2 ひどい妙案
教室に戻る間、俺は全力で記憶をひっくり返していた。悠久先輩が俺の名字を知っていたことについて、思い当たる節がないかどうか探していたのだ。
「ほら走夜、もっとしっかり思い出せ。あれほどの美人だぞ? 有名人だぞ? 会っていたなら絶対に記憶に残っているはずだ。思い出して、俺に詳細を伝えろ」
こんな風にさんざせっつかれて、ではあるが。つうか、肩をつかまれてがくがく揺らされたら思い出せるもんも思い出せないっての。
いつもは憎らしいほどクールなイケメンフェイスの悪友だが、今日このときばかりは必死になっていた。俺は冷ややかに奴を見る。
「目の色変わってるぞ和敏」
「当たり前だ。事ここに及んでは、お前の足りない脳細胞の生死よりも重要な事項なんだ。焼き切れてもかまわん。思い出せ!」
ぐいと顔を近づけてくる和敏。俺はしみじみとつぶやいた。
「友情って何だろうな」
「友の要求にできる限り応えることだ」
言い切りやがったよコイツ。
「走夜よ。まさか忘れたわけじゃないだろうな。俺がお前の受験勉強に協力してやる条件」
「う……」
「無事入学を果たした暁には、俺の情報収集に対し協力を惜しまないと」
「わかってるよ、まったく」
俺は頭を掻いた。実のところ「知らない」と返事することは可能だった。和敏の台詞じゃないが、あんな人に出会っていたら俺は絶対に覚えている。男として忘れない。そして俺は彼女に出会った記憶はないし、出会っていないと断言できる。初対面でないならあのときあんなに衝撃を受けたりはしない。
けど俺は「心当たりは、ないことはない」と口にしていた。まだ周囲にはたくさん生徒が歩いているというのに、和敏は立ち止まって俺の頭を抱え込んでくる。俺は言った。
「合格発表の日、覚えてるだろ。先輩が俺を知ってるんだとしたら、あのときじゃないかって思う」
「喜びに沸く友を置いて迷子になったあのときか」
「迷子じゃねえ。校内を散歩してたんだよ。まあ、今から考えると自分でもどうかと思うけど」
――あの日。晴れて開正館の生徒になることを知った俺は、夢見心地の気分のまま校内をさまよい歩いた。合格したことを早く家族に伝えたい気持ちもあったけれど、それより先にこの広い広い敷地内をひとりで見て回ることを俺は選んだのだ。馬鹿なことをしているという意識はあった。けどやめられなかった。
この空間が、日々のつまらない生活を打破する異世界に思えてしまったから。
まあ、結局は浮かれて頭のねじが緩んでいた俺の愚行。たまたま通りかかった数人の生徒と教師に見つかり、小言を食らって我に返ったというわけだ。
「その中に先輩の姿はなかったと思うけど、もしかしたらそこから俺のことが伝わったのかも。中学の学生証とか見せたから」
「なるほどねえ」
和敏は人差し指で自らの顎を軽く叩く。長い付き合いから、明らかに納得していないとわかる。俺にとっては奴の情報網の充実などわりとどうでも良いことなので、さっさと歩き出した。
一年生の教室は校舎の二階に連なっていて、どこからも興奮したようなざわめき声が上がっていた。俺たち『1―B』の教室も同様で、扉をくぐる前からクラスメイトの雑談が声高に耳に入る。
俺と和敏が教室に入ると、近くにいた数人がぴたりと会話をやめた。そのうちのひとり、短髪の男子生徒が意味ありげな笑みを浮かべて近づいてくる。
「よお旦那。お疲れさん」
「……えっと。誰?」
「悪い悪い。俺は羽生ってんだ。よろしくな」
えらくフレンドリーな奴だ。俺は適当に自己紹介を返す。
「ああ、よろしく。俺は田原」
「てーことは、間違いないな」
首をかしげると、羽生は突然俺の首を抱え込んだ。
「さっきの入学式、あれマジ告白だろ?」
「なっ!?」
「照れるな照れるな。俺だってあんな美人が寄ってきたら思わず言っちまうって」
「わぁ。やっぱりそうなんだ。田原君やるぅ」
近くで羽生と一緒に話していた女子がはやし立てる。めざとく騒ぎに気づいた他の連中もぞろぞろと集まってきた。
「お。勇者のご帰還だ」
「ちっくしょー。羨ましいなあこのヤロウ」
「なあなあなあ! 間近で見たんだろ? むっ、胸は、胸はどうだった!?」
「ちょっと男子。変なこと聞くんじゃないわよ。こんな純情君に」
「そうよ。初対面で告白なんて、なかなかできることじゃないでしょ。あんたにはムリよムリ」
「でもさあ、いきなりはちょっと引くよねえ。先輩オトナだったなあ」
「かっ、和敏!」
俺は助けを求めて旧友を見る。奴は鷹揚にうなずいた。
「さっそく仲良くなれて良かったな。お兄さんは嬉しいぞ」
「そうじゃなくてもっと別のコメントをッ」
任せろ、と言わんばかりににこりと笑う和敏。くっそう、ムカつくほど絵になる。
「みんな、俺はコイツのダチで高崎という。以後お見知りおきを。特に女子の皆さんとはどんどん仲良くなりたいです! 今ならお礼にこの告白少年のプロフィールをばっちり教えます。好きです事件の詮索に是非」
「この裏切り者ーッ」
俺の心の叫びを奴は毎度のごとく受け流しやがった。周りのみんなは大爆笑で、俺はやりきれない思いを抱いた。
話題の中心に立つってこういうことなのかよ。恥ずかしいばっかじゃんか。ちくしょう。
