中編
***
元の公園に、俺達はいた。
「あー……疲れたね…」
二時間ほどずっと歩き回って、女の子が疲れてしまったので俺がおぶさって戻ってきたのだ。主にそれが原因で疲れてしまっていた。
「見つからないね、お母さん」
言って、女の子はじわっと涙を浮かべる。
「……大丈夫だよ。見つかるまで、一緒にいるから」
頭を撫でてやると、女の子はこくりと頷いた。
***
昼休みが終わる頃には、すっかりフーカはクラスに馴染んでいた。
「なぁなぁ、フーカちゃんのホストファミリーってことは、一緒に住んでるってことだろ?」
「うらやましいなぁ、あんなかわいい子と。頭もいいし人当たりもいいしさ」
「山本にフーカちゃんに、両手に花ってか。羨ましいを通り越して嫉ましいわコノヤロウ」
そんなことを散々言われたが、俺はとてもそうは思えなくなっていた。あいつは何を企んでいる? 注目を浴びるためか? いや、待て。それを狙っていたのなら自分から割ったということか?
「なーに怖い顔してんの」
ぽこっと頭を叩かれる。椛が教科書を手にこっちを見ていた。
「教室移動。次、もうすぐ始まるよ。行こ?」
その隣で、フーカも教科書を手に立っていた。しばらく、俺とフーカの視線が交差する。
「……あぁ」
いや、あるいは俺の杞憂かもしれない。本当に偶然石が飛んできて、フーカが疑われるなんて思わずに石を拾い上げてしまっていたのかもしれない。可能性だけでは推測の域を出ない。考えれば答えが出るわけじゃないんだ。
俺は机の中から教科書を引っ張り出す。
「行こうか」
「うん」
並んで歩き始める俺と椛の後を、フーカは黙ってついて歩いた。
「ただいまー」
「ただいまですー」
「たっだいまー」
……いや、待て。椛がただいまって言うのはおかしくないか? まぁいいけど。
学校から帰ってきて、三人で居間のコタツに入る。母さんは仕事で、帰ってくるのは夜だ。
「どう? 学校楽しかった?」
椛がフーカに尋ねると、フーカは笑顔で頷いた。
「みんないい人たちですし、仲良くしてくれるし、楽しく生活できそうです!」
「そっか。よかった」
二人の会話をしばらく聞いている。問うてみようか。あるいはそれで疑問が晴れるかもしれない。
「なぁ、フーカ」
「はい?」
「朝、なんで石持ってたんだ?」
フーカの表情が、動きが、固まった。
「お前くらい頭がいいんなら―――あの場であれだけの説明ができるなら、分かってたんじゃないのか? 石を拾い上げたら、疑われるって」
俺の言葉を聞くフーカ。その瞳は、愉しそうに輝いているような気がした。
「――疑ってるんですか? 私が割ったんじゃないかって」
「なっ―――りゅっ、柳。そんなわけない、よね?」
急に悪くなった雰囲気に戸惑いつつも、椛はフーカを擁護しようとする。
「そうじゃないさ。でも石を拾い上げた理由がどうにも腑に落ちないんだ」
しばらくの沈黙が流れる。なぜ答えない、フーカ。
「―――あの時はちょっと混乱しちゃって、拾い上げちゃっただけですよ」
ようやくフーカが答えた。
「信じて―――もらえますか?」
まっすぐ俺を見つめて、言う。その表情から読み取れる意図は複雑で、何か―――何かがありそうな気がした。
「―――ま、疑ってギクシャクすんのも嫌だからな」
とりあえず、そう言っておく。信用しきるわけではないが、言ったことに偽りは無い。
「……よかった」
「あたしも信じてるよ、フーカ」
顔を綻ばせるフーカに、椛も笑って言った。
「じゃぁこの話は終いな」
「話振ったの柳でしょうが。もう、やめてよね。雰囲気悪くなるんだからっ」
「はは、悪い悪い」
すっかりいつもの雰囲気に戻って会話を続ける。
心の隅ではフーカに対する疑念が渦巻きつつも、今はとりあえず、しまっておくことにした。
***
日が暮れ始めて、少し寒くなってきた。女の子は俺の膝の上に座って黙っている。
そろそろ俺も帰った方がいいんだけど、まぁ母さんに事情を話せば理解はしてくれるだろう。
頭を優しく撫でてやりながら、ひたすらこの子のお母さんが来るのを待つ。でも、さすがに警察に届け出た方がいいような気がする。
「ね、おまわりさんのとこ行こうか。お母さん、探してもらおう?」
と言ったが、女の子は首を横に振った。
「嫌?」
こくり。頷く。
「わかった。じゃぁ、ここで待っていようね」
言うと、女の子は「うん」と返した。
「ありがと、お兄ちゃん」
その言葉が、素直に嬉しかった。
俺が女の子に微笑むと、女の子は初めて笑ってくれた。
嬉しかった。
***
フーカがこの学校に来てから、二週間近く経った。すっかりクラスの一員で、ほとんど全員と連絡が取れると言っていたくらいだった。俺ですら二、三人しか連絡取れる人いないのに。
「ほい、柳っ」
教室に入って席に着いた直後に、椛が赤い紙で包装された箱を差し出した。
「……なにこれ」
「なにって……今日バレンタインだよ? ほら、ありがたく受け取って」
あぁ、そういえばそうだったなぁ。でも普通、わざわざ教室入ってから渡すか? まぁいいけどさ。
「さんきゅ。ありがたくいただくよ」
チョコを受け取ると、椛は少し恥ずかしそうに笑った。
「私からも、はいっ」
フーカからも青い紙で包装された箱を差し出される。
「…ありがと」
「えへへ」
正直、チョコを貰って嬉しくないわけではないのだが、フーカに関して言えば疑念が消えてないためか少し怪しんでしまう。表には出さないようにはしているが……。
「おぅおぅ石井、いい御身分だな」
「くたばれ石井」
「嫉ましいわっ」
ええい黙れ野郎共。こちとらお前らみたいに気楽じゃねーんだよ……。
と、ガラガラ、とゆっくり戸が開く音がする。見ると、暗い表情をしたクラスメイト―――南野修が教室に入ってきた。
この南野という男子生徒はまぁ一言で言ってしまえば陰気な雰囲気の人で、クラスからも結構浮いている人だ。俺も椛も気にしないから他と同様に接するが、この男子生徒を避けたりハブったりする生徒は少なくはない。
「おはよ。なんかあったか?」
俺が声をかけても、南野は無言で自分の席に向かって歩いて行った。……なんかあったんだろうな。追求はしないけど。
しばらく三人で喋り、チャイムが鳴ると各々席に着いた。
事件は、昼休みに起きた。
黒い影が、窓に映った。一瞬、ほんの一瞬だけ。それが人の形をしていたと認識する前に、ドスンという大きな音が、響いた。
教室が、静まり返る。すぐに何人かの生徒がベランダへと駆け出し、下を覗き込む。そして、悲鳴が上がった。
「おい、どうした!?」
教室の中にいた男子生徒が叫ぶ。それに答えるように、ベランダに出た男子生徒が答えた。
「人が―――――落ちた!」
ざわめきが、大きくなる。
俺は、呆然と影が通ったあとの窓の外を、ずっと見つめていた。
