第六感が王子に気をつけろと告げている
朝食も食べた。身支度も整えた。忘れ物は……たぶんない。
ソファーに腰掛け、通勤で使っている鞄の中身を確認したあと、テレビ画面に表示されている“7:58”を見て、独り言ちる。
「そろそろ行こうかな」
キッチンから聞こえていたお皿を洗う音が止み、母が私の呟きに反応した。
「今日は夕方から雨が降るらしいわよ」
「あっ。そうだった。折り畳み傘持って行かなきゃ」
「私もだわ」
母はキッチンから廊下へと出て、玄関近くに位置する部屋へと足早に入っていった。そこは両親の寝室である。
高柳家は東京郊外に一軒家を持つ、ごく普通の、どこにでもある一般家庭である。
サラリーマンである父は三十分前に既に家を出ていて、母はこれからスーパーのレジ打ちのパートへと行く。
折り畳み傘を自分の部屋の机の上に置きっ放しであることを思い出し、私は重い腰を上げた。
「……よいしょ」
自然と言葉が出てしまい、苦笑いを浮かべる。仕事疲れが取れなくて、常日頃、体がだるいのだ。弟に「年!」と笑われてしまうので、奴の前では極力口に出さないようにしているけど。
……そう。我が家にはもう一人家族がいる。六歳離れた大学生の弟だ。
二階にある自分の部屋へ向かうべく階段を上っていくと、ちょうど弟の部屋の扉ががちゃりと開かれた。
「……おっ、おはよう」
出てきた弟、弘人の顔を見て、思わず足を止める。目の下の隈は凄くて寝ていなさそうに見えるのに、目が異様にぎらついていたからだ。
「姉ちゃん、おはよ。今から仕事?」
「……う、うん。弘人は今日大学?」
「ううん。大学はもう休みに入ってる」
言われ、そんな時期だよねと独り納得する。
クリスマスが過ぎた今、世間は正月モードへと突入してるし、私だって数日後に仕事納めが待っている。学生はとっくに冬休みに入っているだろう。
弟はそのまま二階廊下突き当りにあるトイレへと向かっていく。
朝から疲労感たっぷりの背中を見送ってから、なんと気なしに開けっ放しの扉から部屋の中を覗き込み――……私はぽかんと口を開けた。
机の上に置かれたパソコンは電源がついていて、何か作業の途中のような感じだ。さらに室内を覗き込み、ベッドをみる。眠った形跡は見当たらなかった。
「弘人! アンタ、もしかして一晩中パソコンに向かってた訳じゃないわよね!」
トイレのドアノブに手をかけた弘人がだるそうに振り返った。
「仕方ないじゃん。神が降りて来てるんだから。俺、そのうち異世界からお迎えがくるかも」
「は?」
両手を広げ、弘人が恍惚の表情を浮かべた。
「お母さん。弘人がいつもにも増して変だ――……んーっ!」
階段から下に向かって声を上げると、トイレ前にいた弘人が飛んできた。すかさず後ろから私の口を手で塞ぐ。
「俺はいつも通りです。趣味に没頭し、有意義な冬休みを過ごしているだけなので、お構いなく」
こくこく、こくこくと何度か頷き返したのち、やっと弘人の手が離れていった。
「げっ……姉ちゃんの口紅が。気持ちわるっ」
「自分から触っといて、気持ち悪いってなによ!」
声を荒げると、弘人はくるりと私に背を向けた。何事もなかったかのように、トイレへと向かっていく。
私も大きくため息をついてから、自分の部屋に向かう。
折り畳み傘を掴み取り鞄に入れてから、一応鏡で唇を確認する。口紅は落ちてもないし、余計なところに広がってもいない。これなら直さなくて済みそうだ。
なにげなく時計を見て、「やばっ!」っと声が出た。もうすぐ八時五分になろうとしている。乗りたい電車は八時十六分。家から駅まで歩いて十分……間違えた。急ぎ足で十分である。もう家を出なければ。
慌てて部屋を出て階段に向かう途中、弘人がトイレから出てきた。
「姉ちゃん、行ってらっしゃい」
見れば、手をひらひらと振ってくれている。
「行ってきます」
