あの月までの距離
人は僕を笑う。羽もないのに飛ぼうとするからだ。
けれどもいずれ羽が生えることを信じている。実際、羽が生えてあの宙を狂おしいように、走るように飛んでいった人もいる。
人は、そういった人間はわずか少数だという。無謀だと、馬鹿だとさえ笑う。
でも僕は、思い描いている。あの空を飛ぶことを。
白くなくていい。何色でもいい。崩れていても、やがて落ちても、それでもいい。
どうせ人は死んでしまう。いずれ、冷たくなって、そうしてぐずぐずと崩れて腐ってゆく。それならば、花火のように散りたい。
散華、といことばがあるのを、誰が言ったのか。
翼の生えない僕は、自分で翼を作った。
翼をもつ人たちは、自然に翼が生えるのを待っていたわけではない。
つぎはぎだらけの、やわらかな羽をつくった。羽は軽いし、これならきれいだろう。僕は、すきとおるような紙をうすく重ねて、翼を作った。
飛べない、地上の生き物が僕をあざ笑った。
「そんな羽で飛べるわけないだろう」
見上げる生き物を僕は見下ろした。
できるだけ高い屋根に上った。そうして空を見上げた。
空は、青くなかった。夕暮れの気が狂ったような赤い空。
それに、白い雲がたなびいている。ほそい、ほそい白い雲だ。
飛ぶのには勇気が要るだろう。死ぬ覚悟で、あの空を飛べるだろうか。
そう、思った瞬間に。
僕の頬に風を感じた。まるで魚眼レンズで覗いたような、まるい空と地上をめがけて、まっすぐにめがけてその人は悠然と空を羽ばたいていった。
美しい、極彩色の翅だった。赤とも、いえない、青とも違う。どちらかというと、そう、あの空みたいな、夕焼け前の青も、白も、赤も混ざった、すべての色を兼ね備えた色彩。
鮮やかな色彩を乗せてそのひとは飛びだって行った。
「堕ちるよ」
僕の忠告も、聞かず、その人は旅立つ。
だってその人も、おなじような、蝋でつけた翼で、飛ぼうとしていたからだ。
その人の飛ぶ姿は美しかった。堕ちることをきっと知っていたのだと思う。
沈みかけた太陽など目もくれず、まっすぐ飛んでいった先は、真っ白な月。
赤と青のグラデーションが混じり合うその先、浮かんでいる白い月に向かってまっすぐに飛んでゆく。その姿は眩しかった。
太陽は沈もうとしている。
その人の命尽きるのも、太陽と、同じだったのかもしれなかった。地平線の向こうに、太陽は沈んでゆく。
まっすぐに引かれた地平線が、太陽が沈む瞬間に美しく紅く輝いた。
その赤い空に、黒い影が浮かんだ。
舞っていって、そうして、堕ちるのだ。
僕は羽を広げた。蝋と、うつくしさだけで選んだ、儚い羽を。
いつかは、地上に落ちて、腐ってゆくその羽も、体も、不条理さえも飲み込んで。
夜が来る前に、僕は地面を蹴った。
太陽は、眩しくなかった。
月が、僕を見つめていた。
冷たい風が、体中を撫でつけていった。
跳べる、そうして、飛べる、そう思ったら嬉しくて、嬉しくて、蝋の翼に涙がほろりとこぼれた。
すぐにでも溶けそうな翼に。