――――昔、同じようなことがあった。それを、俺は思い出してしまった。
「な、なぁ、あれって―――」
下を覗き込んでいた男子生徒の一人が何かに気づいたようだ。
「―――南野じゃないか!?」
教室は再び、静まり返った。
「南野くん、どうして……」
帰り道、椛がぽつりと呟くように言った。南野の件は当然すぐに救急車と警察が呼ばれ、一時間もしないうちに生徒は帰宅ということになった。聞いた話では屋上へ続くドアが壊され、屋上で南野の靴と遺書らしき手紙が見つかったとのことだ。
「原因はイジメか何かかねぇ。うちのクラスでそういうとこは見かけた覚えはないが」
「……死なないでほしいな…」
椛が心配そうな表情で呟く。
「あるいは死にたいから飛び降りたのかもしれないぞ。自殺を忌み嫌うのはキリスト教の思想だ。家族や友人の心情もあるが、それを厭わないことをエゴだというんなら本人の意思を汲まないこともエゴだと思うけどな」
「―――ッ柳!」
椛が俺を睨み付ける。
「そういう考え方もあるってだけだ。俺もあいつが死ねばいいなんて微塵も思ってないし、みんなが仲良く幸せになってほしいと思ってるって。そう怒るな」
ぽん、と椛の頭に手を置く。
「だけどっ」
「心配なのはわかるが俺達にはどうしようもないだろ。気疲れしてお前に死なれる方がずっと嫌だ」
「………ごめん」
しゅん、とする椛の頭を撫でる。ほんと、こいつは優しいな。なんて、口にはしないけど。
「大丈夫ですよ」
フーカが言った。
「落ちたのは芝生の上ですし、頭や背中から落ちたわけじゃないみたいです。あの高さからなら、それなりの怪我は負うでしょうが、死ぬことは殆ど無いと思います。大丈夫ですよ、椛さん」
学校の校舎は三階建て、靴や遺書もあったし飛び降りたのは屋上で間違いないだろう。二年生の教室は二階だが、上の階の三年生の教室でも落ちる姿が目撃されたと噂されていた。
「だってさ。大丈夫だよ」
「……うん」
ようやく少し晴れやかになった椛の表情に、自分もどこかほっとしていた。
コンコン、とドアを叩く音がした。
「柳さん、今ちょっといいですか?」
夜、俺の部屋にフーカが尋ねてきたようだ。
ドアを開けると寝巻き姿のフーカが立っていた。どこか真剣な表情で、何かを決意したような、そんな表情だった。
「何?」
「ちょっとお話がしたくて。私の部屋に来てくれませんか?」
話?
「ここじゃ椛さんに聞こえそうなので、一応です」
小声で付け加える。椛に聞かれたくない話なのか?
「まぁ、来てくださいな」
「……わかった」
自室の電気を消して、フーカの部屋へ移動する。
「……で、話ってのは?」
そういえば椛や母さん抜きでフーカと話をする機会というのは殆ど無かった。俺が勝手に疑っているだけだが、少し空気が重く感じられる。
フーカと隣あってベッドに腰掛けて問う。ふわりとシャンプーの香りがした。
「柳さんは気付いたんじゃないんですか?」
質問に質問で返すなよ。……まぁいいけどさ。
「気づくって、何が?」
そもそも、何についての話をしているのかもよくわからん。
フーカは少し落胆したような表情をする。
「……なんだよ」
「なんで私が石を拾い上げたのを不審に思ったのに今回の事件の不審点に気づかないんですか……」
……あぁ、南野の件か。
「なんで南野は絶対死ぬような飛び降り方をしなかったのか、だろ?」
フーカは少し驚いたような表情をする。そして「なんだ、気づいてるじゃないですか」と笑った。
「友達から聞いたんですが、南野くん、他のクラスの男子からイジメを受けていたそうです。それが苦で自殺しようとした―――というのは、少しそこが腑に落ちなくて」
俺も少し気にはなっていた。屋上から教室側に落ちると、芝生の生えた庭の上に落ちることになる。廊下側に落ちると、コンクリートで固められた中庭に落ちる。自殺を図るなら、中庭に飛び降りるべきだろう。
「せめてイジメてた連中に死ぬ姿を見せて脅えさせてやろうとしたとか?」
「その線は薄いですよ。イジメをしていたのは他のクラスの人です。うちのクラスの人にそれを見せる理由にはなり得ません」
あぁ、それもそうか。
「……で、話ってそれについてか?」
「というか、これからについてですね」
これから?
「柳さん、協力してほしいんです」
「協力?」
フーカはこくりと頷いて、まっすぐ真剣な表情で俺を見つめて言った。
「今回の件、単なるイジメを原因とした自殺行為ではないと思うんです。何か裏があると思うんです」
そして、俺の手をぎゅっと握って言い放った。
「一緒に、それを解き明かしてほしいんです!」
……いや、待て待て。どうしてそうなる。
「警察に任せておけばいいんじゃないか」
「イジメ問題について警察なんかに任っきりにしたら有耶無耶にされてお終いですよ。それじゃ意味無いんです」
ぎゅっ、と握る手に力が込められる。
「お願いします! 私一人じゃできないこともあるんです。協力してください!」
……フーカは本気のようだ。さて、どうするか…。
「……断ったら、お前はどうする?」
「断らせません。見返りが欲しいのならいくらでも差し上げます。お金でも身体でも何だって構いません、だからお願いします!」
さらに手に力が込められる。……はぁ。
「……わかったよ。協力する」
その言葉を聞いた途端に、フーカの表情が嬉しそうな笑顔に変わった。
「ありがとうございますっ!」
本当に嬉しいのか、手を離して抱きついてきた。初めてアメリカ育ちっぽいことしたなぁ、お前。
「つっても、俺にできることなんてたかが知れてるぞ?」
「いいんです。居てくれるだけでも色々違いますから」
背中に回された腕に力が込められる。さすがにちょっと照れるんだが……フーカは意識してないようだ。文化の差か。
「じゃぁ、明日椛さんにも話しますね」
俺を解放して、笑顔のままフーカは言った。あれ、椛にも話すの?
「椛さんは柳さんが協力するなら絶対協力してくれますからね」
だろうな。もうだいぶ理解したなぁ、椛のこと……。
「じゃぁ明日から、よろしくお願いしますね。やって欲しいこと、その都度伝えますから」
「あぁ、わかったよ。おやすみ」
「おやすみなさい、良い夢を」
ぎゅ、と軽くハグされる。温かな体温を感じ、形容し難い高揚のようなものを感じた。
部屋に戻ってから、鞄を開けて今朝貰ったチョコを取り出す。
「…………」
これを渡した時のフーカの表情を思い浮かべる。嬉しそうな、恥ずかしそうな笑顔。
……正直なところ、フーカに対する疑念は消えてはいない。今でもなお、あの時フーカが何を考え石を拾ったのかと考えてしまう。
「……本当に、そうなのか…?」
本当に、フーカが言った通り、混乱して拾い上げてしまっただけなのか?
