離婚をつきつける夢をみた
その晩見たのは、本当に変な夢だった。
私はなぜかパジャマ姿で、長い廊下に敷かれた絨毯の上に立っている。
ついさっき、メイドのような格好をした女性が私の前を通りすぎて行ったけど、それ以降、誰の姿も見ていない。
風が強いのか、かたかたと窓が揺れている。外は一面暗闇だ。所々ランプが灯されぼんやりと明るい廊下を、右から左へと視線を走らせたあと、私は身を震わせながら正面を見た。
目の前には立派な扉。その右隣には、一メートルほどの高さの台に乗せられた大きな花瓶があった。そこには見たこともない青い小花がたくさん飾られている。
花の香りは分からない。夢だから。でも、なぜか肌寒さは感じている。寒くて寒くて、さっきから体が小刻みに震えている。
(寒い。本当に寒い。このままじゃ、風邪ひいちゃう……あ、いや。これ夢だ……うん。夢なんだけど……なんでこんなに寒いの! 早く目覚めて、私!)
祈りをこめて、頭の中で声を上げる。けど夢は覚める様子もない。
不意に、誰かの気配を感じた気がして、勢いよく左方向に顔を向ける。目を凝らしていると、廊下最奥にある部屋の扉が静かに開き、すっと、女の人が出てきた。
女性がこちらに体を向ける。その姿形を見て、ドクリと、鼓動が嫌な音を立てた。息苦しくもなっていく。
女性は自分にとてもよく似た顔をしていた。まるで鏡でも見ている気分だ。
彼女が身に着けているのは真っ白なジャンパースカートで、ウエストの両脇に大きなリボンが付いている。ロリータ系のなんとも可愛らしい服であるが、自分では着たことのない系統の服だ。
あまり興味を持ったこともなかったけれど、もしかしたら着てみたいという願望が心の奥底にあったのかもしれない。
歩み寄ってくる女性が、自分の分身であるように思え、そんなことを考えてしまったけど、近づいてきた女性を見て確信する。
彼女は私じゃない。
似ているけど、上手く説明できないけど、違う。私ではない。
妙にほっとすると同時に、彼女の詳細が見えてくる。
黒髪は胸下まで伸び、毛先には緩やかなウェーブがかかっている。辺りが薄暗いからか、色白な顔がなんだか浮き出て見えた。
ジャンパースカートの胸元は編み上げになっていて、その上で、首から下げられた滴型の青い宝石が微かに揺れ、鈍く光を反射している。腰の両側についている大きなリボンはクリーム色で、そこもちょっとだけ目立って見えた。
揺れていたレース付きのスカートの裾が、ぴたりと止まる。
私の立つ場所まであと三メートルという所で彼女は立ち止まると、ピンク色の唇をぐっと引き結んだ。
ぎくり――……と、寒さとはまた違う感覚が私を襲う。
彼女の漆黒の瞳が、しっかりと私を捉えたからだ。
数分前、目の前を通りすぎて行ったメイドさんは、私の姿が見えていない様子だった。だから、この夢の中での自分は、透明人間か何かなのだろうと解釈してしまっていたけど、それは間違いだったみたいだ。
目をそらせずにいると、彼女の瞳が微かな輝きを放った。まるで何かを決意したような力強さが伝わってくる。
ハッとし、勢いよく視線を落とした。何か鈍い光が彼女のスカートに見え隠れしていることに気が付いたからだ。
私の視線に気づいてか、彼女が背後に回していた左手を体の前へと移動させた。
(……えっ……ちょっと待って)
彼女が持っていたのは、金槌だった。
(ヤダヤダ、待って待って……それどうするつもり……まさか襲い掛かってこないよね)
夢だけど、叩き殺されてからの目覚めは嫌だ。憂鬱な気持ちで出勤したくない。勘弁してほしい。逃げ出したいけど、足が動かなかった。震え続けるしかできない。
不意に、彼女が私から目をそらした。
胸元で鈍い光を保っている青い宝石を手荒に掴み取ると、力いっぱいシルバーのチェーンを引きちぎった。
唖然とし、絨毯に落ちた銀の鎖の光沢を見つめていると、また廊下の奥から視線を感じた。
彼女が出てきた扉は開け放たれたままで、そこからキツネのような生き物が一匹、こちらをじっと見つめている。警戒している様子ではなく、心配し、成り行きを見守っているかのようだ。寂しげな鳴き声も微かに聞こえてきた。
コンコンッと、低いノック音が響き渡った。
視線を戻すと同時に、女性が宝石を握りしめた手で、目の前の部屋の扉を再びノックした。程なくして、部屋の中から「はい」と男性の声が返ってきた。彼女はそっと持っていた斧を後ろ手に隠す。
「アンナです」
名前に、そして声に、再びの衝撃。
私の名前は、高柳杏菜。名前だけでなく、声も自分に近いように思えた。徐々に頭が混乱してくる。直感が、自分とこの女性は全くの別人だと訴えかけてきたが、それは単なる思いこみだったのかもしれない。
(この洋館も、目の前の可愛い服も。私の理想と憧れと妄想の産物……なの?)
