二章 一 乗船
お疲れ様です。クロです。寒くなってきましたね。
私の部屋にはよく小蠅が暖を取りに来ます。彼等はどうしてこう礼儀がないのでしょうか。
何も私達だって鬼じゃあるまいし、小蠅側がしっかりこちらがわかるようにチャイムを鳴らすなりドアをノックするなりしてから入室し、その上で三つ指ついて「シェアハウスなどさせて頂きたい所存でございます」などと菓子折りぶら下げて挨拶してくれれば快く迎え入れ───たりする訳でもないんですけど。普通に殺生しますけど。
因みに本編に小蠅要素はありません。
月が沈んでいる。
水面にはぼんやりと黄色い月が映っている。それが、私には沈んでいるように見える。海の底で、月がなりを潜めているように見える。満丸い影が風に拐われる波と一緒にぼやぼやして、左右にふらふら揺れている。波に飲まれて揺蕩う丸い月。兎の模様がぽやんと浮き出ているようないないような。その様はまるで水面に傘だけ浮かせて波に漂うクラゲの如しで、海の月とはよく言ったものだなと思う。
私もそう。暗い夜の街の底でなりを潜めて、噂と権力に流される人の波に飲まれて、自分自身はといえば白黒はっきりしないでぼやぼやしながら揺蕩っている。腕を引かれる方向へ、ふらふらと揺れ動いて、なんとなくよく見たら水母海月という人間の影がぽやんと浮き出ているようないないような。すなわち私もクラゲの如しで、海月という名前はある意味お似合いだ。
むかしむかしはそんなことでもなかったのだけど、自分を持っていることを悪とされてから、正しい人間のあり方とはなんなのか、正しいってなんなのかがよくわからない。ただ、漠然とつらくなったから逃げてきた、その根性が悪性のものだと見なされるのは知らぬでもないけれど、私個人だけで見るなら決して間違いでもない。正義と正解は違うのだ。私は、正解の意で正しさを取って、逃亡癖を直す気があるのかないのかもよくわからない。
「海月ちゃん!」
「わっ」
不意に後ろ手を引かれ、屈んでただ広い湖を覗いていた私は尻もちを介して後ろに倒れ込みそうになる。
慌てて体勢を立て直したら、血相変えてドレスと同じくらい真っ青な顔をしたイルが視界に入った。
「何してましたの?」
「つき、水面に映った月を見ていたの」
「月……」
イルはほっと息を深く吐いて、ニッコリ私に笑った。ついで、よかったとぽつりと呟いた。その顔が何やらいきなりドッと疲れたような顔で、さっき私に普段のパーティーの様相を饒舌に語りながら、比較的動きやすいワンピース調のドレスを生き生きと着付けていた彼女にまるで重ならなかったので、興味本位でどうしたのと聞いた。
「ええと、この前ここで入水自殺未遂の騒動がありまして」
驚いた拍子に私もこの広大なエメラルドグリーンにうっかりダイビングしそうな勢いでシャレにならない出来事だった。なるほど、まさか私が入水自殺手前だと思ったのだろうか。そのまさかなのだろう。
「ともかく、お邪魔してしまってすみません。ええと、先程船が着きましたから、行きませんか?」
「うん」
短く返事をして、イルの後につく。
ワンピース調とは言えどフレアスカート式で、重たく分厚いそれが湖際を走り去る冷えた風に時折ふわりと攫われた。その度にスカートの下の足の隙間は勿論のこと、珍しく細かい三つ編みを混ぜ込んで髪を縛った、そのおかげでガラ空きになった首元を風が通り過ぎるので、その意味では早く船に乗ってしまいたいとは思った。薄いレースの白いカーディガンは自前だが、ううん、夜始めの寒さを舐めていた。
これから行くパーティー会場は船の上にある。大きな湖を豪華なフェリーがのんびり迂回して、登っていった月が再び降りてくる頃に船から降りることが出来る。船酔いする人間を殺すようなプログラムだが、私は酔わないのでよしとする。それにしたって、夜始めとは、夜しかないここら独特の時間帯の名称だ。夜始めに月は登る。今は夜始め。夜中に月は一番上にきて、夜継ぎに月は降りてくる。この間、時計で表すなら午後六時から午前六時。今は午後六時半で、厳密にいえばパーティーは午後七時から行われる。聞いた話では約半日アホみたいに踊り狂うというのだから、全く付き合っていられない。船はメインホールとサブホールの他に下層があり、そこには出店のように店舗が並んでいるとかなんとか。フレッケは慣れないうちはそこで時間を潰していたというので、私もそのつもりである。
