表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

遺体農場

作者: 東雲柚葉

遺体農場。死体牧場とも呼ばれる腐乱死体の研究施設。

ここでは何体かの死体を広大な敷地を誇る土地の中で放置し、腐敗の経過を研究している。

ゴミ袋に詰め込まれていたり、浅く掘られた穴に埋められていたり、野晒しのままの死体など、死体の状態は様々だ。

転がって放置されている死体は、犬や猫などではない。

放置されているのは、人間の死体。

かなり狂気的で異常なものと感じるかもしれないが、これも犯罪捜査などに役立つ立派な研究のひとつ。

現代では、科学力が伸びたことにより、死後硬直の広がり方や体温、腐敗の進行状況などといった遺体の状況から様々な情報が読み取れるといわれている。この情報を基にして警察が捜索して見つけた手掛かりや、故人の生活習慣などを組み合わせればかなり正確な死亡推定時刻が割り出せるという。

しかし、死体が死後丸一日経っているものだと、正確な死亡推定時刻の読み取りは難しくなってくる。

それは死後に時間がかかればかかるほど、様々な要因により影響を受けやすくなるからだ。

例えば、湿度や温度、昆虫や腐食動物の活動などによるもの。

それによって、環境は非常に変化してしまう。

そういった観点によるものから誤った検死を行わないように、遺体農場では死体を腐敗させる研究を行っている。

 確かに、死体が目の前で放置されているのを見るのは辛いと感じたこともあった。

 けれど、人とは怖いものだ。遺体が放置されていることに何の抵抗も感じない自分がいるのだから。

 放置された死体を毎日同じところから観察していると、その死体が昆虫に食われたり、目には見えないが微生物に分解されていたりする経過をじっくりと観察することが出来る。

 何せ自分はこうして死体を眺めることに存在意義を見出しているのだから、丸一日死体観察に時間を費やしたとしても何も問題はないというわけだ。

 目の前に転がる死体を眺めて、ふと思う。

 この死体にも、生きていた頃があった。身体の半分以上が骨となって今では女なのか男なのかもわからないが、恋をして笑って泣いて怒ってと、普通に生きていた時が必ずあった筈だ。

 ここに運び込まれる死体は、まさかその辺でひょいと見繕ったものなのではなく、正規の手順を踏んで用意されているもの。

 しかし、だからといって目の前に転がる死体が最初から死体だった訳が無い。

 物と成り果てた死体には、生は残っていない。だから錯覚しかけるが、死んだものは確実に生きていたという過去が存在する。証がなくとも、生まれなければ、生を得なければ死は迎えられないのだから。

 自分で死にたくて死んだのか、病気で死んだのか、どのように死んだ死体なのかはわからない。

 けど、ひとつ確実に言えることがあるとすれば、人は簡単に死ぬ。ということだ。

 人は簡単に、ふとした拍子に死ぬ。

 なのに、人は死んだ後にどこに行くのかはわからない。

 子供が、組み立てた積み木や砂の城を破壊するかのように簡単に、人は死んでしまうというのに、死後の世界というのは人にとって簡単なことではないようだ。

 簡単に死ぬのに、死んだ後の世界がわからない。それは途轍もない恐怖。

 死とは生と常に隣あわせで存在していて、だというのに対極の存在でもある。

 だって、今こうして話している間にも死ぬかもしれない。

 少しスケールの大きい話だけど、地球というのは一つの惑星であり、その中に人は生活している。ならば、地球が崩れ落ちたらどうなってしまうのか。何らかの現象によって、人は一人残らず死を体験することになるだろう。

 さらに現実的に起こってしまいそうな、スケールの大きい話をしよう。

 もしも、晴れの日に爆音で轟く雷鳴と閃光が光ったとする。誰もがそれに注目しつつも、異常な気象だと認識して、好奇心を含んだ恐怖を覚えると思う。しかしそれがもし、どこかの国が投下した原子爆弾が爆発した時の閃光だとしたら、閃光を認識した人は皆、死を体験することとなる。

 けれど、これはまだ自分の身に降りかかる恐怖と認識することは難しいかもしれない。

ならば、背後から銃弾が飛んできているかもしれないし、突然部屋に仕掛けられた爆弾が爆発するかもしれない、と考えるのはどうだろうか。

いや、それもまだ非日常的な死だ。日常的な死というのは、本当に隣にあるものを差す。

今、電車やバスなどの公共機関に乗っているとする。考えてみて欲しい。あなたの後ろに立つ人、前に座っている人、横に座っている人。その人達によって死を迎えさせられることには絶対にならないと言い切れるだろうか。

さっきまで歩いていた雑踏の中に、誰でもいいから人を殺したいと考えている人はいなかったか。その人が突然人を刺し殺したとして、刺し殺された人間が自分でなかったと言いきれるのか。

当たり前のように通っているガスが、水素に変わっていたら? 水道水の水に毒が入っていたら? ストーブに入っている灯油がガソリンに変わっていたら?

平等に、死というものは隣にある。

意識もしていないほど唐突に、死というわけのわからないものに放り込まれることなんて、そう珍しくは無い。

テレビのニュースを見て、人が殺されて。物騒だな、という考えは自分が死なないと考えてしまうから。絶対の安全圏に居ると思っているから。だけど、それは違う。人は皆、同じ死の確率の上に立っている。

 中世の貴族達のように、死の恐怖というのは現世で楽しい思いをしている人ほど感じやすいらしい。逆に、不幸に感じる人は自分で自分を殺してしまったり、早く死にたいと願う。

 生まれも、性格も、容姿も、性別も、人種も、そして死に対する恐怖の度合いも違うというのに。

 それでも、死はすべての人に平等に降り注ぐ。

 目の前に転がる死体にも、死は平等に降り注いでいる。

だから、自分にもいつ死が訪れてもおかしくはない。そんな、死と隣り合わせの世界で生きているのだから。

 目の前に転がる死体の左上が、不意に見えなくなった。

 突然そこまで腐敗が進行するとは思えない。どうしたことか、ともう一度目を凝らしてみようとしたところで、自分の左目が崩れ落ちていることに気がついた。

 気づけば、自分の身体は目の前に倒れる死体と並んで放置されている。

 ほら見たことか。

 

 死とはこんなにも隣り合わせにあるんだ。

 


 死というものの恐ろしさ、寝る前にそんなことを考えて怖くなってしまったことはありませんか?

 ニュースで毎日のように人が死んだという報道を見ます。報道されていないところでも、人は死んでいるのでしょう。交通事故や殺人、きっと死んでしまった人のほとんどは死の瞬間まで死ぬなんて思っていなかったことでしょう。

 ですが、その方々は死んでしまいました。でも、その人たちと私達に何の違いがあるのか。ただ今生きているだけで、私達は確実にいつか死にます。

 それは明日かもしれないし、今日かもしれない、もしかしたらこの文章を読んでいる最中に死んでしまうかもしれない。

 人として生きている限り、死というものはそれほど隣に存在している、そのことを心に留めて置いて欲しい。そのようなことを考えながら書かせていただきました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