死んではいません。
そこへ王子に飛びかかった大猿を退治した騎士団長が割込み――。
「マキシマム殿、無事か?」
後を見ずに爺やに声を掛けると同時、剣を毒の影響で四つん這いに頽れている大猿の首へと切腹の介錯よろしく、打ち下ろしました。
ザッ、大猿の首は無念の雄叫びを上げる暇もなく、その場に転がり絶命します。
「助かりました、キリング殿。それで首尾は――」
「ダリスタンがやられた。フェズリーがまだ睨み合っている」
「それでは急ぎませんと……」
爺やからは馬車の後方で睨み合いを続けている、騎士の姿は確認出来ませんが騎士団長からは出来ます。爺やと騎士団長が刹那の合間会話を交わしている間に、仲間を殺され自らの不利を悟った大猿が軽く膝を曲げると勢いはそのままで後方へと飛び退きました。騎士と距離が離れるとそのまま反転、馬車がやって来たガンバラ王国側に一目散で逃げていきます。
騎士が背後から切りつけようと追いますが――。
「フェズリー! 放って置け!」
騎士は騎士団長からの命令でそれ以上は追わず、大猿の姿が小さくなっていくのを、歯を食いしばり見つめていました。
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