じいっと、彼女の背中を見つめていると、キイッと扉が開いた。
「こんな時間に何の用だ」
部屋の中から顔を見せたのは、すらりと背の高い男性。
ブロンド色の前髪のしたで、緑色の切れ長の瞳が微かに細められた。とても綺麗な顔をしているけれど、どことなく近寄りがたいような、冷たい雰囲気を漂わせている。そして、滑らかな絹のような素材の夜着を身に着け、金持ちそうな雰囲気まで漂わせている。
「妻としての役目を果たす気にでもなったのか?」
(つ、つまーー!?)
男の台詞に開いた口が塞がらない。
これが自分の理想の旦那像だったかなと考え、即座に頭の中で否定を入れる。
イケメンは嫌いではない。見てるぶんには楽しい。けど私の好みは、優しくて、朗らかで、とても愛嬌があって、傍にいるとついつい和んでしまう……林課長のような男性だ。テレビの中でしかお目にかかれないような、こんなイケメンではない。
(寝る前に、イケメン俳優と結婚する漫画でも読んだっけ?……いや、読んでない)
いろいろと、私の想像を超える展開が、夢の中で起きている。
「……お話があります」
「何?」
女性が斧を持つ手に力を込めたのを目にし、私は開いていた口を勢いよく閉じた。
甘々な展開が待ち受けているかと思いきや、違うかもしれない。そこはかとなく、サスペンスの香りがする。
「……アンナ。婚家の宝玉は?」
そう問われ、彼女は右手握り拳を持ち上げてみせた。その手の中にはさきほどまで胸元にぶら下がっていたペンダントがある。
男性は女性の顔と握りしめられた拳を交互に見てから、呆れたとでも言いたげにため息を吐いた。
「もしかして、落としてヒビでも入れたのか? 大切なものだ。不注意が過ぎるぞ。今後気をつけるように」
女性はそれには何も答えずに、ゆっくりと一歩一歩踏みしめながら、部屋の中へと入って行った。
扉を抑えたままの男性が、彼女が後ろ手に掴んでいたものに気が付いた。一瞬で表情がこわばっていく。
「アンナ!?」
「ごめんなさい。ディオ王子」
彼女はテーブルの上に“婚家の宝玉”と呼ばれた滴型の青い宝石を置き、ディオ王子(!?)へと体を向けた。
「私、やっぱり、貴方の妻にはなれそうにもありません」
「待て、アンナ!」
「本当にごめんなさい。さようなら!」
ディオ王子は扉から手を離し、女性に駆け寄っていく。しかし彼女は、金槌を持った左手を高々と振り上げ、ためらいもなく、宝石に向かって振り下ろした。
身動きのできない私の目の前で、パタリと扉が閉まってしまった。
サスペンスではなく、正解はラブロマンスだった。
(私……寝る前に、こんな内容の映画でも観ていたのだろうか)
昨晩眠りにつく前のことを思い出そうと試みた瞬間、頭が締め付けられるように痛くなる。続けて、耳鳴りがした……ような気がした。
(目が覚めそうな気がする……良かった)
馴染みのある痛みに襲われ、夢の終わりが迫ってきていることを感じ、私は肩の力を抜き、目を閉じたのだった。
ゆっくりと目を開ければ、自分の部屋の天井が見えた。
「さ、さむっ!!」
同時に、ベッドの上でぶるりと身を震わせる。掛布団がすべて床に落ちている。十二月の下旬の朝にこれでは、寒くて当たり前である。
ため息交じりに上半身を起こし、窓の外を見た。もうしっかり明るくなっている。
枕元の時計の針は六時二十八分をさしていて、あと二分でアラームが鳴る。起きる時間だ。
私はため息を吐きながら、頭を両手で抑えた。
ほんと、変な夢だった。
ドキドキハラハラさせられた感覚が、まだ体の中に残っていて、鼓動が落ち着かない。
「あーー……だるい」
体の重苦しさに、私はこれでもかというくらいに深いため息を吐いたのだった。