カレーで冒険してはいけません
近くの消防署が、正午を報せる鐘を鳴らす。
もうそんな時間か。
「ねぇねぇ、聡さん。商店街に新しく、美味しいカレー屋さんができたそうなんですよ。行ってみませんか?」
「お前の奢りならな」
「……」
今日はこれと言った事件もなく、たまった書類仕事を片付けるのに最適な日だ。
刑事の仕事と言うのは案外デスクワークが多い。
最近はパソコンがなんでもかんでも物を言うから、とりあえず使い方を覚えて、なんとかこなしているのだが。
目が疲れる。
そろそろ休憩しようと思った時に、バカ息子が声をかけてきた。
息子と言っても血のつながりがある訳じゃないが、俺にとっては実の家族同然に大切な存在だ。
カレーか。
悪くはない。
俺は席を立って、上着を羽織った。
県警本部のビルから外に出て、大通りを横断すると、市内随一の繁華街に出る。
平日の昼間だというのに、本通り商店街はやたらと人が多い。
ここですよ、と息子の言う店の前には、胡散臭いインド人を描いた看板が掲げてある。
「いつもは行列ができるそうですが、今日は空いてるみたいですね」
店を間違えたんじゃないのか?
と、思ったが黙っておく。
そもそも、列に並んでまで何かを食べたいとは思わない。
この仕事をしていると、ゆっくり料理を味わっている余裕なんかはないのだ。
身体のためには、あまり良くないけれど……。
「何にします? どれも美味しそうですけど……」
メニューを開いて最初に目に飛び込んで来たのは、緑色のカレーだった。
思わずぎょっとして二度見してしまう。
「……どうしました?」
「いや、これ……腐ってる訳じゃないよな?」
息子が覗きこんでくる。
「それはお店の人に失礼っていうもんですよ。ほうれん草を使ってるから、そういう色なんです」
「だよな……」
緑色のカレーを見ていてふと、昔のことを思い出した。
今は少し離れた場所に住んでいる次女のことを。
「なんですか? とぉ~い目をして。おおかた、お嬢さん達のことを思い出してるんでしょう?」
ニヤニヤと笑顔を浮かべてこちらを見つめる息子。
俺の弱点を見つけた時の、嫌な表情だ。
「まぁな……カレーを見る度に思い出すことがあるんだ」
「聞かせてくださいよ、是非」
そう言って微笑む顔に、これと言った企みは見いだせなかった。
何の自慢にもならないがうちは父子家庭だった。
今は娘達も独立し、それぞれに所帯を持っている。
俺の妻だった女性は双子の娘達が高校に入る直前、中学生最後の春休みに失踪した。
常に従順で、父親である俺に全幅の信頼を置いてくれる長女とは正反対に、何かにつけ反抗的で、親を親とも思っていない次女。
それだから、こちらとしても必然的に長女だけを可愛がってしまった。
それが決して良いことではないとわかっていたが。
それでも。
様々なしがらみがあったものの、いろいろな人の助けを得て、気がつけばいつしか俺達は普通の親子になっていた。
家にはいつも長女と次女がいた。
そうして3人で食卓を囲むのがいつしか当たり前になっていた頃……。
長女が修学旅行で2日ほど留守にすることになった。
初めてだ、次女と2人きりで家にいるのは。
妙に緊張してそわそわしてしまう。
しかも初日は、たまたま非番だった。
※※※※※※
「お父さん、晩ご飯は何を食べたい?」
午後1時過ぎぐらいだろうか。
その日は日曜日で、趣味の詰め将棋を解いていた俺は、次女から不意に話しかけられて、思わずドキっと飛び上がってしまった。
「……適当でいいぞ、適当で。なんだったら、スーパーで惣菜を買って来ても……」
すると次女は頬を膨らませた。
「何言ってるのよ、私がちゃんと料理するわよ!!」
嫌な予感がした。
次女と言えば、包丁をまともに握ったこともないはずだ。
家事全般はいつも長女が取り仕切っていた。
正直言って、次女の料理の腕については詳しい情報を知らない。
母親はまったくと言っていいほど料理の出来ない女だったから、期待はできない。
「今ね、テレビでなんか美味しそうな料理の作り方をやってたの。チャレンジしてみようかと思ってるんだ!!」
得意げに言う次女の顔を見て、俺は嫌な予感しか感じなかった。
「い、いや、あのな……そんな凝ったものを作らなくても……」
「……」
次女の表情が曇る。
マズいことを言ったか?