私は弟に笑いかけてから、階段を駆け下りたのだった。
息を切らせて駅のホームに入って行くと、すぐに電車到着のアナウンスが流れ、電車が姿を現した。
通勤スタイルの人々と共にそれに乗りこみ、私は出入り口近くの手すりを掴む。電車はいつも通り混雑している。もちろん席など空いていない。
……疲れた。
駅まで急ぎ足、時々、駆け足で来たので、疲れてしまった。これから仕事だというのに、朝から余計な体力を使ってしまった。
窓の外を流れていくお馴染みの景色をぼんやり眺めていると、男子中学生が慌てて走っていく姿が見えた。
私は昔を思い出し、こっそり笑みを浮かべた。私が大学生になったころ弟は中学生で、学ラン姿の弟が学校に向かって走っていく姿を、通学中の電車の中から何度か見かけたことがあったからだ。
昔から弟は、あんな感じだ。趣味にのめりこみ夜遅くまで……筆が乗ると徹夜もいとわない、そんなタイプの人間なのである。
彼の趣味は、小説を書くこと。
本人から五年くらい前に、書いた話をネット上にアップしているのだと聞いたことがある。
私は活字が苦手なこともありそれに興味が持てず、「ふーん」の一言で話を流してしまった。文字を追うことが苦痛で仕方がなく、大抵途中で読むのをギブアップしてしまう私にとって、弟ののめり込んでいる世界はよく分からない。
けどあんな風に、一心不乱に物語を書いている弟の姿を見かけるたびに、こっそり心の中でエールを送っている。
何だかんだ言って、弘人は可愛い弟なのである。“俺、そのうち異世界からお迎えが来るかも”なんて、かぐや姫まがいのことをのたまう弟でも、やっぱり可愛いのである。
弘人の言葉を頭の中で二回繰り返し、私は少しだけ口角を上げる。私も小学生の頃、そんなことを思った時期があったからだ。
そう思ってしまった理由は、私が秘密の特技を持っていたから。
そして子供から大人へと成長した今でも、特技という名の不思議な力は、消えることなく私の中にあり続けている。
「寒っ!」
地下鉄の駅構内から地上へと出て、私は身を震わせた。冬は本当に苦手だ。
身を縮こませながら人の波に乗って二分もあるけば、会社の入った九階建てのビルが遠くに見えてくる。
今日も一日頑張ろうと背筋を伸ばした時、後ろからポンと肩を叩かれた。びっくりして、立ち止まってしまった。
「高柳先輩、お早うございまーす!」
ショートカットに眼鏡の女の子が私の隣に並び、ニコリと笑いかけてきた。
「お早う、大谷さん」
大谷さんは入社一年目の会社の後輩で、いつも元気いっぱいである。
寒いですねと言葉を交わしたあと、ふたり並んで歩き出すと、大谷さんが「聞いて下さいよー!」と涙目で私を見つめてきた。
「昨日、仕事帰りに彼氏と偶然会ったんですけど……喧嘩しちゃって」
大谷さんの彼氏が見知らぬ女性とお高いレストランから出てくる所を見て、その場で喧嘩になったらしい。
「最初彼氏が、女性は単なる職場の同僚だって言ってたんですけど、途中で女性が“私、実は元カノなんですー”って暴露して」
昨日の事を思い出して再び怒りが込み上げてきてしまったのか、大谷さんはムッと顔をしかめ、両拳を握りしめた。
「元カノ登場かぁ……大変だったね」
大谷さんとは所属する部署が一緒ということもあり、それなりに気心も知れている。こんな風にプライベートな話もする気さくな関係である。
もし、自分の彼氏が元カノと食事をしているのを見てしまったら、たぶん私も大谷さんと同じように嫌な気持ちになると思う。
けど、実際に体験したこともなければ……それ以前に、年の数イコール彼氏いない歴の私なので、大谷さんの気持ちに深く共感することは難しい。
それなりに恋はしてきた。けど、いいなと思う相手には必ず最愛の人がいて、私に入りこむ余地など全くなかったのだ。