赤色の包み紙を破り、箱を開ける。手作りの生チョコが、十二個入っている。一緒に入っていた爪楊枝を刺して口に運ぶと、甘味と苦味が口の中に満ちた。
「……椛のやつ、また上手くなったなぁ…」
生チョコ自体作るのは簡単だが、テンパリングをきちんとしているのだろう、滑らかなのが俺にでもわかる。
もう一つ食べて、残りは仕舞っておくことにする。また明日にでも食べよう。
次いで、青色の包み紙を破る。中の箱は椛のと同じで、開くとこちらはハート型のチョコレートだった。食べてみると、滑らかな口どけのチョコレート。湯煎して型に入れて冷やしたものっぽい。
明日は礼言って褒めてやんなきゃな、二人とも。
こちらは食べきって、包み紙をきれいにたたんで箱の中にいれてしまっておいた。
***
すぅ、すぅ、と寝息だけが静かに聞こえていた。あ、心音もか。
街灯に照らされてはいるものの、すっかり暗くなってしまった公園に、俺達はまだいた。時間はだいたい十九時かそれくらいだろうか。お腹も空いてきたが、女の子はここから動きたがらないし、俺から離れようともしない。今はもう俺に抱きつくようにして寝てしまっている。疲れたのだろう。
お互いが触れている場所だけが温かかった。人の体温ってこんなに気持ちいいんだな、と思う。
「……ん?」
人影が見えた。走ってる、男の人。
男の人はこっちに気が付いたのか、まっすぐ走りって向かってくる。
「やっと……はぁ……見つけた………」
息を切らしながら、男の人は言った。
「君……この子と、待っていてくれたのかい?」
息を整えながら男の人は質問する。この子のお父さんのようだ。頷くと、男の人は「ありがとう」と言いながら微笑んだ。優しそうな笑顔だった。
「……ん…」
女の子が目を覚ました。
「おはよう。お父さん、迎えにきてくれたよ」
「……ん………お父さん…?」
目をこすりながら、男の人の方を向く。
「おはよう。ごめんね、お母さんが道に迷って、どこを歩いていたのか、どこではぐれたかもわからないからって、ずっと探してたんだ。遅くなってごめんね」
女の子は眠そうに頷いた。
「おにいちゃん」
女の子が俺の方を向いて、微笑んだ。
「ありがと」
それから、俺は男の人に家まで送ってもらい、母さんに一緒に事情を説明してもらってから別れた。
***
翌日は休校になった。朝から連絡が回ってきて、事情聴取や現場検証など色々警察が行っているようだった。
「それでさ」
俺の部屋に、俺と椛、それからフーカが集まっていた。昨晩のフーカの話、事件の裏を解明するための話し合いをするためだ。椛はフーカの言った通り、二つ返事で協力を承諾したため、こうして参加している。
「フーカは何を望んでるんだ?」
質問を投げかける。
「何って、何ですか?」
「裏を解き明かしてどうしたいかってことだ。自己満足ならそれでもいいが」
ちなみに、それぞれの手には真っ赤な缶が握られている。フーカが持ってきた、現在も製造されている中では世界で一番古い炭酸飲料、ドクターペッパーである。結構炭酸がきつい。
「昨日も言った通り、南野くんは死なないでしょう。噂ですけど、意識を失うこともなく、怪我の検査ため入院しているそうです。その南野くんがまた学校に戻ってくる時、またイジメがあったら南野くんはまた苦しむことになる」
フーカは目を閉じて言う。
「昨日、柳さん言いましたよね。みんなが仲良く幸せになってほしいと思ってるって。私も一緒ですよ。だから警察に任せておけないんです」
「警察に任せてたんじゃイジメの解決にはならないから、か」
警察の能力云々じゃなくて、警察という機関が法律に沿って動くものであることがその原因だろう。確たる証拠を元に、慎重な判断を下す。どうしても解決できない問題というのは存在する。今回の事件は自殺未遂だ。原因の解消はなかなか難しいだろう。
「わかった。またイジメが起きないようにするんだな」
フーカは頷く。簡単なことではないな、改心させなきゃいけないわけだし。
「でも、自殺しようとしたってことでイジメてた人たちが改心するとかはないのかな」
「可能性は無いことはないでしょうけど、期待はできないと思います……」
言いながら、フーカは二枚の写真をファイルから取り出しす。
「白江真。二年四組、理系の生徒ですね。南野くんをイジメてた生徒の一人です」
写真に写っているのは短い髪を立たせた、眉毛の細いヤンチャそうな男子生徒だった。
フーカはもう一枚の写真を指して続ける。こっちには、口に届くくらいまである長い前髪をピンでとめた、こちらもヤンチャそうな男子生徒だ。
「こっちは佐藤英樹。同じく二年四組、もう一人のイジメっ子です。二人は一年生のとき同じクラスになったことで知り合ったみたいですね。南野くんもこの時同じクラスだったみたいです」
「……情報集めるの早いな」
「すごいね、なんか探偵みたい!」
椛の言葉に、フーカが目を輝かせる。
「探偵……いいですね、かっこいい!」
そうですか……。
「柳さん、少しヨレた茶色のコート無いですか?」
「それを着てるのは探偵じゃなくて刑事だ」
っていうかどこの世界にドクターペッパー飲んで事件を解決する探偵がいるんだよ。
「ちぇー」
「ね、ね、あたしたちの探偵グループ名、つけない?」
話がズレてるぞ。いつの間に俺達は探偵になったんだ?
「いいですね、つけましょう!」
フーカも乗り気かよ……もう好きにしてくれ……。
「柳さん、なんかかっこいいのつけてくださいよ!」
「俺に振るのかよ!? まぁいいけどさ……」
とはいえ、無茶振りにも程がある。急に名前つけろって言ったってなぁ……。
「……ジーニアス」
ぽつりと、考える前に呟いてしまった。
「え?」
「あ。いや、フーカが飛び級してきてるだろ? お前が言いだしっぺのリーダーなんだし、天才ってことでいいんじゃないかと思って」
……ダメ?