「そういえばフレッケたちは?」
「先に乗りましたの。お兄様はご挨拶回りに、フレッケちゃんは、人目に触れず過ごしたいのだそうですわ」
それならフレッケについて行けばよかっただろうか。いや、今更後の祭りだ。それに、船の前に来て、大量の貴族の中を歩いていても割と変な目では見られていない……気がする。だけかもしれないが。それにしても、こんなに多くの貴族が、元いた区画より狭いこのクヴァレのどこに収納されていたのだろう。年齢も、私やイルより小さいなって子もいれば、可憐にお年を召した素敵なおば様まで様々である。この中にイルやビゼンさんの従兄弟もいるんだろうか。昨日は会わなかったが、そういえばヒョウはカルキアのメイドをしているはずなので、もしかしたら運良くヒョウを捕まえられるかもしれない。いや、仕事の邪魔をするようであればそれは控えるべきなのだが。
イルの真似をして招待状を乗組員に手渡す。イルの時とは違って暫し私の顔と招待状を見比べたが、最終的には通して貰えた。やはり、私の顔に馴染みがないからだったのだろうか。
ぐらりと揺れる船に、低めのヒールブーツで恐る恐る踏み入る。私が一歩動く事に不安になるほど揺られているような気がしたが、いざ乗り込んで五歩も歩けばなんとなく慣れた。
薄ら化粧をしたイルが私に元気に敬礼をして言った。
「では、私は挨拶回りに行ってきますわ!海月ちゃんもどうかどうか、楽しんでいってくださいまし!」
「えっちょっ、」
私が止める間もなく、イルはまた後でと叫んで船の屋内に消えていった。私を置いて挨拶回りとは、自由人といえば自由人だと思うが、仕方ないといえば仕方ないことなのだろう。本来私とはなんの関わりも持てないはずの有名どころの貴族なのだ。社交的なのは勿論だが、挨拶ひとつとっても、兄が半ば政権を握るような形をとっているのであれば潜在的な重要事項なのだろう。出来れば置いていって欲しくなかった気持ちは勿論変わらないが。
ひゅっと氷水のような風が強く吹きかかり、髪がふわっと拐われた。カーディガン一枚でどうにかなる寒さでなくなり始めたので、意を決して煌びやかで華やかで光がうるさい屋内にぼちぼち潜り込んでみることにした。いざ入るとなると、やはりドキドキする。
「ちょっと邪魔ッ!」
「んえ」
間抜けな声を上げて振り返る余地もなく私は後ろから半ば突き飛ばされるような勢いで押されて、思わずよろめいた。開放しっぱなしの扉の縁に咄嗟、手を添えてバランスを取り、二、三段の階段状の段差から転げ落ちる一歩手前でなんとか踏みとどまる。
なんだなんだ、邪魔だと突き飛ばした割に男は何故か立ち止まって振り返りこちらを見ているようである。気配でわかる。クソ野郎絶対顔覚えて帰るからな、という硬い決心を持ってして、グッと顔を上げて、驚いたというか呆然として、訝しい半分、腑抜け半分に声が出る。
「びぜんさん?」
漆塗りのような黒い髪、前髪も後ろ髪も長いし、顔立ちもだいぶ綺麗に整っているので勢いそう言ったが。屋敷を出る時に来ていたトレードマークの赤いコートもどっかいってるし、前髪も綺麗にピンで止めているし、何より朝焼け色の三白眼が消失して、キツくつり上がった目尻に、丸みを帯びた橙色の目が点っていたのでよくよく見ればそう、別人のようでもある。
「ビゼンちゃん……、俺が?」
男は一旦素っ頓狂な顔をしたが、次の瞬間吹き出した。
「俺がビゼンちゃんなわけねーじゃん、何。馬鹿なの?」
末代まで呪うリスト筆頭に書き加えた。
いや、私が今まで他区画にいて、ビゼンさんを見たのは昨日が初めてで、実は貴族でもなんでもないことをこのバカは知らないのだ。仕方ない、仕方ないと思いたいのに思えない。なんだろう、急いでいたようなのでパーティー大好きマンか何かかと思うのだが、とりあえず苦手な男なのは分かった。
それより私この人をビゼンさんと間違えて、この人今「ビゼンちゃん」と呼んだような。まさかこの人が例の
「いた!兄さん!」
「げっ……」
