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6.

6.


 五十人は座れる広い食堂では、人の姿はまばらだった。昼時の食事にはいささか遅すぎたが、それでもまだ日は高い。

「……っ、ぷはぁ!美味い!」

 エリオットがぶどう酒を飲み干し、ジョッキを机に置いた。陶器の白いジョッキの中で、ほんの少しだけ残ったぶどう酒の滴が大きく跳ねる。その男らしい呑みっぷりに、隣に座ったマークが苦笑した。

「よく、呑むな」

「だって疲れたし。そっちだって、よくカルヴァドスなんて呑めるね」

 マークが手にした小さなグラスでは、蒸留されたりんご酒が控えめに水面を揺らしていた。少ない量で酔いの回るその強い酒は、色々な酒の揃えられた兵舎の食堂の中では一際人気がない。しかし、酔いが回ると眠くなる性質のマークにとっては、熟睡するのに重宝している、なじみの深い酒だった。

「これは、これで、美味い」

「んー、分かるけどさー。やっぱり私はぶどう酒だな」

「下戸の私には分からんな」

 薄いりんご酒をちびちび飲んでいたジョーイが、マークの隣で二人に眉をひそめた。アルコール濃度の低い薄いりんご酒くらいしか、ここで彼が呑めるものはない。多くの騎士や兵士の嗜好を反映したその食堂には、ミルクやジュースの類はほとんど置かれていないからだ。

向かいに座る彼等の三者三様な様子を見ながら、ケインがははっ、と笑みをこぼした。

「まあ、何を呑もうが自由です。それにしても、本当に久しぶりですね」

 彼はビールを片手に、隣に座る団長に頭を下げた。エリオット達も揃って会釈し、団長はそれに相好を崩した。

「ああ、本当になぁ。お前等が城勤めどころか、こんな場所の警備からも外されるなんて思わなかったよ」

「それを言うなら私もですよ。なんであなたが、こんな僻地に飛ばされたんですか?」

 ケインの質問は、エリオット達全員の疑問だった。

 シモンズ団長とエリオット達の付き合いは、国中で戦が起こると危惧されていた頃から始まる。兵役に志願した平民のエリオット達四人を鍛えたのは、他ならぬシモンズ団長だ。当時すでに騎士であり兵士達の指導にあたっていた彼の元で四人は研鑽を重ね、そのおかげで騎士の位を実力で得たのである。シモンズの指導は非常に厳しいものだったが、彼の元でなければ名門の出でもない四人が四人が騎士になる事はなかっただろう。

 ケインの問いに、シモンズは力なく笑った。

「つまらん理由さ。余所者共の教育をしろっつー、上からのお達しだ」

 余所者、と聞いてケインがすぐにその意味に気付き、目を細めた。

「そういえば、ここでは僕等の事を有閑呼ばわりする兵士が目につきました。見覚えのない顔が多かったですが……」

「え、それって……」

 エリオットが問いただすより前に、シモンズが頷いた。

「そうだ。ジルトールから兵士を何人か迎えて、兵役訓練をやっている。向こうにもうちの兵士を送っているから、つまり交換兵役だな。二国間の親睦を深めるためだそうだが、果たしてどこまで本当だかな」

 捨て鉢に言って、シモンズが自分のビールをあおった。

 ジルトールというのは、戦の相手になり得た隣国の名だ。名前を聞いただけでエリオット達は自分達のうかがい知れぬシモンズの気苦労を察し、沈んだ気持ちになった。

「おいおい、そんな顔をするな。今は今でそれなりに張り合いはあるんだぞ。……まあ、お前のうち誰か一人でもいれば、とは思うけどな」

 シモンズは笑みを作り、四人を見回した。

「ジョーイ、お前は剣が本当に強かったよな。今はどうか知らんが、俺よりも腕は上だった。正直、悔しかったんだぞ」

 部下に、というよりは悪友に言うような口ぶりでシモンズがジョーイに言う。ジョーイは結んでいた口元をゆるめ照れくさそうに俯いた。

「ケインは剣はいまいちだが、とにかく器用だったな。おつむの出来がいいからか、俺の知らない新型の武器や骨とう品みたいな代物も、ちょちょいと使ってみせていたな。お前、実は魔女じゃないのか?」