「うん、かっこいい。それでいきましょう!」
「それでいいのかよ!? いやまぁいいならいいけどさ」
まぁ気に入ったのならいいや。うん。
「じゃぁ話を戻しまして」
フーカがコホン、と咳払いをする。
「当面の目的は、白江さんと佐藤さんの二人によるイジメが行われていたことを証明する物証を得ること、それから南野くんの自殺未遂の意図を探ること、です。後者は本人に直接聞けば早いですね。今日明日くらいは無理でしょうから、まず前者です」
物証。それが必要になるのは、目撃証言だけでは犯罪を立証することはできないからだろう。
「物証っつったってなぁ。こいつらが不幸の手紙みたいなもんでも南野の下駄箱にブチ込んでくれてりゃ話は早いんだが」
「そんなことするようなタイプではないですね、見た感じ。その辺についても南野くんに話が聞けるようになったら聞いてみましょう」
結局は南野からの聞き取り待ちになるな。
はぁ、と嘆息する。
「今のところできることっつったら噂を集める程度か」
「そうですね。他のクラスの人はそこまで親しくないので、私には難しいのですが……椛さんは?」
「あたし? あたしなら、女の子は割と広いかな。いろんなクラスの子とメアド交換してるし。何人か当たってみるね」
「頼む。でも、白江と佐藤には感づかれるなよ。絶対に」
感づかれたら間違いなく妨害してくる。向こうだって自分達を追いやろうとされてるわけだ、必死になる。俺はともかくフーカや椛は危ない。
「大丈夫。信頼できる子にしか聞かない」
……お前バカだからなぁ。信用できそうにないんだが。
「……その顔はあたしがバカだから信用できないって顔だね?」
「おぉ、大正解だ。うまい棒買ってやろうか」
「わーいうまい棒めんたい味ー!」
埼玉のベストセラー菓子で許されるのか。安い奴。
そんな感じで、探偵ジーニアスの作戦会議は続いたのだった。
***
本当に、たまたまだった。
ぼんやりと、歩いていた。
「あ、お兄ちゃん!」
上から、声が降ってきた。
見上げると、マンションの三階のベランダに、見覚えのある顔があった。あの時の、迷子の女の子だった。
「やっほー!」
嬉しそうな笑顔で手を振る女の子に、俺は手を振り返す。
女の子はベランダの柵から身を乗り出してぶんぶんと手を振った。
危ないよ、と言おうとした、瞬間だった。
女の子の身体が、ずるりと柵の外側へ―――落ちた。
突然のことに、俺は動けなかった。
大きな音がした。
***
不意に、この記憶を掘り起こしてしまう。
忘れたい、忘れたくない記憶。
大切だった、捨ててしまいたい記憶。
手を振っていた。
手を振り返した。
落ちた。
そして―――赤い、赤い血が、黒いアスファルトにじわりと広がった。
俺はこの記憶を、どうしてやればいいのだろうか。
これは後悔の塊だ。けれど、これを捨ててしまえば――俺は、「お兄ちゃん」ではなくなる。
あの子が生きているのかどうかも俺は知らない。あの後、俺はあの子の父親によって家に帰された。「大丈夫だから」と言葉を残した彼は、あれ以来俺の目の前に姿を現していない。きっと、あいつは―――あの子は、もう……。
あの子の落ちる姿が、落ちたときの音が、頭から離れない。もう何年も前のことだというのに、他人の死に直面したということが、俺のトラウマになっていた。南野の落ちる姿が、音が、それを抉るようだった。
大切だった。間違いなく。ほんの数時間行動を共にしただけの、名前も知らない女の子だったのに。それでもあの子は、俺のことを「お兄ちゃん」と言ってくれた。妹ができたみたいで嬉しくて、けれど助けてやれなかったことに、自分を責め続けた。
つう、と涙が頬を伝った。
こんな兄貴でごめん。心の中で呟く。
俺がもしあの時動いていれば。下敷きにでもなっていれば、もしかしたらあの子は生きていられたかもしれない。そう思えて、仕方ないんだ。
もしあの子が生きていて、こんな姿の俺を見たら、なんて言うだろうか。
俺には、わからない。
ただ、あの子の笑顔が、寝顔が、浮かんでくるだけだった。
真夜中の、真っ暗な部屋の中。俺は独り、肩を震わせているだけ。
情けない兄貴だよ、本当に……。
コンコン、とノックが聞こえた。反射的に俺は涙を拭い、平静を装って返事をする。
「柳さん」
フーカだ。
「入っていいですか?」
立ち上がってドアの横にある電気のスイッチを入れてから、ドアを開けた。昨日と色違いのパジャマを着たフーカが、俺を見上げる。
「……泣いて、たんですか?」
すぐに俺の目を見て気づいたようだ。
「気にするな」
「……私の部屋、来てください」
心配そうに俺を見つめて言う。気にするなって言ってるのに……。
「……さあ」
そっと手を握られ、部屋の外へ連れ出される。本当に情けないことに、辛いのは確かだった。抗う気になれなかった。
二日連続でフーカの部屋で二人きりというのは、クラスの連中に知られたら色々言われるんだろうなぁ、とぼんやり考えながら部屋に入る。こんな真夜中なら尚更だわ…。
昨日と同じように、フーカと二人、ベッドに腰掛けた。
「話せないことは、話さなくていいです」
手を握ったまま、フーカは俺の顔をまっすぐ見て言う。
「泣きたいときは、泣けばいいです。助けてほしい時には、助けてって言えばいいんです」
優しいフーカの言葉に、涙があふれる。自分の情けなさが痛くて、さらに涙があふれる。
「私じゃなくても、椛さんとか、お母さんとか、誰かにそれを言えるようになってください。お願いです、柳さん」
顔を見られたくなくて、俯いて、それが情けなくて、涙が止まらなくて。
とうとう嗚咽を漏らして泣いてしまう自分が、腹立たしくさえあった。
「……ごめん」
必死に言葉を捻り出す。
「何で謝るんですか」
優しい口調でフーカが言う。情けなくてごめん。そう言いたかったのに、言えなかった。
ぎゅ、とフーカが抱きしめてくれた。理由も聞かずに、ただこうして受け止めてくれる。それがどれだけありがたくて、酷なことか。
強くフーカを抱き返し、俺はただ涙を流すだけだった。
「少しは楽になりましたか?」
十分くらい、ずっと泣いてしまっていた。落ち着いてきた頃、フーカが俺の頭を撫でながら聞く。
「……今喋ったらまた泣き出しそう」
本音です。もうちょっと待ってくれよ。
「まだ泣いててもいいですよ。柳さんが楽になれるなら、いつまでもお付き合いします」
……ばか、だから泣かせるなっての。
大きくゆっくり呼吸をする。
「……あーあ。泣いてるところなんて椛にさえ何年も見せてないのになぁ」
はは、と無理に笑う。フーカも笑いを返してくれた。きっと無理に返してくれたんだろう。
「……ごめんな」
「だから、謝らなくていいですってば」
でも、謝らなければ気が済まなかった。自分だけ気が済んでしまえばいいと思っている自分に、また嫌気がする。
「自分を責めることないです」
心を見透かしたようなフーカの台詞が、俺の心に突き刺さる。
「柳さん、優しすぎるんですよ。だから自分ばっかり辛くなる。少しは楽してください、ね?」
フーカの言葉はひたすら優しい。俺には、とてつもなく残酷な言葉だった。
「……いまさら、自分のことを好きにはなれんよ」
呟くように、言ってしまった。