後ろから男ついで駆け寄ってくる。乗組員の方ももはや何も言わないのは、これが日常茶飯事という最低な解釈で正しいのだろうか。
「何してんの、この子は?」
「あー……、丁度良かった。あと任せていい?このお貴族社交会初心者の女の子が扉の前で突っ立ってたからちょっと突き飛ばしてやったんだけど」
「はあ?……、ちょっ、どこ行くの兄さん!兄さん!?」
人が増えて普通に処理に追いつかないのもあり、とりあえず一旦口を挟むのはよして成り行きを見守っていたのだが、それが吉と出たのか凶と出たのか、私を突き飛ばした「兄さん」側の男は本気で後から来たこの人に全て丸投げる姿勢で会場内に早足で消えていったので、もう少し問題にしてやっても良かっただろうかとも思う。弟さんときたらわかりやすくご立腹で、長くうねるような髪が今にももぞもぞと動きだしそうな勢いだ。それも少ししたらわかりやすく大きな溜息をしてからパッとこちらを見て言った。
「えー……っと、大丈夫?怪我は?」
「あ、そこまでは……、大丈夫です」
「ごめんね。アレ俺の兄さん、なんか会場の雰囲気にあてられたんだと思う。後で怒っとくから」
あの人の目は見たことないくらい眩しい橙色だったが、この人は打って変わって暗い暗い夜色の瞳で私をじっと覗き込んでくる。月明かりのない、ただ星だけが照り映える真っ暗闇を油性の絵の具で厚く塗りたくったようなやけに重層感のある目と、それをそのままペーストしたようなよく手入れされた夜空色のブローチが、どことなく私に物言わず圧をかけているのを感じて、心の臓が押し潰されそうな心持ちだ。
にしても、血が繋がっているを前提とした場合、本当に何もかも打って変わっているな。私にも兄弟がいたが、わりと似ていると言われがちだったので人間は分からない。
「は〜〜〜〜〜〜追いついた!」
遅れて、女の子が一人ふらふらと走って寄ってきた。栗皮色のボブヘアを後ろで括った、まあ見慣れていて且つ会えたらラッキーだなと思っていたヒョウの顔だった。これでようやっと全てに確証がもてた。
「ヒゼンさんは!」
「ごめん、取り逃がした」
「でしょうね……」
ヒョウは弟側の男の人とのやり取りでガックリと肩を落とした。
「ヒョウ、私」
そのままでもまあ別にいいといえばいいのだが、このままごたついてこれ以上置いてけぼりを食らっても嫌なので、会話が切れているのを読んで声をかけてみる。ヒョウはこちらに全く気がついていなかったので、私を見て、まんまるい目を一層見開いてはぱちぱちして、かと思うと私の名前を闇雲に叫んだ。
「ミツキ……あ、何、知り合い?」
私が答弁する必要もなく、問に勢いよくヒョウは答える。
「知り合いも何も、友達です!けど、なんで?」
「話すと長いけど」
ヒョウは腑に落ちていない様子だ。そりゃそうだ。私は昨日までカルキアのカの字も知らない一般人だったのだから。それがらしい服を着て貴族の集いにしれっと潜り込んでいるとは誰も思えないだろう。
相反して、私は概ね全てに合点がいっているので、あとは上手いこと答え合わせだけ出来ればというところにいる。ヒョウからしたら、このやけに訳知り顔の私も気色悪いかもしれないのでただ申し訳ない限りだ。
男の人が各々思うところの沈黙を割って「ヒョウ」と呼んだ。
「二人で過ごしてなよ。俺と兄さんについてきたって酒飲めないんだから、その方が楽しいでしょ」
食いつくような咄嗟の「有給ですか」の言葉に、私も男も緊張しっぱなしの表情筋が少しだけ緩んだ。
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綺麗な白い半袖のブラウスに何枚か布を重ね、それをビビットな桃色のハーネスベルトで一括にまとめたちょっと胸元のキツそうなメイド服のヒョウに連れられて、煌びやかな会場と無作為に踊る貴族の群れを掻っ切って船の下層に来た。入ってすぐに広がるメインホールはギュウギュウという程でもないが、最低限踊って飲み食いをするに必要な空きスペースしかないような混み具合だったのに対し、下層部分は割とガラガラだった。お祭りの屋台のように転々と店が並んでいて、これまた貴族らしい奇抜な色のノンアルコールカクテルとか、やけに焼き色の少ない細切れの肉とか、そんなんばっか売っていた。