「僕は男です」

「分かってるよンな事。ホント、お堅いのは変わらんなぁ」

 シモンズはビールをあおった。思い出話を続けようと、今度はマークを見る。

「……で、マークだ。お前は力が強かった、本当に強かった。一度お前がキレたのを見た時は、俺も怖かった。まさかお前、家でもあんな調子で女房泣かせてるのか?」

 シモンズの問いかけに対し、マークは口を堅く結んで首を横に振った。

「そうか、ならいい。で、えーと……」

 エリオットを見て、シモンズは言葉を濁した。エリオットは彼の言いたい事をすぐに察する。

「エリオットです」

「そうだそうだ、エリオットだ。すまん。お前は、そうだな……、扱いにくかった」

「団長」

 ジョーイの咎めるような言葉に、シモンズがうんざりした口調でそれを遮った。

「分かっとる。怖いもの知らずで、何にでも首を突っ込みたがる性分を言ってるんだ。全く、お前はこいつの事になるといつも噛みつくな。すっかり忘れていたぞ」

 気まずさをごまかそうとシモンズは再びジョッキを傾け、そこでジョッキが空なのに気付いた。

「ありゃ、もう無いのか。すまんが、もう一杯注いでくる」

 飯時に酒場を回す女給も今の時間は城のあちこちで雑事に追われている。シモンズはグラスを持って席を立った。そのまま厨房へ行こうとするのを、エリオットが慌てて止める。

「あっとと、待ってください」

「何だ、お前もおかわりか?」

「違いますよ、聞かせてほしい事があるんです」

 空のジョッキを握ったまま、エリオットは手でシモンズに着席を促した。シモンズが首を捻りながら自分の椅子に腰かける。

「一体何だ?」

「文官のセラさんをご存じですか?」

 ケインに問いかけられ、シモンズは顎に手を当てた。

「セラぁ?えーっと……、ああいるな、さっき帰ってきたって聞いたな」

「私達が保護しました」

 誇らしげにジョーイが胸を張る。

「あー、それでお前等来てたのか」

 シモンズが納得するのを見て、ケインがさらに質問を重ねた。

「ええ。ですが、私達は彼女について何も知りません。それどころか、彼女を狙う怪物まで現れています」

「怪物?」

 シモンズが怪訝な声を上げた。話を聞く気になった彼に、ケインが続ける。

「ええ、犬と蜘蛛との合いの子みたいな怪物です。大きさも牛のようでした。そんなものが三匹もいたんです」

 シモンズの表情が徐々に固くなる。その目は世迷言を相手にするような冷ややかなものではなかった。

「……何でそんなモンが?」

 嘘だ、と言われなかった事にジョーイが勢いづき、口を挟んだ。

「分かりません。ですが、どうも魔女が呼び出したもののようです。現に、私達は魔女と会い、共に行動しました」

「!お前等……」

 シモンズが何かを言いかける。彼の驚きは最もだった。

 魔女というのは、ほとんどの場合簡単に人前に姿を現さない。魔女は人間ではない上、殆どの場合王族や貴族の保護下に置かれているからだ。彼等が魔女の使う魔法に目をつけ、食客として囲うのは珍しい事ではない。それだけ魔法というのは彼等にとって魅力的なのである。逆に言えば、魔女が動くというのは、何者かが陰謀を企てている事の表れとも言える。

 シモンズはすぐに言いかけた言葉を呑み込み、黙り込んだ。続く言葉を待つ四人に、やがてシモンズは重い口を開く。

「……その事、他の誰かに言ったか?」

 四人は揃って首を横に振った。

「あんなのがいたなんて迂闊に言ったら、騒ぎになりますよ」

 エリオットの発言に他の三人が頷く。四人とも蜘蛛の事は、自分達の伴侶には元より、事の発端とも言える牧場主の夫人にも話していなかった。すでに仕留めたとはいえ、正体の分からないものについて吹聴して回るのは、騎士でも兵士でもない人々に不安を与える事になるからだ。