「じゃあ柳さんのことが大好きな私を好いてください。それでオッケーですから」
「……努力するよ」
「努力するって何ですかっ。本気で言ってるのにっ」
ぺちぺちと頭を叩かれる。悪い、本気にしてなかったわ。
「フーカ」
「はい?」
「……サンキュな」
ぎゅ、と抱きしめる。嬉しそうな「はい」という返事を聞いてから、フーカを放した。
「さてと、フーカ、話があって呼んだんじゃないか?」
「いえ、なんとなく柳さんの部屋に行こうと思ったら、泣いてるような声が聞こえた気がしたので」
……声を出して泣いてた覚えは無いんだが。
「お前はジーニアスっていうよりはエスパーだな」
「鞄の中から出てくるような」
「それはエスパーじゃない」
言って、お互い笑う。泣いたおかげか、ずいぶん楽になった。
「フーカ」
ぽん、と頭に手を乗せる。
「チョコ、美味かったよ。ありがとな」
俺の言葉に、フーカが嬉しそうに笑んだ。
「ホワイトデーは三倍返しですからね?」
「残念ながら金融業者じゃなくても年利百九パーセント以上の利子は無効になるんだ。一ヶ月で二百パーセントの利子は違法だぜ?」
笑いあって、すっかりいつもの調子に戻った自分に、少し安心した。
「ま、期待してますからね、ホワイトデー」
世話になっちゃったし、まぁ、頑張るよ。
「じゃぁ俺は部屋に戻って寝るよ」
「はい。あ、柳さん」
「何?」
「一緒に寝たい時は言ってくださいね。いつでも大歓迎ですから」
んなことしたら椛に殺されるわ、バカ。
「じゃぁ椛さんも一緒に」
クラスの連中に殺されるっつの。
立ち上がって、フーカに向き合う。
「じゃ、おやすみ。ありがとな」
「はい、おやすみなさい」
昨日同様、軽くハグをしてから自室に向かう。ずいぶんと、フーカに対する感情が変わっている自分がいるのを感じながら。
***
心配そうな瞳が、床に座って泣いていた俺の顔を覗き込んだ。
「いつまで泣いてるの」
椛の言葉が、痛かった。
椛には事情を話していない。話したってどうしようもないと思っていた。
「……柳」
俺の名前を呼んで、隣にぴったりくっついて座る。
「……………」
それから椛は口を開かない。ただ、そこにいるだけだった。そこにいてくれた。
俺は、後悔と、悲しさと、怒りと、よくわからない感情が混ざったどろどろした何かが、ずっと胸のあたりで暴れているようで、苦しくて、悲しくて、泣いていた。そんな俺の横に、椛はいてくれた。
ありがたくて、残酷だった。
自分を責めてしまう、責めずにはいられない状況で、そんな自分に優しくしてくれる存在は、これ以上ないくらい残酷だった。
理解できない感情が、俺の中で暴れていた。
泣くことをやめたら、俺には何ができるんだろうか。それが不安で、仕方が無かった。
妹も助けてやれなかったというのに。
***
目を開くと、見慣れた天井が見えた。
抗い難い眠気を蹴っ飛ばし、上体を起こす。もうすっかり外は明るい。天気は良いようだ。
しばらくぼーっとカーテンを眺める。
「柳さん、起きましたか?」
コンコン、というノックの後に、フーカの声が聞こえた。
「起きた。入っていいぞ」
返事を返すと、ドアを開けてエプロンを着けた私服姿のフーカが笑顔で入ってきた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「おかげさまでな。……あれ、なんでエプロンなんか着けてるんだ?」
よく見ると右手にフライ返しを持っている。何か作っていたのだろうか。
「今日はお母さんが用事で早く家を出るとかで、朝食を任されたんですよ。柳さん、なかなか起きてこないので起こしに来ようと」
なるほど。それでか。
「……あれ。なかなか起きてこないって、今何時だ?」
枕元にある携帯を開いてみる。……え。
「十時半…!?」
デジタル表示なんだから見間違うはずもなく、十時三十分という表示が出ていた。
「フーカ、学校!」
慌ててベッドから飛び出る。
「あはは、もう遅いですよ。欠席連絡入れちゃいました」
「……は? マジで?」
「マジです」
「お前も?」
「はいっ」
笑顔で返される。寝坊したのは悪いけど、フーカまで欠席するこたぁねーだろ…。
「いいんです。ちょうどいいですし」
ちょうどいい?
「まぁ、とにかく朝ご飯にしましょう。冷めちゃいますし。待ってますからね」
フーカは笑顔のまま部屋をあとにする。ちょうどいいって何がだろうか。とにかく、折角作ってくれたんだから早いとこいただくとしよう。
朝食は白米、焼き鮭、味噌汁、納豆、ほうれん草の胡麻和えというなんともパーフェクトな和食だった。フーカはほんとにアメリカ育ちなんだろうか。結構疑問である。
「そういえば椛は?」
食べ終わって食器を片しながら尋ねる。
「椛さんは学校行きましたよ。椛さんも休みたがってましたけど、私が少し柳さんとお話したいから、ってお願いしたんです」
俺を起こすという選択肢は無かったのか。
きゅ、と蛇口を捻りお湯を止める。タオルで手を拭いてから、フーカと正対するように椅子に座った。
「それで、ちょうどいいってのは話をするのにちょうどいいってことか?」
「はい、そうです」
温かいお茶を一口飲んで、フーカは話を切り出した。
「約束をしてほしいんです」
約束?
「昨日、私が柳さんにしたこと――――それと同じことを、私にしてほしいんです」
昨日、っていうと、夜のことだろうか。
「具体的には?」
「言葉にするとちょっと恥ずかしいんですが……」
フーカはちょっとだけ頬を赤く染めながら言う。
「私の支えになってほしいんです。私が柳さんの支えになれたかどうかはわかんないですけど」
「……ごめん、よくわからない」
いきなりそんなこと言われたってなぁ。
「…ですよね、ごめんなさい。もっと簡単に言いますね。私は近いうちに、柳さんに……言葉にしづらいんですが、縋りついてしまうと思います。その時、どうか、拒まないでほしいんです」
……全然簡単になってない。
「要は、お前を受け入れればいいんだな?」
「はい、そういうことです」
受け入れてくれ、って急に言われても、なぁ……。その時によるだろ、普通。
「……わかった」
けれど、フーカには昨晩の恩がある。疑念もまだあるのだが、それでも助けを求められた時はできるだけ応えよう。
「ありがとうございますっ」
フーカはほっとしたような笑顔を見せる。
「約束ですよっ!」
なんでこんな約束をさせるのかはわからない。でも、フーカの笑顔を見ると、嬉しくなる自分がいるのだ。まるで、あの子の時のように。
「……条件、一つだけ付けていいか?」
昨日のフーカの言葉を思い出す。助けてほしいと言えるようになってと。
「条件、ですか?」
「俺の話、聞いてくれるか? 俺の、昔の話だ」
なんでだろうか。わからない。なんで椛じゃなくて、フーカなんだろうか。わからない。わからないけれど、俺は初めて、あの子のことを誰かに話す気になった。
***
あの子のこと、事故のこと、後悔のこと。全部、話した。フーカは終始真剣な面持ちで聞いてくれた。
「……それが、昨日泣いてた理由だ。情けないこった」
「そんなこと、ないです」
俺の言葉を、フーカがすぐに否定した。
「柳さんは何も悪くない。ただ不幸な事が起こってしまっただけです。誰が悪いわけじゃない」
