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無念の初対面

「先輩お疲れ様でしたー!」


「……あ、お疲れ。また明日!」


 スマホでバスの運行ルートを確認しながら歩いていると、大谷さんが頭を下げ、私を追い越していった。

 社のビルを出たところで足を止め、ふうっと息を吐き出す。いつもと同じように仕事が終わり、みんないつもと同じように足早に去って行く。

 普段だったら、私も立ち止まることなく駅に向かっていくところなのだけれど、今日はそうもいかない。いつも通り電車に乗って帰るか、それとも十五分くらい歩いた先にあるバス停に向かうべきか。頭を悩ませながら、私は夜空を見上げた。

 空全体に雲はかかっているけれど、まだ雨は降ってきていない。このまま家に帰るまで天気がもつのなら、電車で帰ってしまいたい。その方が早く家に帰れる。けど、駅に降り立った時、仕事前に見えたあの光景のように雨が降りだしてしまっていたら……。


 王子様の顔を思い出してしまい、再びため息が出た。

 今まで予知してきたものはみんな、自分の置かれた環境下で起こることだった。しかし、王子は夢の中の、いわば架空の人物。実際に存在しない彼が、目の前に現れるなんて、絶対に有り得ない。

 私の中には、そう冷静に断言する自分がいるけど……もう一人、嫌な予感から逃れられず、割り切ることの出来ない自分もいる。


 ひゅうっと吹き抜けていった冷たい風に、体が竦む。

 昨日の帰りよりも低い気温に“もうすぐ雨が降る”と宣言されている気がして、嫌な予感が膨らんでいく。


「やっぱり……念のため、バスで帰ろうかな」


 これから向かうバス停の位置を頭に叩きこんでから、スマホを鞄の中に戻した時、後ろから林課長の声が聞こえてきた。


「そういうことじゃなくて……一度ちゃんと話をしよう」


 振り返り見れば、スマホを耳に押し当てた格好で、林課長がビルからゆっくりと出てきた。眉間にしわがよっていて、なにやら難しそうな顔をしている。心なしか声も硬い。


「……ごめん……お前とはもう無理なんだ。別れよう」


 続けて聞こえた言葉に、思わず目を見開いてしまった。

 二週間前、少し早めに開かれた忘年会で、付き合いは順調だと言って男性社員に冷やかされる課長を見ているだけに、余計驚いてしまう。

 林課長には新人の頃からたくさん面倒を見てもらってきた。ユーモアもあり、優しくて、そして素朴な彼に、私はだんだんと惹かれていった。

 入社して半年が過ぎた頃、課長に付き合っている女性がいることを知り、私は自分の気持ちを心の中にしまっておくことを選んだ。


 けれど、今も変わらず、私にとって課長は憧れの男性である。

 別れ話をしているとなれば、ある意味チャンスなのかもしれないけど……課長の辛そうな顔を見てしまうと、とてもじゃないが行動を起こす気にはなれなかった。


 視線を正面に戻し、バス停に向かって歩き出すと、課長の声が追いかけてきた。


「……あっ、高柳!」


 気づかれてしまった。私は足を止め、ゆっくり振り返る。


「は、林課長、お疲れ様です」


 歪な笑みを浮かべれば、課長が苦笑いした。


「その反応、今の聞いてたな」


「はい。すみません。ちょっとだけ聞こえてしまいました」


「いや、良いんだ。気にするな。別に構わないから」


 申し訳なく感じながら素直に謝罪すると、課長は軽く首を横に振った。

 私も課長もその場に留まり、向き合ったまま、ほんの数秒沈黙する。


「……課長は、彼女さんと付き合いも長いし、仲が良いなーって、思っていたんですけど」


 言葉を探しながら、途切れ途切れにそう話しかけると、課長が顔を上げ遠くを見つめた。


「彼女とは限界を感じてしまって」


「限界ですか」


「あぁ」


 夢の中で王子に離婚を突きつけた、自分に似たあの女性のことを思い出してしまった。彼女も課長と同じだ。きっと、王子の妻でいることに限界を感じてしまったのだ。

 課長の今後も気になるけれど、あの女性のその後も気になりだしてくる。ちゃんと別れられたのだろうか……あの王子、地の果てまで追いかけてきそうなイメージだけど。


『お前、逃げられると思うなよ』


 高圧的で好戦的な王子の顔をも思い出してしまい、私はぶるりと身を震わせた。





 自宅近くのバス停が目前まで迫ってきた時、雨粒がバスの窓を打ち始めた。


 降ってきちゃった。


 自分の見た光景に一歩近付いてしまったことに、ため息が出てしまう。でも、バス停から自宅へ帰るのに、王子のいたあの道は通らない。だから現実にはならない。

 そもそもあれは夢だ、気にしすぎだと、心の中で自分に言い聞かせていると、バスが速度を落とし停車した。

 他の乗客に続く形でバスを降りると、条件反射的に「さむっ」と声が出た。バスの中が温かかったことや雨が降りだしていることもあり、先ほどよりも更に気温が低く感じた。


 先に降りた人たちは次々と傘を広げ、バス停を離れて行く。のろのろと歩きながら、鞄から折り畳み傘を引っ張りだしたその瞬間、また耳鳴りがした。