「そうか。大方ケインが言い出したんだろう、いい判断だ」

 シモンズは再びジョッキを持ち上げようとして、空なのを思い出してすぐにそれを置いた。

「……あまり、大きな声では言えない話がある」

 そう言ってシモンズは周りを見回した。すでに食堂に人けはないが、それでもシモンズの目には強い警戒心が宿っている。四人も、彼に倣って息を殺し、周囲を警戒した。自分達の話に聞き耳を立てる何者かが壁の向こうにいるかもしれないと、揃って耳を澄ませる。

「……よし、誰も、いない」

 レンジャーの経験があるマークが確信に満ちた声で断言した。四人とシモンズがそれに安堵し、緊張を解く。

「そうだ、マークはこういう時に頼れるんだったな」

 今さらのようにシモンズがマークに感心する。マークは照れくさいのか、視線を落として軽く頭を下げた。

「ともあれ、これで心配はないな。話というのはな、お前達に頼みたい事があるんだ」

 シモンズが机の上に身を乗り出し、四人に顔を寄せる。四人も顔を近づけて耳を傾けた。

「……この国とジルトールで和平が結ばれた。なぜか分かるか?」

「なぜって……?」

 エリオットが他の三人を見る。ジョーイ達も、同じように怪訝な顔になって揃って首を捻った。ケインが少し考えた後、探るように尋ねる。

「和平交渉が、うまくいったからですか?」

「そんな事は皆知っている。ならば、和平を申し出たのがジルトールだというのは?」

 その発言にケインはおろか、エリオット達も耳を疑った。

「初耳です」

「だろうな。ならばケイン、これを知ってどう思う?」

「胡散臭いと思います」

 にべもないケインの返答に、エリオット等三人が耳を疑う。しかしいずれも、徐々にケインと同じ表情になってシモンズに目を向けた。

 ジルトールはシモンズやエリオット達の国、ナバンとは陸続きになっているので、ジルトールについて調べるのは容易だ。ジルトールとナバンには、人口はおろか国土の面積にも大した違いはない。

 ただし、ジルトールには鉄の採掘できる鉱山が数多くある。その為鉄の精製技術が発達しており、他国よりも質のいい武器を数多く生産・所有しているのである。ナバンには鉄の採れる鉱山は一つきりで、同じ数だけ武器を揃えたとしても、その質はジルトールのものよりも劣る。

 ナバンが戦に備えて兵を鍛え騎士の称号を与えたのも、武器の差から想定される戦力差を埋めるためだった。精神論もいい所だが、兵士達に向上心と団結力とを与える事には成功していたといえた。同じ兵力でも、より統率力の高い側が勝つのは歴史が証明している。しかし、ジルトールも同じく兵を鍛えているのである。重い鉄の武器を扱う以上、訓練で求められる練度はナバンよりも高い。