ビルに入り、同じ会社の社員と挨拶を交わしながら、エレベーター前で足を停めると――……僅かに耳鳴りがした。
徐々に耳鳴りが強くなり、続いて動悸も感じ始め、私は目をぎゅっと閉じた。
すっと周りの音が引いていく。
徐々に瞼の裏に、デスクが並んだ“オフィスの光景”が見えてくる。
場所も、デスクに向かって仕事をする人々の顔も、全部知っている。紛れもなく私の働いている場所だ。
次に見えたのは“大谷さんの沈んだ顔“。彼女の傍には、我が部署のお局様である水原さんの姿がある。
水原さんの手には発注書。それについて大谷さんをひどく怒っている。声は聞こえないけど、表情で分かる。
私はぱっと目を開き、ふうっと息を吐き出した。
「大谷さん、昨日いろいろあって気持ちが沈んでると思うけど、仕事ミスらないように気持ち引き締めた方が良いよ。水原さんに最終確認出す前に、自分でももう一度見直して……特に発注書とか」
そうアドバイスすると大谷さんの目が大きく見開かれた。
「あっ。実は昨日、発注書でミスしてて、水原さんに注意されてるんです。さすがに二日連続でそんなことになったら怒られますよね。はい。頑張って気持ち切り替えます」
素直な返事に頷き返しながら、一階に到着したエレベーターへと乗りこんでいく。
今日もミスったら、みんなの前で怒鳴りつけられちゃうよ……とまでは、さすがに言えない。でも、大谷さんが注意を怠れば、私の見た光景は確実に現実のものとなる。
こんな風に時々、第六感が働くことがある。
自分の意志に関係なく、未来に起こる良いことや悪いことの映像が瞼の裏に浮かび、見えてしまう……予知してしまうのだ。
これが私の秘密の特技である。
会社が入っている五階でエレベーターを降り、私はまっすぐ自分のデスクへと向かう。
机上に鞄を置いた瞬間――……キィィンと、耳鳴りが始まった。
また!?
私は椅子に腰掛け、手で額を抑えながら瞳を閉じた。
瞼の裏に見えてきたのは“夜の駅前”だった。自宅の最寄り駅に降り立つと、雨が降り出してしまっている。そんな風景だ。
折り畳み傘を広げ夜道を歩き出した“私”。
ちょっとだけ動揺してしまう。自分のことに関して予知することはほとんど無いからだ。
何が起こるのかと薄っすら恐怖を感じていると、とある人物が私の前に現れた。
……えっ……こ、この人は、まさか!?
なぜか夢で見た王子様がいた。
しかも仁王立ちをしているその場所は、私が駅と自宅の往復に使っている道である。
「お前、逃げられると思うなよ」
はっきりと声が聞こえた。夢の中で聞いた声と一緒だ。背筋にぞくりと悪寒が走った。
逃げ出す私。追いかけてくる王子。捕まる私。
芝生のような場所に押し倒され――……っ!?
大きく目を開け、私は勢いよく椅子から立ちあがった。
「高柳、どうかしたのか? 忘れものでもしたか?」
後ろから声をかけられ慌てて振り返れば、そこには驚き顔の林課長。デスクが近い人々も、何事かと私を見ている。
「は、林課長、お早うございます! 何でもありません。失礼しました」
「そうか? 変な奴だな」
林課長は驚きから朗らかな笑みへと表情を変えた。そして私の後ろを離れ、自分のデスクに向かっていく。
私も力を抜き、すとんっと椅子に腰を下ろした。鼓動が加速していく。
密かに片思い中の林課長に声をかけられたこと以上に、私は今見た光景に動揺していた。
自然と指先が唇に触れてしまう。
本当に変だ。
変なことを予知してしまった。
夢の中の王子様が私を押し倒しキスをし……その上、服を脱がしにかかってきたのだ。
彼は夢の中の人。現実に存在しない人。
目の前に現れるなんて、絶対にあり得ない!
有り得ないのに……なぜこんなにも、唇にキスされた感触が生々しく残っているのだろうか。
念のため、今日はバスで帰ろう。
どくどくどくと体の中で響く鼓動を感じながら、私はそう固く決意した。