そう言ってくれるのは嬉しいけれど、だからといって後悔が消えるわけじゃない。
「柳さん、ありがとうございます」
「なんで礼なんて言われるんだ?」
「話してくれて、ありがとうございます」
フーカの言葉に、自然と笑みがこぼれる。こっちこそ、話す気にさせてくれて、受け入れてくれてありがとう、なんだけどな。話してよかったと思える自分に、少し驚いた。
「……ありがとうございます」
三度礼を言うフーカの頭を、優しく撫でた。
「ただいまー」
元気な声がした。
「おかえりなさーい!」
フーカの元気な声が返る。
「お前の家は隣だぞー」
俺も声を返しておいた。椛が学校から帰ってきたのだ。
「やぁお寝坊さん。よく眠ってたねぇ」
居間に入ってきた椛は荷物を下ろし、コタツに入る。
「たまにはゆっくりするのもいいもんだな」
「ずるいなぁ」
まぁ、良いことじゃないからな。ずるいのは確かだ。
「お茶淹れてきますね」
「ありがとー!」
立ち上がるフーカに椛が笑顔で礼を言う。
「学校、退屈だった」
フーカが居間から出て行ったあと、ぷぅ、と頬を膨らませて怒ったような表情をした。
「柳が居てくれないとつまんない」
「はいはい。もう無いようにするよ」
いつも俺が休むと一緒に休むだろ、お前は。今日はフーカが頼んだだけで。別にいいじゃないか、と思って適当に返事をする。
「……フーカちゃんとどんな話したの?」
…どうやら気になっていたようだ。
「俺やお前の昔の話とか」
嘘は言ってない。うん。一応俺の過去の話だけど椛も若干絡んでくるからな。
「…ふ~ん……」
疑うような目で見ても、こっちは嘘はついてないぞ。本当に。
「ま、いいけどね」
……疑ってるなぁ。別にいいけど。
「お待たせしましたー」
フーカが湯飲みを手に居間に戻ってくる。椛に湯飲みを渡してからフーカもコタツに入った。
「さてと。椛さんも帰ってきたことですし、報告してもらってもいいですか?」
「報告って……あ、そうだね。うん。りょーかい!」
一瞬何のことかわかんなかったって顔したぞ、おい。大丈夫か。
「何人かにメールで聞いてみたけど、確かに白江と佐藤によるイジメはあったみたい。よく目撃されてたみたいだから、まずそこは確定」
メモにまとめておいたらしく、椛は紙を見ながら報告を始めた。
「それから、直接的じゃないイジメもあったみたい」
直接的じゃないイジメ……っていうと。
「手紙とか?」
「そう。面白がってやってる人、何人かいたって。それも一つの収穫」
そうか、白江と佐藤によるイジメだけじゃなかったのか。その可能性を忘れてた。
「……となると、より一層難しくなるなぁ…」
それをやった人全員の立証はなかなか難しいだろう。
「そっちはその手紙とかが残っていれば先生たちに注意を促させることはできるでしょう。南野くんがどう思ったかですが、直接の原因でないのならひとまず置いておいていいと思います。一応話は聞いておくべきでしょうから、どうするかは面会してからですね」
フーカが言う。まぁ、細かいことだし本人がなんとも思ってなければスルーでいいか。
「あと、今日の白江と佐藤だけど、普通に学校に来て普段通りの生活してるってさ。反省してる様子はないみたいで、南野くんのことを笑い話にしてるの聞いた子がいたよ」
「反省しててくれりゃぁこっちも楽だったってのにな……」
どういう育て方をされたんだか、あいつらは……。まぁ、元から大して期待はしてないけどな。
「これはまた、骨が折れそうですねぇ……」
「言い出したのはお前だろう。最初からわかってたろ?」
「まぁ、そうですけどね」
はぁ、とフーカは嘆息した。
「報告続けるね。今日授業のあとに全校集会があって、校長先生とかが話したのは、学校としてはイジメの存在を否認する内容だったよ。遺書の内容とか、細かいことは触れてなかった。今日の新聞見た? 記事載ってたけど、そっちも学校側はイジメを否認って書いてあった」
「……そういう大人にはなりたくないもんだな」
「否認するということは、先生達は私達の敵、ということになりますね」
そうだな、うちらはイジメを立証するために行動してるんだし、それが知られると圧力をかけてくるだろう。
「そうなったらどうする?」
「ねじ伏せましょう」
にーっこり、笑顔で答えられた。……おぉ、怖い怖い。
「あたしが集めてきた情報はそんなところかな」
椛はメモを畳んでフーカに渡した。とりあえず今は南野の面会待ちだし、情報を集めておくくらいしかできない。椛が集めてくれた情報は今後の方針決めに役立ってくれた。
「ありがとうございます、椛さん」
「どういたしまして」
笑い合う二人。うん、平和な光景だ。やってることも平和だとよかったんだがな。
「あ、あと南野くんの面会、明日から大丈夫って。K病院の三階最奥の個室だってさ。先生に聞いてきた」
ふむ、じゃあ明日からは本格的に動けるわけだ。
「柳さん、結構ノリノリですよね」
「協力するって言ったからな。見返りも期待できるみたいだし?」
「身体で払えと? もぅ、えっちですね」
「お前の貧相な身体に何を期待しろと」
ぺちん。軽くはたかれた。地味に痛い。
「まだまだ発育途中なんですからね?」
「笑顔が怖いぞフーカ。冗談で言ってるんだからな?」
「わかってますよ?」
その笑顔は絶対わかってない。
その後、わいわい騒いでたのくらいしか覚えが無い。きっと他愛も無いやり取りをしていたのだろう。
コンコン、と二回のノックをすると、部屋の中から「はーい」という声が聞こえた。
部屋のドアが開かれ、中から出てきたフーカと目が合う。
「よぅ」
適当な挨拶をすると、フーカは少し嬉しそうに笑った。
「珍しいですね、柳さんが私の部屋に来るなんて」
「昨日も連れられて来たんだがな」
「自分から、って意味ですよ」
そういえばそうだな。連れられて来てばっかりだった。
「どうぞお入りください」
「さんきゅ」
部屋の中に入って、また二人、ベッドに腰掛ける。すっかり定位置になっていた。
「それで、何の用ですか?」
「なんとなく来ただけだったりするんだな、これが」
フーカはぽかんと俺を見つめる。
「なんか、フーカの隣にいると、楽しい? んだよ。椛と居るのとは違う感じがするんだ」
うまく言葉にできないが、そう思う。俺には、とても不思議な気持ちだ。
「だから、なんとなく来た。……ダメだった?」
「……嬉しい、です」
頬を赤らめてフーカが笑んだ。
「私も………柳さんの隣、楽しいです」
「そうか。ならよかった」
俺も自然と笑みを浮かべる。穏やかで、嬉しいような気持ち。よくわからないけれど、この気持ちになれるのが嬉しかった。
「……………」
「……………」
しばらくの静寂が訪れ、穏やかな時間が流れる。
「……柳さん」
フーカが口を開いた。
「椛さんのこと、どう思ってますか?」
「椛のこと? んー……どう、って言われると答えに困るんだが…」
少しの間考える。どうと聞かれると、十何年もずーっと俺にべったりな気がするし、それはそれで楽しいし嬉しいんだけどどこか鬱陶しく思うような部分もある…。
「まぁ、きょうだいみたいな感じかな。ずーっと一緒に育ってきたし、双子のきょうだいみたいなもんだと思ってるよ」
