4 どきどきする視線の先に
「あの。どうだい、と言われても。先輩も授業とかないんですか?」
「ああ、気にしなくていいよ」
「いいんだ!?」
「教科書も一式揃っている。実際、ときどき代役で教壇に立ったりしているし、教え方には少し自信があるんだ」
「自信……」
「あ、だけどまだ人類が解けていない数学の問題なんかは勘弁してね。大学入試レベルならだいたい暗記しているけど、さすがに専門的なことはちょっと」
そう言ってはにかむ先輩は俺をアホ面にするほど可愛かったが、台詞の内容がぶっ飛んでいるためか素直に感心できない。
それから悠久先輩は俺たちをソファーに座らせ、自分は部屋の奥に引っ込んだ。入口の扉と繋がるこの部屋は応接間で、個々人で必要な物品はそれぞれの個室で管理しているらしい。ロッカーじゃなくて部屋単位なのが生徒会クオリティなのか。
しばらくして戻ってきた先輩の手には確かに一年生の教科書が握られていた。先輩が俺たちの対面に座るとほぼ同時に、季城院さんが紅茶の入ったカップをことりと置く。
……入試のときより緊張するんだけど、これ。
「じゃあ、始めようか。まずは――」
慣れた仕草で教科書を開く悠久先生。
さすがの一言だった。
本当に頭の良い人の説明はすごくわかりやすいと言うが、悠久先輩のそれはまさに言葉通りの内容だった。基本的に中学の復習みたいな感じだったが、先輩の話を聞くだけでいかに自分が基礎をおろそかにしていたかがわかる。
だが、勉強に集中できたのは最初の十分程度だった。
「………………」
「………………」
与えられた問題を解く俺の鉛筆の動きが、鈍い。
さきほどから悠久先輩が気になって仕方なかった。なぜなら――
「………………」(じぃぃぃぃー……)
ガン見されていたからだ。
元々つぶらな瞳をさらに丸くし、問題集ではなく俺の顔をただひたすらに見つめている。ときどき和敏の質問に答えて視線を外しても、またすぐに俺の顔を見る作業に入る。そう作業だ。先輩が俺の顔に見とれるなんてこと、天地がひっくり返ってもあり得ねえからな、うん。
しかし気になる。
「あの、先輩? 俺の顔に、何か付いてます?」
「いや、何も」
「でもさっきからずっと俺のこと見てますよね……?」
「まあ、何も付いてないからな。ちょっと面白いと思って」
前半はよくわからないけど、後半の理由は少し納得。俺の顔、面白いんだってダンナ。芸人に向いてるってことだね。泣いてもいいかな。
「ほら、手がおろそかになっている。それともそこがわからないのかな?」
悲嘆に暮れていた俺の隣に悠久先輩がやってきた。あろうことか、肩と二の腕が密着するほど接近してくる。
そこからさらに身を乗り出して。
胸が。
太股が。
「ああ、ここは基本を押さえていないと間違えやすいところで」
「ちょ、あの、先輩!」
「ん?」
「近いです!」
「トイレなら生徒会室にもあるが」
「そういうボケ要らない! っていうかトイレもあるんですねココ!」
「便利だろう」
「そうですね!」
半ばやけくそになって叫ぶ。
先輩はさらに顔を近づけてきた。耳から流れる髪が俺の頬に触れ、俺の心臓は早鐘を打つ。ぎゅっと唇を噛み、俺は真っ新なノートを凝視する。先輩の視線が横から突き刺さるのを肌で感じた。
「ところで」
囁くように、先輩。
「君の友達はずいぶんと勉強ができるんだね」
台詞の内容と、それを告げた先輩の声音の真剣さに、俺はようやく正気を取り戻す。悪友の方を見れば、奴は一心不乱にノートを取っていた。傍らに置いているのは教科書というよりはもはや辞書に近い分厚い本。
「あれは院試の参考図書だよ」
「い、インシ?」
「大学のさらに上、大学院に入るための試験のこと。確かあの本はすべて英語で書かれていたはずだけど」
「うへぇっ!?」
「彼は前からあんな感じだったのかい?」
「いやいやいやっ。確かにあいつは勉強できますけど、英語は苦手な方で、むしろ読むより喋る方が好きだった気が。ほら、女の子の気を引くのに英語がペラッペラだと格好良く見えるというかっ、好きってのはそういう類の好きってやつで!」
「そうか」
言わなくてもいいことも口走ってしまった気がする。気を悪くしたのか、悠久先輩は立ち上がってソファーの後ろに回った。勉学を女の子を釣るための道具に使うなと小言を言うつもりなのか。それともそれだけできるのは大したものだと褒めるつもりなのだろうか。
先輩の柔らかな感触と甘い匂いが遠ざかっていったことを正直メチャクチャ残念に思いながら、俺は先輩の歩く姿を目で追っていた。
ソファーの傍らに立っていた季城院さんが静かな声で言う。
「嶺花様、確認いたしました。足下、かなりざわついています。これはちょっと心配ですね」
「やはりか。では、やろう」
悠久先輩との謎のやり取り。俺は会話の内容が気になって、自分の足下を見た。ふかふかの絨毯の上に新品の上履きを履いた自分の足がある。床と靴が恐ろしくミスマッチであること以外は何も変わったところはない。
次いで、和敏の足下に目を向けた。ローテーブルは全面透明ガラスだからよく見える。
――黒い渦が、悪友の足にまとわりついて暴れていた。
「かっ、和敏! おい和敏!」
「あ? 何だよ走夜。今集中してるんだから声かけないでくれよ」
「そんなのどうでもいい! 足下見ろ、足下っ!」
「足?」
胡乱げにこちらを振り返った後、和敏は緩慢な動作でローテーブル越しに自らの足を見た。そして目を擦り、テーブルを前に押してできたスペースにかがみ込む。
和敏の目が次第に見開かれていく姿を汗を流しながら見ていた俺は、ふと、視界の端できらめく何かに気づいた。
ソファーの後ろに立ち、抜き身の刀を手にした悠久先輩が、その切っ先を和敏の背中に向けていた。
「せんぱ――」
「封。破ッ」
止める間もなかった。
一切の躊躇も逡巡もなく振り下ろされた刀は、無音のまま俺の親友の背を深々と抉った。