 軍事力で言えば、ジルトールはナバンを上回っているのだ。

 これはかつて戦を控え、剣を握り締めていた者ならばナバンの誰もが知っていた事だ。

にも関わらず、ジルトールはナバンに対して和平を申し出ているという。戦で勝てる相手に、だ。

 シモンズが彼等に対し、満足そうに頷く。

「俺もそう思う。見解が一致したな」

 そう言って、彼は笑った。

「だからこそ、だ。この不自然な和平には、何か狙いがあるはずだ。俺はナバンの騎士として、奴等の尻尾を掴みたい。協力してくれるか?」

 尋ねるシモンズの顔には、断る、とは言わせまいという押し殺したものが浮かんでいた。

 しかし、四人の腹はすでに決まっていた。

「もちろんです。やっと騎士らしい事ができますね!」

 エリオットが弾んだ声を上げた。その様子に、ジョーイが満足げに頷いて同意する。

「ああ。ナバンの平和を守るとは、実に俺向きだ!洗濯などより意義深い!」

 勇ましさを見せる彼に、ケインが眼鏡の位置を直しながら目を向ける。

「はしゃぎ過ぎです。このお役目は内密に、且つ迅速に行うべきものですよ」

 たしなめるように話す言葉は、彼等四人のするべき事を明らかにしたものだった。意欲の感じられるケインの言葉に、マークも首を縦に振る。

「できる、限り、の、事は、する」

「決まりだな」

 シモンズが四人の同意ににんまり笑った。

「そうと決まれば、良い事を教えてやる。お前等が保護したセラって女は、ジルトール人だ」

 四人が同時に目を丸くする。

「文官までジルトールと交換を?正気ですか!?」

「落ち着けケイン。一応名目は親善大使だそうだ」

「他国の国政を預かる人間が親善大使?ふざけた話ですね」

 ケインが憤慨を露わにしてシモンズに吐き捨てる。かつては文官も兼ねていたケインからすれば、憤懣やるかたないのである。

「落ち着けケイン。ジルトールの鼻を明かしてやればいいだけだ」

 ジョーイの冷静な一言に、ケインは彼を見て口をつぐんだ。煮立った頭のせいで言葉が出てこないのか、低く呻いて俯く。普段とは立ち位置が逆になっている事も、ケインには面白くないらしい。彼の不機嫌さが他の者にも伝わり、特にシモンズは地雷を踏んだ事を後悔して言葉に迷った。

「で、でも、これ、チャンス」

 間を埋めようと発言したマークに、エリオットも便乗した。

「だ、だよね!セラさんをこっそり追いかけてれば、絶対何か分かるよ!」

「だが我々には妻の世話がある。どうしても暗くなるまでに帰らなくてはならん。どうする……?」

 ジョーイの指摘は最もだった。セラを尾行する場合、どうしても城と呼ばれるこの砦に残らなくてはならないが、四人とも仕事から帰る伴侶のために家事をこなしておかなくてはならない。四人が今から砦を出て馬を急がせても、帰る頃には夕暮れだ。日没までに済ませる事を済ませられるかどうか、微妙な頃合いである。その為、今日は砦から出ないであろうセラを見張るには都合が悪い。

「何だお前等、女房が怖いのか?」

 シモンズの呆れるような言葉に、ジョーイとケイン、そしてマークが同時に目を剥いた。

「シメられるんです」

「かわいいんです」

「気がかり、です」

「そ、そうか……」

 三者三様な答えに、シモンズは何も言えなくなる。全員が大真面目に言っているのが分かり、シモンズは唯一噛みついてこなかったエリオットに話題を振った。

「た、確かに大変みたいだが、生憎俺にもその女を尾行する余裕はない。何とかできないか?」

「ええ?うーん……」

 顎に手を当て考えを練るエリオット。その悩みを払しょくしたのは、ケインの一声だった。

「私に考えがあります」

 そう言って彼は自信に満ちた笑みを浮かべ、エリオットの肩を叩いた。

「これは君にしか頼めない事です」


 夕暮れの時間は過ぎ、夜が訪れた。鳥の声さえ聞こえぬ静けさが砦を包み、夜闇を晴らそうと砦中の燭台には火が灯されていた。砦の外や城壁の上でも篝火が焚かれ、警備のために巡回する兵士達を照らしていた。

「ったく、退屈だな」

 担いだ槍で肩を叩きながら、兵士の一人が愚痴を吐いた。共に見回っていたもう一人の兵士が、相方のその様子に釘を刺す。

「そう言うな。汗流さずに金がもらえる、楽な稼業だ」

「あーらら、言っちゃうそれ?夜襲が来ても同じ事が言えるの?」

「冗談だよ。いいから行こうぜ」

 緊張感のない二人の兵士は、そのまま巡回路を回ろうと歩き始めた。万一に備えようと、城壁の外と、内側とに目を配る。兵士の一人が砦の窓に目を向けて、ふと動くものを捉えた。窓の奥を横切ったのは、砦での雑事を行う女給の一人だ。