それに、下層部の壁は一部を除いてガラス張りで、水面に屈折した水の外の明かりが波の泡と小魚の群れの影絵を照射して、まるでアクアリウムの中に閉じ込められたようにうっかり息を止めてしまいそうになる。月は昇っていって、今ちょうど見えなかった。夜しかない町の特性なのか、普通そうなのかは知らないが、この街の月は一定の位置以上まで昇ると一瞬姿を消す。その間、町は完全な夜の中に囚われる。だからこの時間を、夜中という。そして月の頂上を誰も知らないのもまた、当然のことなのだ。
「で、なんでここにいるの?」
手頃な椅子とサイドテーブルに二人向かい合って腰かけると、ヒョウはさも何が起きているかわからない顔をして私に聞いた。
「昨日の帰り、雪が酷かったから小屋でやりすごしたの。そしたらイルって子に会って」
「あー……。イルちゃんね、なんかわかった気がする」
これが俗に言う、お察し、というものだろうか。
「そっちは?」
「まあ、イルちゃんから聞いてるかもしれないけど、私はカルキアっつっても、そっち二人の従兄弟の家系のメイドなんだよね。さっきの人は私の主人。……って言ったって、あの人より兄側に手を焼く方が多いけど」
「ああ、なんかそれは、うん」
これも俗に言う、お察し、である。
ヒョウが「あれ」といって、兄方に会ったことがあるのかと聞くので、私は先程の一連の胸糞話を端折らず真っ直ぐ伝えた。
ある程度話し話された後、また無駄に知識を増やした。
やはり私の推測は概ね正しくて、ビゼンさんとイルの従兄弟に当たるのがあの兄弟だという。ビゼンさんに似てはいるものの、認めたくはないがビゼンさんよりやや顔立ちの整ったピンの男がヒゼン。そしてその後にフォローしてくれた夜色の弟がエチゼンというらしい。そしてその家系を「第二勢力」と呼ぶそうだ。所謂分家ということで、本家は「第一勢力」。権力で降順に並んでいて、大体どこの貴族の家系でも第二から第三はあるが、勢力名で呼ばれるのは基本カルキアだけとのこと。そうなると逐一第二呼ばわりされるあの兄弟も多少は不憫な気もしてくる。永遠の二番手と呼ばれているようなものだろうに。そのせいで兄方の性格はあんなことになったのだろうか。
似たような名前だね、と聞くと、偶然といえば偶然なので確証はないがあの響きが名前に好んで使われてたとか多分そんな感じだと思う、と説明された。滅茶苦茶に大雑把で何の根拠もないが、きっと本当にそういう感じなんだろうとも思う。
「海月、散々だったね。やっぱり幸先悪め?」
「やめて、シャレにならない」
ヒョウはぷはっと私を笑った。私もふっと笑ってみた。
それから他愛のないいつもの話をして、お互いの不幸の愚痴を語り、ただ座って話すことも尽きて最後には溜息が残った。
「なんか食べよっか。海月のも第二の経費で落とすよ」
「いいの、それ」
「二人分の食費も浮かないであんな厄介兄弟のメイドなんかやらないよ」
「それは、確かにそう」
またお互いに見合わせて、声を殺して笑った。
「二人とも」
後ろから声をかけられて振り返るとさっきの人がいた。ええと、確かエチゼンさん。全く気配がない上に直前の話題が話題だったので少しばかりゾッとした。特に私たちに用事はないが、見かけたので声をかけてみたという感じだろうか。やはり長い黒髪だが、ビゼンさんや兄方に比べると少々猫っ毛が目立つし、二人に比べて童顔というか、とりあえずパッと見で別人だなとわかる目鼻立ちと雰囲気だ。
「あ、エチゼンさん。海月、この人だよ」
ヒョウが私に紹介すると、エチゼンさんもどうもと軽く会釈した。私も咄嗟に似たように返した。その後ヒョウがやはり兄方の話を振るので、よほど問題児らしい。私には無縁の話なので、隣で何となく流し聞きしていたが「兄さんならさっきワインのコルクぶっ飛ばして協勢力と大爆笑してたけど」という一言が折り入って分かり合えなさを感じる。ヒョウの「ああ、そうですか」というセリフと息遣いに何となく安堵感に近いものを感じるのは、やはり日常だからなのだろうか。
「エチゼンさんは何をしに?」
「逃げてきた。俺やっぱ人と話すの向いてないわ」
