傷心
翌日は人生初の二日酔いのために一限と二限の授業をサボることになった。朦朧とする意識とひどい頭痛の中で、僕は器用にも三度の目覚ましアラームを止めてしまっていたようだ。目が覚めると僕は慌てて出かける支度を済ませ、大学の授業に三限から出席した。
入学早々、わずか数回目にしてこの有り様では先が思いやられるなぁと思いながら、三限目の授業を終えて建物を出たところでアユミに呼び止められた。
「ねえねえ、キミ、ちゃんと授業聞いてた?」
今日のアユミは真っ白なスプリングコートと花柄の刺繍のあしらわれたハンティングキャップを合わせた格好をしていた。やはり僕の周りには今までかつて存在しなかったタイプの女の子だ。
「ちゃんと聞いていたし、ノートだって取ったよ。なぁ、それよりもその『キミ』っていうのがとても気になるんだけど」
僕は思い切って昨夜感じていた違和感についてをアユミに訊ねてみた。
「ノートも取ったの?それじゃあちょっと拝借できないかしら。私、後ろの席だったから黒板がよく見えなくて。その代わり一限と二限の授業のノート、貸してあげるから」
僕の「キミ」に対する疑問と、そしてどうして僕が一限と二限の授業をサボったことを知っているのかという新しい疑問とはどこかへと葬りさられたまま、アユミは3枚のルーズリーフを僕に手渡し、それと引き換えに僕のノートを持ち去った。
そのようにしてアユミと僕は時々に会うようになった。ノートの貸し借りから始まって、その次には彼女がカーペットを買いたいというのでその荷物持ちも務めたし、学食では彼女が苦手だというニンジンを代わりに食べたし、そのような何でもない些細なことが起こる度にごく自然に顔を合わせた。
大学構内でそんな僕らを見かけた順が、「なになに、アユミって子と付き合ってるの?」と訊ねてきたが、事実としてそういう種類の会話を彼女としたこともなかったし、そもそもそういう感情を抱いたこともなかった。僕は一言、「付き合うとかそういうのじゃないよ。まあ、最近よく一緒になることも多いけどね」とだけ答えておいた。順はさして興味がなかったようで、それに対しては「ふうん」とだけ返事をしたが、僕に彼女ができたわけではないと分かると「今度合コンがあるんだ」と言って積極的に誘って来た。もちろん前に順が言ったように、彼と同様に僕だって五体満足で健康な男なわけで、女の子に対する興味は十分過ぎるくらいにあったのだが、いざ女の子と付き合うとなると僕はいわゆる奥手なタイプであるのだ。
高校時代に付き合っていた彼女とだって、特別なきっかけもなく手紙のやり取りが始まった。そして、いつの間にか一緒に映画館に行ったり、服を見に行ったり、あるいは一緒に図書館に出向いて勉強したりしていた。しかしそれも大学受験が本格化するとほとんど自然消滅をしていて、僕の高校時代の恋愛は失恋の痛手すら伴わない儚い過去の一部として終わってしまったのだ。
順に合コンに誘われ、僕は僕なりに色々なことを考えたのだけれど、結局大学生としての新しい人生を始めるために彼の催す合コンに参加することにした。これまでの僕ならばきっと参加しなかったであろうが、僕は敢えてこれまでの僕の逆を選ぶことにした。
時代はちょうどその頃に流行していたテレビドラマやミュージシャンたちの影響で、僕たちのような若い世代が最も話題になる世の中であった。若者向けの雑誌はもちろんのこと、テレビのドキュメンタリー番組や挙句の果てに経済分野においてさえ、若者の嗜好が世の中の関心の的となっていた。それまでこの国を必死に汗を流して支えてきたであろう世代の大人たちが、これまた必死になって我々若者たちの嗜好について真剣に議論し合い、そういう意味で我々若者たちに媚びるような販売戦略を講じている様はひどく滑稽であった。
そうした世の中が善であるか悪であるかは別にして、それゆえに我々若者は皆似たような格好をして、似たようなライフスタイルを求めた。僕もそれで高校時代にタバコを覚えたし、当時のうちに慣れることはなかったけれど、ビールの味も知った。女の子たちも同じだった。似たような化粧をして、似たようなブランド物のバッグを提げ、同じ香りのする香水を振り撒いていた。「流行とは生き物である」と言うが、若者がそういう生き物である流行から外れることは、即ち若者として「生きる」機会を失うことを意味した。若者「らしく」生きていきたければ、皆右へ倣えというのが合言葉であった。
僕は結局、合コンで知り合ったそのような女の子たちの一人と初めてのセックスを経験した。女の子はこれが二度目のセックスなの、と言った。その女の子にとって男と寝ることはスポーツで汗を流すことと何ら違わなかった。別に彼女がそれで悪いということではなかった。そういう時代であったのだ。もっと正確に言うならば僕の属するこの狭量なる社会というのがそういう価値観に支配された社会であったのだ。少なくともその合コンに集った者たちの中では、それが若者の持つべき至極全うな価値観であった。初体験を済ませた僕はすぐさま彼女の虜となったが、彼女にとって僕は一夜の遊び相手に過ぎず、僕などという平凡な人間は合コンのような特別な雰囲気なくしては何の魅力も持たない一人の男に過ぎなかった。彼女と会ったのは結局その夜の一度のみであった。順も特定の女の子と付き合ってはいなかった。順にとってもセックスはやはりスポーツのような行為の一つであったのだ。僕は高校時代に四ヶ月付き合った彼女との別れよりも、一夜を共にしただけのろくに知りもしない女の子との別れに初めての失恋の痛手を感じていた。