「ん?」

 ふと彼は、その女給に見覚えがないのに気付く。

「どうした?」

「いや、あんな女いたか?」

 兵士がもう一人に窓を指し示す。女給は彼等に気付かぬまま、早足で横に並ぶ窓の奥を通り過ぎていく最中だった。

「いや、覚えてないな。……にしても」

 その兵士は見えては消えてを繰り返すその女給をまじまじと見て、ぽつりと呟く。

「……可愛いな」

「ああ。それに若い。女給は婆さんばかり見かけるからな、何だか新鮮だ」

 女給がその階の窓を全て通り過ぎるまで、二人は砦から目を離さなかった。その姿が見えなくなってから、彼等は再び警備に戻った。

「ジルトールから来た女給なんかいたっけか?」

「いや、いなかったと思うな……」

 侵入者ではないか、という発想は二人にはなかった。彼等の頭の中で、強い軍事力を持つジルトールと女の侵入者というイメージとが結びつかなかったからだ。それも無理からぬことで、戦を危惧していた頃にナバンの人々が想像の中で膨らませたジルトールのイメージは、鉄に身を固めた悪魔の軍勢だ。そんなものと刃を交える機会を逃れては、彼等の気が緩んでいたのも当然と言える。どちらが言うでもなく、新人の女給なのだと、二人は同時に判断した。

「あーあ、外回りじゃなきゃ声かけたのに」

「何言ってんだ。俺が先だ」

 言い合いながら、彼等はその場を後にした。


「何で私がこんな恰好を……」

 ふと立ち止まり、エリオットは自分の恰好を見下ろした。汚れを目立たせない黒い婦人服の上に、清潔さを強調させる白い前掛け。シモンズが用意したというその服のスカートを軽くつまみ上げると、膝や腿の辺りが心なしか寒くなったようでエリオットは落ち着かない気分になった。

 女給の恰好で砦に残されたのは、ケインのアイデアだった。兵士達に怪しまれず、且つ警戒心を持たれない姿ならば砦にいるセラを尾行できると踏んだのである。エリオットが選ばれたのは、女給の服が似合うだろうと判断されたからだった。

果たしてケインの読み通り、顔立ちと低い背丈とが相まり、今のエリオットはどこから見ても女給にしか見えなかった。それまで着ていた鎧はマークが作った案山子に着せ、砦を出る時はそれを馬に乗せる事で見張りをやり過ごした。雑な手段だったが、跳ね橋を渡る彼等をナバンの有閑騎士とあざ笑うジルトール兵士の門番達は、鎧を着た騎士の一人が案山子だなどと最後まで気付かずに彼等を見送ったのだった。

 無論、エリオットにとって、女給に変装する事は本意ではない。

「騎士がこんな恰好するなんて……」

 つまみ上げたスカートを軽くゆすって愚痴を吐いた。長いスカートの縁は左右にひらひらと揺れ、白い壁に跳ね返る蝋燭の光を受けて控えめに彩りを変える。剣も持っていない今のエリオットにとって、手慰みになるのはスカートだけだった。