ドシンパシーである。逃亡癖とコミュ障を併せ持つ私であるからだろうか。学校でもヒョウがベニを引き連れて話しかけてくれたから今の生活がある。ここにいるのはイルに話しかけられたからだし、ヒョウにここで出会えたのは兄方のヒゼンという男にある種絡まれたからである。実際クヴァレの人って、割とパーソナルスペースが狭いというか。コミュニケーション障害を有する私は少し肩身が狭かったまであるので、こういう人もいることにシンプルな安心感を覚える。
「あの。すみません」
私たちが三人……というか、実際はヒョウとエチゼンさんの二人で、談笑していると背の高い人が声をかけてきた。「御手洗はどこにありますか?」とのこと。目深に被ったフードからちらりと見える若草色の毛先に、色白の肌と、男性なのか女性なのかいまいち判別しがたい細身の体。正装の域は出ないが華やかさを称えるゴシックパンクな黒い服が、前開きのロングコートからちらりと見えている。メンズにも見えるが、いかんせん容姿が中性的なので些かジェンダーな雰囲気もある。早い話が、顔を見なくてもわかる美人である。何をもって我々に話しかけたのか。
ヒョウの「あっ」と立ち上がるその肩にエチゼンさんはトンと手を置いて、自分が案内しますよと名乗り出た。ヒョウが消えて困るのは他でもない自分だが、メイドにやらせればいいものを、とも思う。ヒョウだっておそらく同じ気持ちで対抗するように立ち上がるのだが。
「ダメ。今日は有給休暇だから」
そんなことで主人に仕事をさせるわけにもいかないが、そんなことで主人の言うことを否定するのも忍びないのである。ヒョウは大人しく緩い返事をして座り込んだ。
しかしエチゼンさんには勝手にコミュニケーション障害認定をしているが、大丈夫だっただろうか。自分が行くのが手っ取り早いのではとまで思ったが、トイレの位置は私も知らないし私もコミュ障なのでどうしようもない。
「あの人、多分見たことないんだよな……」
気がかりのある様子があったヒョウから、ポツっと声が出た。
「失礼だったら普通にごめんなんだけど、気にするほど逐一覚えてるもんなの?」
「そりゃあ。ほら、こういうイベントとかもだけど。有名貴族ってだけで変な虫ついたりするからさ。いざって時にね。……まあ、エチゼンさんの方が貴族について明るいし、私より強いから大丈夫だと思うけど」
最後の早口の一言で戦慄する。
ヒョウは体育の成績が良い。あからさまな体育会系で、つい数日前の体育では、柔道を教える体育教師に「本気で投げていいぞ」と冗談風に笑って言われて、じゃあ遠慮なくと"マジで投げやがった"女である。ベニ曰く、立てば台風、座ればゴリラ、歩く姿は殺戮兵器。それの上を行くのか。あの人が。
「あの人が……?」
「なんか絶対言われるよ、それ」
ヒョウは苦笑した。私はそれを見て、その体育の一件をことさら鮮明に思い出して吹き出してしまう。
その、本当に途端、耳にドカンと破裂音が響いた。
同時に船が大きく傾き、私が座っていた方は途端下に落ち、ヒョウがいた方は突如大きく持ち上がる。
「おわ!」
船のどこかが、多分爆発して、あるいは強い衝撃で押されて、船の片側が大きく湖に沈んだのだった。反対に、その勢いでもう片側は大きく持ち上がり、もしかしたら宙に浮いている。
「海月!」
こんな状況なので、私は本来であれば椅子から転げ落ち、縦になった船内で重力に従って船の先の方まで落ちていく算段だったかもしれない。が、椅子は空間にガチッと固定されたように途端動かなくなった。椅子だけでなく、机も、店の暖簾も全てである。
動いているのは、爆発のような衝撃でどちらかに傾き倦ねている船と、困惑する人間のみだ。ヒョウは固い息をついて固定された机にしがみついて凌いでいた。
船は暫し縦のまま停止したあと、幸いにも転覆はせずにゆっくりとその船底を再び水中に収めた。だぷんと大きなものが一度沈んで浮いてくる音がして、音と同時に船はまた少し浮いて揺れた。
それから数秒後には椅子も机も元の通り重力に従って落ち、変な位置で座っていた私もガコンと椅子ごと落ちる。船酔いしたことは全くないが、流石に少し酔いそうである。
「うぶぁっ」