 ぎゅっと瞼を閉じれば、朝見た光景と同じものが見えてきた。



 仁王立ちしている王子がいる。だけど、アングルが違う。見えているのは彼の後ろ姿だ。

 すっと、右足が後ろに下がり、王子がこちらに振り返る。どきっと鼓動が跳ねた。


 王子の瞳はまっすぐこちらに向けられている。目を閉じているのに、目が合っているかのような錯覚に陥ってしまう。


 王子はゆるりと口角を上げ――、


「小賢しい真似を」


 やや楽しげにそんなことを言った。



 突然、一方的に切断されてしまったかのように、見えていた光景がふつりと暗転した。

 私はゆっくりと瞳を開け、耳を指先でそっと触れる。王子の低音の声音が、はっきりと聞こえた。まるですぐそばで囁きかけられた気分である。


「なんか変な感じ」


 夢なのに、キスされた感触といい、声といい……リアルである。


 ざっと、雨足が強くなり、私は我に還った。慌てて傘を広げ、歩き出す。


 早く帰ろう。

 その一心で、前へ前へと足早に進んでいく。


 図書館の前を通り、中学校の脇にある小道を進み、歩道橋へと差し掛かった瞬間、ぞくりと悪寒が走った。嫌な予感に体が硬直する。右足を階段の一段目に乗せた状態で、動けなくなってしまった。

 私は二車線の向こう側、歩道橋で繋がったその先をじいっと見つめた。歩いているのは、会社帰りの大人や部活帰りの中学生、数人だけ。

 見える景色におかしな点など見つけられないのに、心の中に生まれた不安は、どんどん大きくなっていく。


 そっと右足を引き戻した。


 歩道橋を渡らずに、歩道をそのまま真っ直ぐ進み出す。

 雨も降ってるし、めちゃくちゃ寒いし、一分でも一秒でも早く帰りたい。歩道橋を渡らなければ、遠回りになってしまうことも分かっている。

 けど渡ったらダメだ……道の先で、何か不幸に襲われてしまうような気がする。


 小走りで雨の中を進んでいくと、心の中で膨らみ続けていた漠然とした不安が、少しだけ萎み始めた。ホッとしつつ、頭の中で再び地図を広げる。

 このまま真っ直ぐ進んで、横断歩道を渡って、幼稚園の方に向かって……ううん。コンビニ横の小道を通った方が良いような気がする。

 小学生の頃、何度か通った程度の道も記憶の中から全て引っ張り出し、最善と思えるルートを描き出す。

 きっと大丈夫。このルートで帰れば、何事もなく無事に――……そう確信しかけた瞬間、耳鳴りがした。


 始まりの合図に、足が止まってしまう。

 瞳を閉じたのは、ほんの数秒だった。でもその僅かな暗闇の中でも、しっかりと見えてしまった。



 不敵にほほ笑んだ、王子の口元が。



 ぞくりと両腕が粟立っていく。悟ってしまった。私はどこから帰っても王子に捕まる、と。

 捕まったら、キスされて、服を脱がされて……。


「やだやだやだ。ストーカーまがいの王子になんて絶対に捕まるもんか!」


 ストーカー王子から逃げきる道は、絶対に残されているはずだ。私は希望を込めて、辺りを見回した。


 どうしよう、どうしよう。


 目の前をサラリーマンが通りすぎていく。助けを求めるべく声をかけようとしたけど、すんでのところで思いとどまった。

 この状況を説明できない。王子様が私を捕まえに来るなんて言ったら、私が交番に連れて行かれてしまう。


 忙しなく辺りを見回していた瞳が、交差点で留まる。赤信号でタクシーが停まっている。私は笑みを浮かべた。


 タクシーに乗ってしまえば、きっと逃げ切れる!

 いくらなんでも家族のいる自宅にまで、王子は侵入できない……はずだ。

 家の周りをうろうろしようものなら、警察呼べるし。


 勝った!


 タクシーにむかって手を上げるべく、ガードレールに駆け寄ろうとしたしたその時、目の前を銀色の小さな動物が駆け抜けていった。

 思わずそれを目で追いかけ、私は「わぁ」と声を漏らした。子犬だ。灰色の体は濡れそぼっていて、とても小さく見えるけど、私を見つめる顔は見惚れるほど凛々しく美しかった。

 改めて周りを見たけど、飼い主らしい姿は見当たらない。


「野良犬……じゃないよね。どこかの家から逃げ出してきちゃったのかな」


 首輪はしていないけれど、野良犬とも思えない。犬種は分からないけれど、血統書付きのように見える。

 犬は警戒している様子で私を見つめ続けていたけれど、微かに首を傾げた後、“ワン”と鳴いた。

 尻尾を振りながら近づいてくるその様子から、自分への警戒を解いたことが伝わってきた。


「……可愛い!」


 私もつられるように身を屈めた。きらきら輝く瞳で見上げてくるその顔が愛らしくて、笑顔になってしまう。

 恐る恐る右手を伸ばし、濡れた頭部を撫でれば、子犬は気持ちよさそうに目を細めた。


「可愛いーー! 家に連れて帰りたくなっちゃう!」


 たまらず声を上げれば、「ふふふっ」と笑い声が聞こえてきた。

 ……自分の手の下から、聞こえてきた。


「いいですよ。このまま一緒に帰りましょう。帰ったら、ボクこんな状態ですし、一緒に風呂入りましょう!」

 

