出発
何の理由もなかったが、視線がふと電光掲示板に向いた。ちょうど胸に溜まった煙草の煙を吐き出しながら、視線の先の真っ白な鳥に意識が働いた。鳩だ。太陽は既に完全に沈んでいたから、普段は少々子汚くすら感じられる鳩の躰の色が、夜の街の中で消費者金融の電光掲示板に照らされ、一際明るく見えた。
もう一度繰り返すが、何か特別なことが起こったわけではない。その方を見るのに何一つとしてきっかけは存在しなかったのだ。しかし、それからの鳩の動作は十分にその後の注目の理由をつくった。仲間の鳩を一羽も連れず、真っ直ぐに人工的な灯りに向かって羽ばたく彼の姿は、僕にとって十分な関心となった。
あと三十分もすれば、僕はこの街に別れを告げることになる。さんざん退屈だと罵ったこの街も、いざ離れる時となってはどことなく愛おしく感じられるものだ。
両親と弟が駅まで見送りに来てくれると言ったが、僕は何かと理由を付けてそれを断った。別に永遠の別離であるわけでもないし、何だか照れくさかった。それならばと弟が見送りについてきた。弟と僕は特別な会話をするわけでもなく、駅のホームの古びたベンチに腰かけると、ただこれからやってくるはずの電車を待った。
駅のホームでは電車を待つ各々が携帯電話の画面を見つめたり、鞄の中を弄ったりして時間を潰していた。僕も群衆と同じように、手提げ鞄の中から文庫本の小説を取り出し、しおりを挟んでいた頁を開いて何となくそこに並べられた文字列を眺めた。しかし、そうするのはカムフラージュであって、僕の頭の中にはまるで別の物事が浮かんでいた。隣で両手を静かに組んでいる弟は何も話さなかった。まっすぐに自分の両手を眺め、時々思い出したように瞬きをしていた。僕の乗る電車がやってくるまでに、一度だけ貨物車両が通過した。貨物列車が運んできた突風が冷たかったが、それでも何事もなかったように弟と僕は古びたベンチに座り続けた。
電車がやって来た。その時になって、僕はその日初めての弟の声を聞いた。
「兄さん、電車が来たね」
弟はそう言うと、ゆっくりと立ちあがった。僕もそれにつられるようにして古いベンチから立ちあがり、
駅のホームへとけたたましい音を立てながら入ってきた夜行列車を眺めた。
弟は最後まで見送ってくれた。僕は寝台列車の指定車両に乗りこむと、窓の向こうでいつもと変わらない表情で僕の方を眺めている弟に手を振った。弟は手を挙げて応えた。男兄弟なんてこんなものだ。そういうちょっとした動作で大体のことを伝えようとする。もちろん、どこにでもいるような男兄弟の例に漏れることなく、僕たちも時々に喧嘩をした。殴り合いもした。しかし、根本的には仲の良い兄弟であったはずだ。お互いにあまり口数の多いタイプではなかったが(このあたりは父親に似たのだろう)、兄弟の絆は言葉数を超えて強いものであると思う。
電車の発車のベルが鳴った。
僕はもう一度弟の方を眺めた。弟もじっとこちらを眺めていた。
電車がゆっくりと動き始めたその瞬間だった。
弟の口が何か言葉を発していた。
僕は寝台に寝転びながら弟が何を言いたかったのかしばらく考えていたが、いつの間にか意識はまどろみの中へと落ちてしまっていた。