「そ、そうだ!! カレーがいい、カレーにしよう!! な?!」
カレーと言えばおよそ失敗のない料理だ。
子供が初めて作る料理の定番じゃないか?
学校の調理実習でもたぶん、最初に習うはずだ。
「え~、カレー? まぁ、いいけど……」
ほっとした。
しかし……。
夕方5時頃だろうか。
「今から晩ご飯の用意するから、絶対に台所を覗かないでね?」
次女はそう言って台所に引っ込んでしまった。
再び、やや寒気が。
恩返しにきた鶴じゃあるまいし、何かとんでもないことをしでかすつもりじゃないだろうな?!
気が気でない俺は、柱の影に張り込んでこっそりと様子を伺った。
しばらくすると。
ドン、ガラがら、ガッシャーン!!
「きゃーっ!!」
なんだ?!
何が起きてるんだ?!
たかがカレーを作るのに、いったい何をしてるんだ、あいつは!?
「おい、どうした?!」
「入って来ちゃダメって言ったでしょ?!」
次女は俺の背中を押し、出て行けと言う。
「怪我は、怪我はないのか?」
「……大丈夫よ」
不安を残しつつ、再び張り込むこと約1時間。
時々、娘の独り言が聞こえてくる。
「あ、これ入れてみよう」
「あれ? なんだろ、この……」
なに?
お父さんに何を食べさせるつもりなの?!
なんだ、この匂いは……!?
「お待たせ~、できたよ!!」
呼ばれて台所へ、居間へ入った俺を待ち受けていたのは。
「……これは?」
「カレーだよ」
嘘だろう。
俺の認識だと、カレーと言うのはこんな色じゃない。
例えは悪いが、まるで排水溝にこびりついたヘドロのような色だ。
「ご飯炊けてるからね。あとサラダも用意できたし、そうだ、お茶入れるね……」
なぁ、味見したか?
恐ろしくて訊けなかった……。
食べない訳にはいかないだろう。
おそるおそる、一口分すくって口に運ぶ。
「……どう? おいしい?」
刑事生活15年ちょっと。
いろんな凶悪犯に出会ってきた。
正直って怖いと思ったこともあった。
だが。
今が一番辛い……。
そうだ「つらい」と「からい」は同じ漢字を書くんだな。
助けてくれ、誰か。
「……お父さん? どうしたの、お父さん――――っ?!!」
後で長女が言っていた。
あの子はマニュアルを読まないタイプだ。
なんとなく美味しそうだと思ったら、手順書に書いていないことを始める。
その上、自分では味見をしない。
とりあえずやってみよー!!
それが彼女のモットーなのだ……と。
カレーぐらい誰でもまともに作れるだろう。
あの時から俺は、一切の先入観は捨てようと心に決めたのだ。
※※※※※※※
「……っていうことがあったんだ」
「へぇ……」
「まさかそんな娘が、少なからず名の知れた割烹料理店へ嫁に行くとは、誰が想像したっていうんだ」
今頃、次女はくしゃみをしているだろうか。
「ほんと、人生ってわからないものですよね」
まったくだ。
反目し合っていた俺と娘が普通の親子になれたのも、言ってみれば奇跡みたいなもんだからな。
「……ねぇ、聡さん。たまには一緒にゆっくり尾道へ行きませんか? いつも仕事に追われてばっかりじゃなくて……」
「そうだな」
「ここは割り勘にしますから、その時は奢ってくださいね?」