「……って、そんな場合じゃないよ。セラさん探さないと」

 我に返り、エリオットはスカートを離して先を急いだ。ちょうど城内を見回っていた城の兵士と鉢合わせになり、これ幸いと尋ねる。

「すみません。セラ様はどちらに……」

 女給らしく控えめに聞いたつもりだったが、その兵士は胡乱げにエリオットを見下ろした。

「あ?」

 横柄な態度でそれだけ言う。何のつもりだと無言で聞くその見下した視線に、エリオットは腹が立ったが、それを堪える。

「あ、あの、文官のセラ様にお伺いしたいのですが……」

 兵士は答えなかった。ばかりか、エリオットを値踏みするような目でじろじろ見ており、やがて下品な笑みを浮かべた。

「君、ナバンの子?」

 目付きに反し、馴れ馴れしい口調で兵士が聞く。エリオットは薄ら寒いものを感じ、わずかに身を引いた。

「え、ええ。もしかしてあなた」

「そ、ジルトール。折角だから仲良くしようよ」

 兵士が体を曲げてエリオットに顔を近づけ、その手を女給服の上に伸ばす。その慣れた挙動から兵士の意図が見え、エリオットはぞっとした。

「あの、すいません。急いでいるので」

「いいだろ別に」

 兵士の手がエリオットの肩を掴み、引き寄せようと力を込める。その瞬間、エリオットの体からふっと力が抜けた。

 失神したのではない。冷静になったのだ。

 エリオットが一歩前に出、兵士に近づく。二人の距離が詰まり、それが男の油断を誘った。

 下げられていたエリオットの片手が跳ね上がり、男の顔へ迫る。男がエリオットの手に気付くより早く、その指先が男の鼻に入り込んだ。一瞬で鼻の穴が無理やり広げられたのと不意に呼吸がふさがれたのとで兵士がのけぞり、エリオットはさらに奥までねじ込もうとその手を上げた。粘膜に包まれた部分どころか、顔の中にまで入り込んで顔から鼻をえぐり取ろうとする指先に、兵士が悲鳴を上げてもがく。

「い、いだ!痛いいだだ!」

 悲鳴を上げてなおも指を抜こうとのけぞる兵士を、エリオットは冷えきった目で見上げた。

「気持ち悪いんだよ、アンタ。女に声をかけるのに恥を感じる面にしたろか?」

 鼻に突っ込んだ指をわずかに曲げる。それだけで兵士の悲鳴ともがきは一際大きくなった。兵士の手が県に伸びるが、柄を掴むよりも早くエリオットの指が深く入り込み、兵士の手が跳ね上がり空を掻く。

「ジルトールでどんな教育受けたか知らないけどね。ここはナバンだ。ナバンのルールを知らないなら、団長様に頭を垂れな。それとも、女にノされた武勇伝でも引っ提げて故郷に帰るか?あ?」

 鼻から相手を持ち上げようと、エリオットの手に力がこもる。鼻からの激痛に、兵士はついに折れた。

「わ、分かっだ!悪かった!だから許し」

「だから何?謝罪に対価を求めるっての?今痛いのは、アンタのどんな所のせいか少しは自分で考えないの?」

 依然として鼻の奥に更に指先をねじ込もうとするエリオット。言葉に迷うジルトールの兵士は依然続く責め苦に涙まで流そうとしていた。

「やめ、やめてくで!もうしない!しないぃい!」

 ついに声からも見下した響きが失せたので、エリオットはようやく兵士の鼻から指を抜いた。兵士は膝をつき、顔を押さえてうずくまる。

「そんじゃ聞くけど、セラ様は?」

 威圧的なエリオットの問いに、兵士は顔を伏せたままひぃひぃ泣きながら突き当りの階段の上を指差した。エリオットは二本の指先をエプロンの裏側で拭きながらそこを見る。

「ん、分かった。ありがとね」

 すっかり素性を偽るのを忘れ、エリオットは階段へと向かっていった。

 それから少し経った頃、うずくまるジルトールの兵士の元に別の兵士が現れた。ナバンのその兵士はジルトールの兵士の様子に気づき、驚いて駆け寄った。

「お、おいどうした!?」

 ジルトールの兵はナバンの兵の呼びかけに、どうにか顔を上げた。鼻孔に流れる空気の冷たさですら痛む鼻を手で押さえながら、ジルトールの兵はナバンの兵に尋ねた。

「……ナバンの女は悪魔か何かか?」


 階段を登った先には資料室があった。この辺り一帯の地理や砦の運用記録などが詰まったその部屋は、壁を埋めんばかりに本が詰まれているためか他の部屋よりも薄暗い印象を見る者に与える。規則的に並ぶ木製の書架のせいで見通しは悪く、入り口から見ても人影は見当たらない。しかしエリオットは文官のセラはここにいるだろうと踏み、恐る恐る資料室の中へと入った。