どっちが兄や姉とかじゃなくて、一緒に育ってきた。面倒見てるような気がするけれど、心配かけてることもあるだろう。そんな感じだと思う。
「…そうですか」
じーっと俺を見つめながらフーカが呟くように言った。
「……椛さんのこと、好き、ですか?」
「好きか嫌いかで言えば好きだけど、異性として好きかって言われたらそうでもないな。近すぎるんだと思うよ、距離がさ。それこそほんとにきょうだいみたいに一緒に風呂入ったりしたこともあるし、いまさら何ときめけばいいのかもわかんないわ」
はは、と笑う。今でもなおお互い着替えくらいは平気で同じ部屋にいてもするし、最悪今でも抵抗なく一緒に風呂入れるかもしれないくらいだ。そのくらい意識していない。
「ふーん……」
フーカはじーっと俺を見つめたまま。
「……そうですかー…」
……なにさ。なんなのさ、さっきから。
「じゃぁ、私のことはどう思います?」
「……本人に直接言えってか?」
こくりと頷く。いや、さすがに抵抗あるぞ。悪いこと言いたくないけど良いこと言うのも恥ずかしいんだが。
「……やだ。さすがに本人目の前にして言いたくない」
「えー。そこは言いましょうよー!」
「なんで言わなきゃならんのだ」
「修学旅行的なノリで!」
理由じゃないぞそれは。ノリを俺に求めるな。
「じゃぁフーカが俺に対してどう思ってるか言ったら言うよ」
「わっ……私からですか!?」
予想外の返しだったみたいで、フーカは困ったような顔をする。
「……ごめんなさい。無かったことにしてください」
フーカは顔を真っ赤にして俯いて言った。ニヤリ。よし、逃げられた。
フーカの頭を撫でる。面白いな、お前は。
穏やかな時間が過ぎ、しばらくしてから俺はフーカにいつも通りおやすみのハグをして自室に戻った。
「まずは元気そうでなにより、と言っておくべきかな」
K病院、三階最奥の病室。南野修が入院している病室に、俺と椛、そしてフーカは面会という名目の事情聴取にやって来た。
「怪我の具合はどうだ?」
ベッドに寝たままの状態の南野に話しかける。
「……一週間もすれば退院できる。」
小さな、呟くような声が返ってくる。返事はしてくれる。よし、これなら大丈夫そうだ。
「そうか、それはよかった……って言っていいのか?」
自殺未遂をした人間の回復を良かったと言うべきかどうかは迷うもんだな……まぁどうでもいいけど。
「南野くん、今日はお話があって来たんです」
フーカが話を切り出す。真剣な面持ちで、まっすぐに南野を見つめて。
「南野くんがなんで自殺なんてしようとしたのか、聞きたいんです。興味本位とかじゃなくて、南野くんが辛いの我慢して、限界になって飛び降りたのなら、その理由を知って、それを解決したいんです」
「……解決…?」
南野は小さく漏らし、少し考えるように目を閉じてから答えた。
「……わかった」
聞いた答えに、フーカは安堵したような表情を浮かべる。まぁ、南野から話を聞けなかったらどうしようもなくなるからなぁ。
「ありがとう、南野くん」
フーカは南野に微笑みかけた。
「……それ、こっちの台詞…」
南野の言葉に、そうですね、とフーカは笑う。南野も少しだけ笑ったように口元を歪めたような気がした。
フーカが持ってきた携帯レコーダーの録音ボタンを押したあと、南野が話し始める。これも証拠の一つになるからだ。
「……白江と佐藤、四組の二人が、僕をパシったり、殴ったり、金を取り上げたりしたんだ」
早速、南野の口から白江と佐藤の名前が出た。やってたことも証言された。
「死ねとか、キモいとか、消えろとか書かれた手紙も、下駄箱とか机によく入ってた。白江と佐藤じゃないだろうけど、誰かはわからない」
手紙のことも証言された。
「その手紙類は残してあるか?」
「ある。僕の部屋」
なら話は早い。フーカや椛の情報とも一致している。
「他には?」
「…されたことは、それくらい」
「そっか。話してくれてありがと、南野」
椛が礼を言う。
「となると、問題はどうやって白江と佐藤を改心させるかってことだけだな…」
ここまででは当初の目的が固まっただけで、たいした進歩というわけでは無い。一番の難問であることは変わりない。
「…証言だけじゃ、確かな証拠にはならないんだよね」
変わらず小さな声で南野は言う。フーカが肯定すると、南野はベッドの隣にある棚の上のほうを指差した。
「中に、僕のiPodがある」
iPod?
「取って」
南野の指示に従って棚を覗いてみると、青色の細長い形状のiPod nanoが置いてあった。これか。
iPodを手渡すと、南野はそれを操作し始める。
「それが何だってんだ?」
疑問符を浮かべる俺に、南野はiPodの画面を向けた。
「カメラ機能」
それだけ言って、再生ボタンを押す。と。
「………これ…」
画面に映ったのは、南野と白江だった。画面隅の方は黒いものが映っていて、丸い穴から覗いているような映像。
音声も聞こえてくる。会話の内容は、持ってる金を寄越せという至極シンプルなカツアゲだった。南野は渋ったのだろう、白江が右手を振り上げた次の瞬間、画面が大きく揺れる。殴られたのだろう。その後もしばらく白江と佐藤による暴行が映像に収まっていた。
「……隠し撮りとは、見かけによらずやるもんだな」
「…どうも」
これほどの証拠なら、簡単に立証ができる。こうも簡単に証拠が手に入るとは――――いや。
「……これがあれば、あいつらを―――あつらに、罰が下るか?」
南野の問いかけで、俺は確信を抱いた。
「あぁ、期待できるだけの証拠能力はあるよ。大丈夫だ」
レコーダーもまわっていることだし、ひとまず問いに答える。問いただすのは後からだ。せっかくの証拠に今の発言以上に不利なものを残したくはない。
「…じゃぁこれ、預けるから……」
南野はそう言ってiPodの映像を止めてからフーカに渡した。
「ありがとう、南野くん」
受け取って、鞄の中にしまう。
「手紙の方は、親に頼んでこっちに持ってきてもらうから、今度また取りにきてくれればいい」
「わかった」
やりとりを交わし、レコーダーの録音を停止する。大収穫だ。一番の課題だった大きな力を持った証拠が手に入った。
「それじゃ、またな。怪我、早く治せよ」
「……ありがとう」
南野のお礼の言葉を、初めて聞いた気がした。
「そういうことか」
「そういうことでしたか」
病室を出てから、すぐに俺とフーカが同時に口を開いた。顔を見合わせて、お互い嘆息する。
「? どうしたの、二人とも?」
椛だけが疑問符を浮かべている。
「南野が死なないような飛び降り方をした理由だよ」
そう言ってからエレベーターに向かって歩きだす。
「証拠の残し方、見ただろ。あまりに準備がよすぎる。手紙、映像、あんなもん残してるのに自殺未遂なんておかしいと思わないか?」
「そういえば、変だね。死にたくなるほど思いつめる前に、証拠を学校か警察にでも見せるよね」
「つまり、南野くんは死ぬ気なんて最初から無かったってことだろうね」
フーカが言う。そういうことだろうな、恐らくは。
「でもなんで死ぬ気がないなら飛び降りたの?」
いい加減わかれ、椛。アホもいいところだ。
「簡単なこった。自殺未遂っていう行為そのものが証拠になるから。これは南野の―――復讐なんだろうさ、白江と佐藤へのな」