次いで、机と一緒に派手な音と汚い声を出して落ちてきたのがヒョウである。
「ヒョウがやったの?この……固まるやつ」
「ああ、うん。そう。私の能力、言ったことなかったんだっけ?」
「うん、初知り」
「びっくりさせちゃった?」
「爆発の方がびっくりした」
「そりゃそうだよね」
能力は、ここらの人なら絶対に持っているものだ。
ここらの人達は、寒いナイトシティでも生きていけるように、体内の魔力を動力源に延命装置をつけることが義務とされている。昔は色々と段取りもあったが最近は医療が発達してきているし、ナイトシティは科学技術に頼らねば生きていけない場所なので、常に技術の進歩は著しい。そのため最近では生まれてからすぐにパパッと埋め込まれ、自分に延命装置が着いていることを義務教育で初めて知る人間も多い。
ともかく、それのおかげで魔力が安定して保持できるために、大体一人一つ適性のある魔法が適切な火力で使用できるわけで、それが能力という。因みに特訓すれば一応誰でも魔法をいくつも使えると理論的には証明されている。しかしこれについては更にぼやぼやっとしか知られておらず、名称も「魔法」ではなく「能力」なせいで、高校や大学で「魔法学」「魔力学」を学んで初めて自分が魔法を使っていることを知る人の方が多い。私も当然、前の地方で魔法学を学ぶまで知らなかった。
ヒョウの力は、物体固定というものだ。魔法学的観点から言わせれば本当は細々と色々な規定もあったはずだが、あえて簡潔に述べるなら、物のもつ原子と空気中の原子とを無理やり繋ぎ合わせて物をがっちり好きな場所に固定してしまう力である。勿論無理やり繋ぎ合わせているだけなので、長い時間の固定は不可能だし、ヒョウが出来るのは固定だけ。もう一度動かし直すのは専門外だ。そして物体固定は「物体にしか通用しない」。これが学ぶにも使うにも、そして使われるにも、なかなかのクセモノ特性なのである。多分本人はこの理屈はミリも知らないので、大した惨劇にはならないだろうが。
「とりあえず!海月は怪我してない?平気なんだね?」
「うん、一応。ありがとう」
ヒョウはいいえ!と胸をドーンと叩いた。全く着眼点がズレているのは承知だが、相変わらず羨ましいサイズである。
───ザザッ
『船内の皆様にご連絡致します。えー……と、只今の大きな揺れと爆発音について、現在調査中でございます。落ち着いて、今後の放送に注意して下さい。繰り返します─────』
「カルキア、こんなこともするんだ?」
「主賓だけど、それ以前に守る立場にある人だからね」
色々あるんだよ、本当に面倒くさいの、とヒョウがやれやれという風に苦笑いする。今頃上は大騒ぎで、露骨に機嫌を損ねた主人に会うのが憂鬱だなどとぶつぶつ愚痴を吐き散らしている。大変らしい、メイドとやらも。
さて、私は私で腹の虫が鳴き出した。どうにも私の中にいる虫は私以上にわがままで、よく鳴くし、割と常になんでそこなんだというような居所にいる。人間にはなんでこんなシステムが搭載されているのだか。
ふと、何度目かの同じ放送が途切れた。
キインと嫌に耳を貫く音がする。酷いハウリングの音だ。船内中に響いたに違いない。例のうっかり属性でマイクでも落としたのだろうか。
続いて、ノイズとも違う電気の流れ切らないジジッとした音が響く。コードが接続され直した時の音に似ている。実際そうなんだろうなという気もする。が、次に聞こえてきた声は聞き馴染みのある声でもなかったし、聞き入れられる言葉でもなかった。
『……えー、皆様御機嫌よう。我々は、貴族撲滅テロ組織ドクユウレイである。貴様らの大半を必ず殺す。今日は挨拶に来た』
それは、私が暇潰しに読んでいたテロリストの本が余程陳腐な空想なのだと思い知らされるほどに脳を詰るのだ。
お疲れ様です、今回はこんな具合でした。
増える文量、減る気力。なんだかパッとしない回ですね。伏線を張りたい一心で頑張ってはいるのですが、このポンコツに回収できるんでしょうかね。
ビジュアルの説明が果たして足りているかわかりませんが、海月ちゃんの解説をまとめると、ビゼンさんは顔がいい。ヒゼンさんは更に顔がいい。エチゼンさんは童顔で顔がいい。です。顔ばっか見てんな。次回もよろしくお願いします。