 スカートの布ずれに気付き、裾を握って軽く持ち上げる。足に絡んでくる布地の感触から足が解放され、エリオットの歩みが幾分軽やかになる。

 エリオットはすう、と軽く息を吸い、口を閉じた。どこにいるか分からない人間を気付かれないように見つけ、その動向を追わなくてはならないのだ。それが怪しい和平の真実を探るため、ひいてはナバンの為とあれば緊張しないでいられない。

 ゆっくりと歩きながら、通路の奥や書架の向こう側に聞き耳を立てる。静かなのを確認すると、ほんの少し歩みを速めて奥へと踏み込んだ。

 ここで軽口の一つでも叩きたくなったが、それを呑み込み緊張感を保つ。見つかれば目論見が崩れ、女給に変装してまで砦に残った意味がなくなる。

 エリオットは一歩、また一歩と図書室の奥へと入る。自分に待つ運命を探るように、薄暗い図書室の中で目を凝らす。やがてぺら、ぺらという紙をめくる音がわずかに聞こえた時、エリオットはしめたと指を鳴らそうとした。思わずやった仕草に一瞬心臓が跳ね上がるが、中指の角度が悪かったのか音は鳴らなかった。肝を冷やしながらエリオットは安堵した。人前なら恥ずかしいが、今この場においては幸運という他ない。エリオットは一層気を引き締め、音のする方へと急いだ。

 セラの姿が目に入った瞬間、エリオットは踏み出しかけたその足を急いで引いた。書架の陰に身を隠し、彼女に対して目を凝らした。

 セラはエリオットの隠れているものとは別の書架の前で本を開いていた。紙面に落とすその目は厳しく、昨日エリオットの家に泊まった時とはまるで別人のようだった。エリオットは驚きを抑え込み、冷静に考えた。

 シモンズが言うには、セラはジルトールの文官だ。その彼女が夜中にナバンの資料を熱心に読んでいるというのは、いささか不自然にも感じられた。

 セラはエリオットの視線に気付かないまま、チッ、と舌打ちして本を閉じた。

「これでもない、か。まだ見つからないなんて、どれだけ周到に隠してるんだか……」

 苛立ちを露わに呟いて本を戻し、背後の書架へと振り返る。エリオットは彼女がいらいらしているのが背中から容易に読み取れ、セラの本性を覗いたようで裏切られた気分になった。

「セラさん、猫被ってたんだ……」

 落胆するエリオットをよそに、セラは探し物を続ける。視線に気付かないまま、彼女は苛立ちを露わにして呟いた。

「どこにあるのよ、ヒイロノカネは!」

 毒づく言葉にエリオットは息を呑んだ。自分が思っていたよりもセラが気性の激しい人間である事に驚き身をすくめると、気付かれていない事を確認して安堵した。

 落ち着きを取り戻したエリオットは、セラの先ほどの言葉を思い返してみて首を捻った。

 ヒイロノカネ。

エリオットにとっては、全く知らない単語ではない。ただし、聞いた覚えはあるがどうも思い出せない、そういうすっきりしない名前だ。

 何の事だったか思い出そうとしていると、ふとある事を思い出した。

エリオットは子供の頃、母親にお守りをもらった。赤く透き通った色をした石を使ったブローチのようなものだ。幼いエリオットが宝石かとわくわくして聞くと、母はそうではないと答えた。これはヒイロノカネ、ナバンにしかない珍しい石だ、と。