 手を退かせば、犬が喋りかけてきた。ついでにニッコリと口元が笑った……ように見えた。

 思考が一時停止する。


「……い……い、犬が……犬が喋ったーーっ!」


 傘の柄を両手でぎゅっと握りしめ、よろよろと後ずさりしたあと、私は踵を返し走りだす。


 犬が喋った。犬が喋ってた。しかも下世話なことまで言ってきた。っつーか、なんで犬が喋るのよっ!

 

 混乱しつつも、一刻も早くこの場から立ち去りたいという強い思いが、私の足を突き動かしていく。しかし、視界の中にふらりと現れた姿に、足が止まる。


 全てが完全停止した。


 背の高い一人の男性が、私に向かって真っ直ぐ近づいてくる。

 傘をさしていないから、濡れたシャツが彼の上半身のラインを浮き上がらせている。細身だけど筋肉質でもある。無駄な脂肪などないだろう。

 コツコツコツと響いていた靴音が、ぴたりと止んだ。今、私の目の前に、夢でみた王子が立っている。


 ……逃げ切れなかった。負けた。


 王子は濡れた前髪を鬱陶しそうにかきあげ、私をじろりと見降ろしてきた。

 挫けそうな心が表情に出ないよう力いっぱい睨みつけると、王子がふっと口角を上げた。何度か見た笑い方、そのままだった。


「喜べ、直々に迎えに来てやった」


 高圧的にそう言って、彼は一歩前に出た。


「い、いや……迎えに来られても困りますから」


 私も、一歩後退する。彼が鼻で笑い、また一歩近づいてくる。


「俺がすんなり離縁するとでも思っているのか」


「人違いですから! 初対面ですから! 私、一切関係ないですからっ!」


 一歩下がると同時に回れ右をし、私は走りだす。

 肩越しに後ろを確認すると、王子はしかめっ面をし、大きなため息を吐き出した。


「お前、逃げられると思うなよ」


 そう言い終えた瞬間、ふっと、王子の姿が消えた。


「き、消え――……きゃっ!」


 驚きに目を見開くと同時に、ドンッと、何かにぶつかってしまった。手から傘が落ちていく。


「諦めろ。役目を果たすまで、お前は絶対に、俺から逃げられない」


 腰が引き寄せられ、体と体が触れあい、彼の体温が伝わってきた。存在は確かなものだと、これは現実なのだと、私に知らしめる。


 至近距離には王子の顔。

 見つめ合うこと十秒後、彼は何かを言いかけ、口を閉じた。


 彼の綺麗な肌を伝い、私の顔に雨粒が落ちてきた。

 また王子は何か言いかけ、口を閉じ、そっと私から体を離した。そのまま顔を伏せ――……クシュンと、くしゃみをひとつした。


「……くしゃみ、可愛いですね」


 俺様な王子にはまったく似合っていない可愛らしいくしゃみに笑いを堪えていると、彼が恨めしげにじろりと睨みつけてきた。

 そして何か言い返そうとしてきたけれど、再びの可愛らしいくしゃみで台無しとなった。私は堪えきれなくなって笑ってしまう。


「お前その格好、用意周到すぎるだろう。こっちの世界に逃げ込むことを、いつから計画していた……なんなんだ、この寒さは。凍える」


 王子は言葉の途中でぶるりと身震いし、背中を丸めて自分の体を両手で抱いた。よく見れば震えている。

 可愛いくしゃみと寒そうな様子に、ちょっとだけ警戒心が解けていく。


「十二月ですから。さすがにその格好は寒いですよ」


 私は落ちた傘を拾い上げ、王子の頭上に傘をかざした。

 このまま凍ってしまえと言いたくなるのをぐっと我慢していると、王子は傘を見上げてから、私へと視線を落とした。


「お前だけ温かそうな格好しやがって。腹立つ」


 彼の目線が私をなぞっていく。マフラーからコート。スカートからブーツへと降りていったのち、視線を上げ、私の目を見てニヤリと笑った。

 今朝の予知した光景を思い出し、私は身がまえた。


「嫌です。脱ぎません!」


 首を振りながら主張すると、王子が私の腕を掴み、顔を近づけてきた。


「脱げなどと一言も言ってないが?」


 耳元で囁かれ、顔が熱くなってしまう。王子は笑みを浮かべた後、手に微かに力を込めた。


「長居は無用。帰るぞ、アンナ」


「えっ、ちょっと! だから私、人違いなんです!」


 私の言葉は、聞き流されてしまう。


 引っ張られる形で歩き出すと、強い風が吹き抜けていった。

 風にあおられ、持っていた傘を離してしまったが、前を歩く王子の足取りは少しも乱れることなく、私を掴む力も弱まることはなかった。







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