魚売り
山を三つ程越えた所にある隣の村へ、釣った魚を売りに行く為、権兵衛は天秤棒を担ぎ、朝早くに村を出発した。
権兵衛が丁度二つの目の山の中腹に差し掛かった頃、時間は昼前になろうとしていた。空腹を覚えた権兵衛は、風呂敷から握り飯を取り出すと、木の木陰に座り食べ始めた。昼前というのに、山道は茂る木々に陽が遮られ、薄暗く不気味であった。
そんな時、権兵衛はふとある噂を思い出した。それは、隣村へと通じる山道には山姥が現れ、旅人を襲って食うというのだ。所詮、噂は噂と、気にはしていなかったが、怖くはないと言えば嘘である。
そこへ突然、
「もし、魚売りの方、すいません」
と、誰かに声を掛けられた。権兵衛は驚き、声のした方を見ると、そこに一人の老婆が立っていた。老婆はしゃがれた声で権兵衛に言った。
「魚売りの方、私に魚を売ってくれませんか」
権兵衛は老婆をしげしげと見て確信した。こんな山奥に一人、音もなく現れた老婆、噂とは思ったが、なるほど、こいつが山姥か。権兵衛は毅然と答える。
「悪いが、おめえに売る魚はねえ。さっさとどっかへ行ってくれ」
まさかの権兵衛の言葉に、老婆は懇願する。
「そんな、どうかお願いします。魚を売ってください」
「ねえって言ってんだろ!!」
一喝した権兵衛はすくっと立ち上がると、食べられては堪らないと、天秤棒を担ぎ、その場を走り出した。後方で老婆の声がした。
「魚売りさん、お願いします…」
権兵衛は構わず、山道を駆けて行こうとしたが、何か腑に落ちない。山姥なら、とっくに追いかけてきてもいいはずだ。権兵衛は足を止め、後ろを振り返り、老婆に尋ねた。
「婆様は、山姥でないのか?」
権兵衛の問いに、老婆は憤慨して答えた。
「馬鹿こくでねえ!! おらはれっきとした人間だ!!」
「そうだったか。そいつは悪かった」
早とちりとはいえ、老婆に不快な想いをさせてしまったのは事実。権兵衛はお侘びとして、老婆に数匹、魚を無料で渡した。
「権兵衛は老人に魚を売らないらしい」
そんな噂が村中に広まるのはすぐだった。売る相手を選ぶ奴の所でなど、誰が魚を買うものかと、客足は遠退き、権兵衛は魚売りを廃業した。
「山姥が現れる」 「権兵衛は魚を売らない」
所詮、噂は噂である。