しかしその後、ナバンに住む大半の子供達が同じものを持っていると知り、ひどくがっかりした。それも今となってはいい思い出だ。

 ようやく思い出せたはいいが、その名前がセラの口から出てきた事にまた疑問がわいた。あれほどの剣幕で、子供のお守りを探しているとは考えにくい。

 エリオットがセラの言動の不可解さに首を捻っていると、その背後から声が上がった。

「何をしている?」

「ひゃっ!?」

 心底驚きエリオットは飛び上がった。裏返ったその声に、セラが書架の陰から頭を出した。

「誰!?」

 セラがエリオットの隠れている書架へ歩き出す。エリオットはセラからどう姿を隠そうか考え、その後すぐに自分に声をかけてきた邪魔者が誰かを見た。目にしたのは、ナバンの外務大臣であるカーマン大臣だった。エリオットは城勤めの騎士だった頃、何度か彼を見かけた事がある。本人は威厳を持たせるつもりで伸ばしている髭が、逆に彼の貧相な面立ちを一層威厳のないものにしていた。誰から見ても気弱そうな顔の通り気性の大人しい男であるが、ジルトールとの和平は彼によって結ばれたものであり、今やナバンの国中の者は皆彼に敬意を持っていた。

 エリオットとて例外ではない。しかしそれも、半日前までの話だ。結ばれた和平が不信なものである以上、ジルトールの者と何らかの関わりがある事は想像に難くない。

 エリオットは努めてしおらしい様子を繕い、彼に頭を下げた。

「も、申し訳ありませんカーマン様。道に迷ってしまいまして……」

「む、何だ女給か。見覚えが、あるような、ないような……」

 そう言われ、エリオットは内心肝を冷やした。騎士が女給のふりをしているなどと気付かれたら、大笑いか嫌悪の的だ。

 やり過ごそうと俯いて黙っていると、セラが二人の元に辿り着いた。

「誰?……ああ、何だ」

 分かり切ったような呆れと安堵との混じった声を上げてセラがカーマンを見る。カーマンも落ち着いた様子でその視線に答えた。

「ご挨拶だな。何、女給が一人迷ってきただけだ」

 カーマンがエリオットを見下ろす。エリオットはセラの方を振り返らず、気の弱い女給を演じ続けた。髪を少し整え、女給用の髪飾りを付けた程度なので顔を見られたら気付かれる可能性が大いに高いのだ。

 セラは女給の顔を覗き込もうとして体を傾けたが、ちょうどその女給の顔には影が降りていた。顔が見えない事に不満を持ったが、ひとまずそれを置いておき彼女は再びカーマンを見た。

「誰も入れないように言ったはずよ?」

「たまにはこんな事もある。あと二匹しかいないのだろう?」

 カーマンにそう言われ、セラがチッ、と舌打ちした。何の事か分からずにいるエリオットを見て、カーマンが声をかける。

「君はここで、何か聞いたかな?」

 カーマンの問いかけ。エリオットは顔を失せたまま、ふるふると気弱そうに首を振った。

「嘘は君の為にならんよ。本当の事をお言い」

 諭すような口ぶりだが、有無を言わせぬ圧力が言葉からにじみ出ていた。エリオットの背後から、セラも無言の圧力をかけてくる。前後からの威圧に、エリオットの口からぽろりと真実がこぼれた。

「……はい。ヒイロノカネが、どうとか……」

 根負けしたとはいえ、エリオットはこれ以上を言う気はなかった。場合によってはセラも、そしてカーマンも敵になり得る。だからこそ、許しを請うように出かかる言葉をぐっと飲み込む。

 対する二人は、納得できる答えを得たのかふう、と肩を落とした。エリオットは、見逃してもらえるのかとわずかな期待を抱く。

「君は実に不幸な子だ」

 カーマンの言葉の後、かた、と物音がした。新たな音にエリオットが横を見る。そびえ立つ書架の上から音は上がっており、反射的に顔を上げる。

 そこで見えたものは、燭台の明かりの届かない闇の中にいた。そこからいくつもの赤い目が、エリオットを見下ろしている。目が慣れてその仔細が見えるようになった時、エリオットは息を呑んだ。

 赤い目の乗った頭は二つ。目の数と比べると恐ろしく少ない。それぞれの顔には、八つの目が乗っていた。大きな口が裂けるように開き、ぬらぬらと光る牙と長く平たい舌が露わになる。天井を隠すように、長く太い足が書架の上をまたいで広がってる。

「せめて大人しくして欲しいものね」

 セラが不幸な女給にそう言い捨てる。その直後、蜘蛛達の足が書架から離れた。



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