和敏を睨み付けていると、扉が開く音がして担任教師が入ってきた。それを見た羽生は「また後でな」と言って離れていく。クラスメイトたちもめいめい自分の席に戻ろうとしていた。これでようやく解放される、と長い息を吐いたとき。
「ああお前ら、別に席に着かなくてもいいぞ。そのまま話を聞いてくれ」
あろうことか教師がそんなことを言い出した。
「今日から一年間、このクラスを受け持つ矢野だ。まずは入学式お疲れ様。驚いたかとは思うがこれがうちのスタンスだ。生徒会の面々にはこれからも色々と驚かされることになるだろう。ま、何事も慣れだ。今の内から彼らの顔はよく覚えておくんだな」
立ったままのクラスメイトがざわつく。そりゃ確かに驚いたが、それを教師が言っていいもんなのか――みんなの表情はそう言ってたし、俺も同感だった。
「我が校はとにかく自由。しかし自分勝手に好き勝手やってついていけるほど甘くはないぞ。きつーいおしおきが待ってるから心しておけ。やるなら全力で、信念を持ってだ。例えば――おい田原」
どきりとした。辺りを見回すが、どうやら他に『田原』という名字の奴はいないらしく、担任の視線は俺の方向にばっちりロックされている。
「入学式での台詞、生徒会でもちょっとした話題になっていたぞ。ああいう純粋な子はいつ見てもいいもんだってな」
「じゅ……!? そんなんじゃないって。からかうなよ先生!」
「からかってなんかないさ。案外、お前みたいな生徒が生徒会に採用されたりするもんだ。自信を持て」
その一言に、教室の空気が微妙に変わる。
教壇の前に立っていた羽生が「はい」と手を挙げる。
「それって、見た目はフッツーでも目立てば生徒会に入れるってことっすか?」
「そうだな。うちは役員の選出に選挙は行わない。あくまで役員の中での話し合いで決める」
「てーことは、こいつみたいに告白玉砕してもアピールできれば、あの生徒会の方々の中に入れると」
「そういうことだ。教師の俺が言うのも何だが、生徒会の面子は凄いぞ。一緒の立場に立つだけで良い経験になるだろうな。それに今のメンバーは面倒見が良いから、色々親しくしてくれるはずだ」
「あのすっげー美人の先輩にまた逢える!?」
「超カッコ良かったあの先輩と一緒になっちゃったらどうしよう!?」
「胸ぇーっ! 腰ぃーっ! 尻ぃぃっ!」
「ははは。やる気満々だな新入生ども。さっきも言ったように我が校は自由。お前ら次第ってことだ。あとさっき胸とか腰とか言ってた奴、後で職員室に来い」
若干一名の顔面が蒼くなった他は、俄然盛り上がりを見せるクラスメイトたち。
いまだ恥ずかしさが抜けきらなかった俺は、ふと、担任教師がクラスひとりひとりの顔を真剣な表情で見回していることに気づいた。生徒会の話題で盛り上がる級友たちはそれに気づいた様子がない。
教壇から連絡事項を書いたプリントを取り出し黒板に貼り付けながら、担任は言った。
「ま、もし彼らを知りたいのなら田原に聞くのがいいだろ。このクラスで初めて、間近で会話した人間だからな」
「先生っ、アンタ鬼か!?」
「ほい、ホームルーム終了ー」
薄情にも教室を出て行く担任。直後、俺は羽生を始めとしたクラスメイトに再び囲まれてしまった。
「田原にだけ良い思いをさせるわけにはいかん。こいつから搾り取れるだけ情報を搾り取り、皆で分け合おう」
「その後、正々堂々と勝負するのね。誰が最初に生徒会に入れるか」
「その通り。さあ覚悟して俺たちの質問攻めを受けるがいい、田原!」
「いやいやいや! 落ち着けお前ら。おかしいだろいろいろとっ。どうしてそうなるんだよ!」
「単純に羨ましいからだ!」
シンプルすぎて反論もできねえ。
男子どころか女子まで獰猛な笑みを浮かべて迫り来る姿に、俺は本気で生命の危険を感じた。あれ、おかしいな。自由ってこういうことだっけ?
「ふふ。ここで俺の出番だな。安心しろ走夜。この窮地を切り抜ける妙案がある」
「和敏」
俺を庇うように前に出た悪友、もとい親友の背中に、俺は生まれて初めてと言っていいような安堵感を覚えた。次なる言葉を待っていると、突然和敏に腕をつかまれ、教室の外に連れ出される。体格の大きさにふさわしい力の前に、俺は為す術もなく引きずられた。
しかし妙案と言っていたが、これじゃあ単に逃げてるだけ……いや、まあ助かったけど。
体力にも自信がある悪友は、息も切らさず言った。
「ここは古の賢人の言葉に従うのが吉だ」
「三十六計逃げるにしかず、というやつか」
「違う。虎穴に入らずんば虎児を得ずだ」
「へ?」
「思い立ったが吉日とも言う」
「和敏サン?」
「このまま生徒会室に殴り込むぞ。直接事情を聞き出す」
イイ笑顔で振り向かれた。
「成功すればレア情報を得ること間違いなし、失敗しても走夜のいろいろな何かが失われるだけ。どちらにしろ役員と顔見知りになれる。我ながら何と言う奇策! これでクラスの奴らに情報面で一歩先んじることができるぞ。うはははっ」
「和敏ぃぃぃっ!」
「大丈夫! 俺の親友は約束を守る男だと信じてる!」
「うわあああああんっ」
暴走する悪友に振り回され、俺は叫びは空しく廊下に響いた。