フーカがこくりとうなずいた。同じ推理だったようだ。
ボタンを押すとエレベーターのドアが開き、俺たちは中に乗り込んで一階のボタンを押した。
「予め立証できるような証拠を残しておく。そして自殺未遂をすることで、そのイジメの深刻さをアピールする。その上で証拠を提示すれば、加害者は逃げることが困難になる。ましてあんだけハッキリ映った映像だ。あの二人には逃げ道が無いだろうさ」
「学校ではなく警察に提示すれば、調査は入るでしょう。それでイジメが明らかになれば二人は将来に大きなリスクを背負うことになります。それが、南野くんの復讐」
自殺未遂をさせるほど深刻なイジメをしていた、というのなら、将来に与える影響は大きいだろう。
一階に着き、エレベーターのドアが開く。
「いいように利用されてるな、俺たちは」
「でも、するって約束しちゃったんですから、やらないといけませんね」
フーカと俺が同時に嘆息した。病院を出て大きく伸びをする。空気がいいとはお世辞にも言えない施設だから、少し変に疲れた気がする。
「あ。ねぇ、二人の将来に影響を及ぼすようにするってさ、先生たちがイジメを否認してるんじゃ難しいんじゃない?」
椛がふと気づいた。確かに、将来に影響を残すというのは警察沙汰でも起こして前科が付くか、学校が管理する書類に不利になるような内容を書かせるかということになる。学校がイジメを否認している現状ではなかなか難しいだろう。
「だから、言ったじゃないですかぁ」
フーカは笑顔で。
「ねじ伏せましょう、って」
語尾にハートマークが付くような感じで言った。
「……フーカ、恐ろしい子…!」
椛が呟く。……まぁ、実際ねじ伏せるしかないわけだが。
「なぁ、フーカ。お前が知りたがってた事件の裏側ってこんなもんだったけど、いいのか?」
「ええ、まぁ」
俺の問いに、フーカが苦笑いを浮かべる。
「現実なんて、そんなもんなんじゃないですか」
……まぁ、それはそうだろうけどさ。
「でさ、結局これからどうするの?」
「そうですねぇ…」
椛の問いにフーカは少しの間考えて答えた。
「……まぁ、普通に考えたら警察にこれらを持ち込むのが一番でしょうね」
「あれ? なんで南野君、警察に直接出さなかったんだろう?」
そういえばそうだ。なぜだろうか。……しばらく考えても、思い浮かばない。その点は不可解だ。
「まぁ十中八九学校側からの口止めでしょう」
フーカが言うが、俺はそうは思えない。学校が証拠の存在を知った上で口止めしたのであれば、証拠は南野の手元に置いておくなんていうことはないはずだ。脅迫じみたことをされたか、あるいはまた別の理由があってか……?
「……ん? っていうかフーカ。イジメ問題なんて警察に任せたって有耶無耶にされるだけー、とか言ってなかったか?」
「言いましたけど、これだけの証拠が揃ってれば学校側だって言い逃れはできないでしょうからね。確たる証拠、ですよ。これは」
まぁ、そうか。なら警察に任せても解決になるか。むしろその方がいいだろう。
「ほんとは地道な聞き込みからこんなことあった、あんなことあったー、って情報を得ていくことになると思ってわくわくしてたんですけどねぇ……こうもあっさりだと、なんとも拍子抜けな感じで―――」
突然、並んで歩いていたはずのフーカが視界から消えた。
消えてから、気づく。フーカの顔に、誰かの手が―――
勢いよく振り向くと、そこに二人の男が居た。
「よォ」
男の片方が不敵な笑みを浮かべながら言う。男の左手はフーカの口元を押さえ、右手には果物ナイフが握られていた。
見たことのある顔だった。―――白江真。隣に立つのは、佐藤英樹。
「フーカちゃ…」
椛が叫ぼうとしたのを制止する。椛はここから動かないほうがいい。
「……随分乱暴な挨拶だな?」
動揺を押し殺し、あくまで平静を装って言う。なんでこの二人がここに? それよりも、フーカが危ない。下手なことをすれば、殺されはしないにしろ大怪我を負わされる可能性も否定できない。
――もう、あんな思いはしたくない。自分の無力さを叩きつけられるような思いは。
「なぁに、お前らが大人しくするって約束すりゃ離してやるよ」
白江はにやりと笑って言う。フーカは抵抗すれば危険なのを理解しているのだろう、ただずっと、助けを求めるような眼差しを俺に向けている。
……大人しくする? ……こいつら。
「なんのことだ?」
「しらばっくれるな」
佐藤が怒った様子で言う。
「南野に聞いたんだろ? 俺等の話を。お前らは俺等にやってきたこと認めさせようとしてるんだろ? それをやめろっつってんだよ」
―――こいつら、どこからそれを仕入れやがった。フーカがどういう経緯で白江と佐藤の情報を仕入れてきたのかは知らないが、椛は噂話から情報を得ていたようだし、俺も目立つようなことはしてなかったはずだ。面識のないこいつらが俺たちが嗅ぎ回っていることに気付くことは無いと思っていたのに。
「オイ、聞いてんのか?」
白江の声にハッとする。今はそんなことを考えている場合じゃない。この状況をどうするかを考えなければ。
「で、どうなんだ? 大人しくするか? あ?」
フーカの首にナイフが突きつけられる。
正直なところ、俺自身は引き下がることに躊躇いはない。事件の裏も判明したし、南野の復讐に手を貸してやる義務なんて無い。だから。
「…わかった。手を引く」
だから、すんなり受け入れた。
「そいつを離――」
言いかけた、瞬間。
「――――ッ!?」
ゴッ、という鈍い音と同時に、白江の顔が勢いよく上を向いた。その場にいた全員が、唖然とした。
フーカが、頭突きを食らわせたのだ。
「ってぇ…!」
隙をついてフーカが白江の腕を振りほどく。咄嗟に俺も前に駆け出し、白江の右腕を掴む。
「こんのッ…」
白江は当然抵抗する。ナイフの動きだけは押さえないと、本当に危ない。自分はいい、フーカと椛に怪我をさせるわけにはいかない。また――――あのときのような思いはしたくない。
ゴッ、と頭に強い衝撃を受ける。佐藤が殴ったのだろう、痛みに顔をしかめながらも、白江の腕は離さない。
すぐに、後ろからドッという音が聞こえた。
瞬間。黒い何かが、一瞬だけ、雷のように一瞬だけ通り過ぎ、白江の手を跳ね上げた。
白江の手から離れたナイフが、宙を舞う。
横を見ると、フーカの背中が見えた。そして素早く身体を捻り、フーカが白江の顔面に後ろ回し蹴りを食らわせる。白江は後ろによろめき倒れる。
「りゅっ、柳ッ!」
声に反応して後ろを振り返る。椛が佐藤にしがみ付いて必死に抑えていた。さっきの音は椛がタックルでもしたのだろう。
俺がすぐに拳を振り上げ―――るより先に、自分の傍らを高速で、黒い頭が通り過ぎた。
フーカが、飛び上がりながら体を捻り、強烈な蹴りを佐藤の顔に叩き込んだ。
「…………」
俺は唖然とする。しかしすぐにハッと気づく。ナイフ、拾わないと。あれをどうにかしないと。
振り返ると顔を押さえて倒れこんでいる白江からすこし離れた場所にナイフは落ちていた。駆け寄り、拾い上げる。
「逃げるよ、柳!」
椛の声が聞こえる。武器は押さえたとはいえ確かにここにいる限り面倒なことにしかならない。走ってその場を離れた。
後ろの塀の陰に人影があったことにすら、気付かずに。




