3 誓約の儀(過去)
前回:見事に暗黒流星を駆逐した銀と玄。
夢。虚ろ。過去。昔・幻ろし。
この人は…この人は…この人は……何を言ってるんだろう?
『人の心なんて、薄弱かつ弱小な存在だ。指で突くだけで、崩れ去る』
その人はつんと、人差し指で、庭園の砂山をついてみせた。砂は崩れ、木は倒れ、風が凪いだ。幼い銀は、脅えた表情でその人の言葉を待つ。
『心なんてものは不確かだ。その不確かに翻弄されて、人は悩んだり笑ったり泣いたり喜んだりする。しかしその不確かがドコから来ているのか、知る事はない』
この人は何を……。
『導くものが必要なんだよ、銀』
その人が指をくるくる廻す。風が渦を巻き、砂を巻き上げ、池の水が吹き上がり、鯉が地面に叩きつけられる。水を失った鯉は、苦悶にもだえる。
『暗黒流星は、人の心を蝕む。闇の底まで落としていく』
ふっ、と銀の表情を見て微笑み、また指を動かす。鯉が宙を舞って、池に落ちる。鯉は、逃げるように水の底へ消えていった。
『暗黒流星は闇のサイドを好む。それこそ由由しき問題だ。人は闇の誘惑に負けやすい。我々、十字の満月の力が強大でも、人が闇に屈してしまえば、我々は無力だ。ま、イタチごっこだな』
その人は、くしゃ、と銀の美しい髪をなでる。
『脅える事はない。銀もその力の保有者だ。暗黒流星を完全に駆逐する使命をもって生れたんだ。人の闇はいつか、崩壊をもたらす。分かるだろ?』
銀はうなずく。────首が、勝手に動いてしまった。
その人は満足げにうなずいた。
『契約の時間だ、銀』
それまで何の変哲もない夜空が、その一言であきらかな変化をもたらした。
銀は震える。
恐怖だ、体中を駆け巡る血液の一粒一粒が、本能的に脅えた。
夜空に見えるもう一つの月、あまりにも巨大で、あまりにも壮麗な月が、地球を飲み込むかのように接近していた。
これが十字の満月────。銀は息を飲む。
満月の中心に黄金色の火炎が十字を彩っている。この月は、地球の衛星たる月ではない。はるか闇の果てに存在する最大の恒星。その十字は、プロミスの灼熱部分で、余り余るエネルギーが、そこで発散されているのだ。クレーターのように見えるのも、圧倒的高温の火炎の渦である。
それでいて、落ち着いた黄金色の妖光。
恐怖しつつも、銀はその光に惹かれていた。怖い…怖い…でも、この光に包まれたい…でも、怖い…きっとこんな光に焼かれたら、僕は死んでしまう……。
理論は分かっている。今見ている十字の満月は、マヤカシな存在だ。本物の十字の満月は、果ての果ての宇宙の中心で、灼熱を放ち続けている。
十字の満月の祝福を受けたもの以外、この光景を見れる人間はいない。それでも、幼き銀は脅えていた。理論とか知識では表現できない畏怖が、銀を取り巻いている。それに銀は反発できない。ただ服従し契約を実行することしか、銀にはできなかった。そして銀のいる場所は、十字の満月以外に有り得ない。結局、何も否定する事はできず、全てを受け入れるしかない。
それを全て見透かしたように、その人は天の幻影を見上げた。
『美しいな、銀。これたけで、信じるに値する』
はい……。震える唇でうなずく。
『よく目を開けておくんだ。これは一生に一度の────お前が人間を捨てる日だからな』
人間を捨てる? この人はいったい何を? 何を言っているんだ?
『はじまるぞ』
銀は恐怖に瞬きも忘れた。十字の満月が、銀へと接近してくる。これはまやかし、うたかたな幻ろし。虚ろな映像。悲鳴をあげる銀。楽しげに見下ろすあの人。体の中をかけめぐる異物のような力の流れに、体中の細胞という細胞がきしみ、歪まされていく。それが進化の過程なんだ、その人は笑う。光栄な事なんだよ、銀? この人は────この人はいったい何を? 何を言っているんだ? これは幻ろし、すぐに消えるまやかし。虚ろな現実、不確かな過去。埋もれる存在。
銀は、混乱したまま意識を失くした。