ライク・ア・クラーク=ケント
入学式場で配られた施設案内のプリントを頼りに、僕は憧れ続けた自分だけの城である大学の宿舎へと向かった。宿舎の周辺では、それこそ新入生たちが真新しい電化製品やら衣装ケースやらを彼らの両親たちと一緒になって自室に運んでいた。キャンパスの中では自転車さえ販売されていた。その他にも新入生を囲う様々な催しが行われていた。いわゆるサークルの勧誘に励む者もいたし、家庭教師のアルバイトを募集している者もいた。なんだか僕よりも5歳は年上なんじゃないかと思うくらいに大人びた先輩学生たちからそういう勧誘の声をかけられるとドキドキもしたが、僕はそんなことよりも早く自分の部屋を見てみたかった。幾つもの勧誘を丁重に、控えめに断りながら、僕はついに我が城と対面した。
部屋は想像していたのとはだいぶ違っていた。昔何かの洋画で観た寄宿舎のイメージが強過ぎた。現実のそれは本当に凄惨たるものであった。前の住人はそのようなスポーツ部にでも入っていたのだろう、壁にはところどころが破れたアメリカンフットボール選手のポスターが貼られていた。また、等しくその住人の像を物語るように、床のあちこちに砂や土が付着していた。六畳の個室にはシングルベッドが備え付けられてはいるが、一目見ただけで今後が不安になる様相を呈していた。きっと、はたけば目を疑いたくなるほどの埃が飛散するに違いない。それに、巨大な勉強机。まるで会社にでもありそうな事務机だ。グレー色のその事務机は非常に厄介である。何しろ、シングルベッドとこの事務机とで、6畳の個室の大半のスペースは埋め尽くされてしまっているのだから。この個室にあるのはその他に手洗い場。力を入れて引けばそのまま引っこ抜けてしまいそうな、何とも頼りない蛇口がひょろりとついている。当然、お湯などが出るはずもなく、また、そこから出る水はそのまま口にしない方が良いという代物だった。
が、窓からは広い庭が一望できる。その景色は救いになった。宿舎なる建築物は、階段を横に倒したようなジグザグな独特の形をしていて、個室のどこの窓からも庭を臨めるようになっているのだ。その景観こそ、大学一年生の九割以上の学生が、毎年こんな有様の寮に入寮することを拒絶しない十分な理由の一つであるように思えた。僕はそんな個室を、その後の回想では「ムショ」と呼ぶことになるのだが、入寮したての僕にとってはそれでも初めて与えられた我が城であり、たまらなく嬉しかった。
思った通り、掃除を始めたら最後、いつまでも終わりの見えない作業が続いた。備え付けのベッドのマットレスははたけばはたくほど不衛生に思えてきて、いっそのこと捨ててしまおうかと思ったくらいだ。部屋の中もさんざん掃き続けたが、いつまでたっても砂埃がなくなる気配がしない。僕は志半ばで大掃除を断念することにした。きっと、この部屋は叩けばビスケットの増えるポケットのような不思議な力が備わっているのに違いないとそう思うことにしたのだ。
それで予め取り寄せておいた独り暮らしサイズのコンパクトな冷蔵庫やテレビデオを玄関から搬入していくことにした。窓の側にテレビデオを置いた。しかし、何とも見づらそうだったので、結局勉強机の上に置いた。シングルベッドの上に寝転べば、ちょうど見やすい位置になった。勉強をする時にはテレビデオを下に置けば良い。衣装ケースはシングルベッドの下にすべり込ませて置いた。入学式で着た春物のスーツは、買った時についてきた簡易的なスーツケースをかぶせたまま壁に吊るした。最後に冷蔵庫を搬入しようとしたが、これは重くて仕方なかった。てこの原理を使って冷蔵庫をよちよち歩きさせたが、想像以上に骨が折れるので隣の学生の手を借りることにした。
もちろんチャイムなんてないので、ドアをゴンゴンッと2回ノックした。隣人はすぐに出てきた。
隣人は僕の目を見て、
「やあ」
と言った。
クラーク・ケントからそのまま拝借してきたような眼鏡をかけ、彼の口元からは銀色の歯列矯正器が覗いた。いかにも勉強の虫、という印象を抱いたが、悪い人間ではなさそうだった。僕は隣に越してきた大学1年生で、冷蔵庫の搬入に手を貸して欲しいと丁重にお願いした。隣人は自分も1年生だ、喜んで手伝うよ、と言った。
早速その隣人と二人がかりで冷蔵庫を搬入した。あれほど手こずっていた作業が、こんなに頼りなさそうな隣人とでも二人がかりとなれば容易に成し遂げられた。頼りなく見えていたのはあの眼鏡のせいで、実は本当にスーパーマンなのではないか、などというジョークが浮かんだ。
作業を終えると隣人が部屋に招き入れてくれた。彼の名は慎吾と言った。もっとも、彼を慎吾と呼んだのはわずか10回くらいのものだ。彼は誰からもジョーズと呼ばれた。勉強に集中できないからと拒み続けた歯の矯正を大学入学を機に開始したようで、彼が笑うと銀色の矯正器が顔を覗かせた。今の時代に歯の矯正器なんて珍しくもなかったが、彼のそれは007の映画に出てきたジョーズを思わせた。それが僕に限らず、他の仲間の間でも共通したものだから、彼は一夜にしてジョーズとしてその名を覚えられたのだった。