始まり
長い夏休みの間、僕はあまりにも退屈であった。親元にいた時には落ち着いて見ることのできなかった種類のレンタルビデオも山ほど観たし、兼ねてから興味のあった洋画も一日に五本観る日もあった。その合間に受験生時代には自粛していたテレビゲームもプレイしたし、時々には大学の中央図書館に行って教養の類を身につけようともした。しかし、そうして日々を過ごすのも四日間がせいぜいのところで、僕は意を決して新しいことを始めることにした。初めは順と一緒に始めようと手にしたアコースティックギターをこの1ヶ月で上達させようとも思ったが、ギターケースからアコースティックギターを取り出してしばらく練習しているうちに、僕は早くも自らの才能のなさに打ちのめされてしまった。何時間練習したって上手くなれそうな期待が持てなかった。それであっさりとギターは辞めてしまった。そこで急に思い立ったのは、仕事をしようということだった。これまでに一度たりとも働いた経験がなかったから、そうしようという発想が全く湧いてこなかったのだが、大学の図書館を訪れた二時間ばかりを除いてほとんど四日間すべてを自宅の中で過ごした僕に残された今月分の仕送りは、もうわずかになっていた。少々レンタルビデオを借り過ぎたのかも知れない。そこで僕は大学の学生会館前に貼り出された求人広告を見に行った。
求人広告には実に様々な仕事が紹介されていた。プログラミングの入力の仕事もあれば、英文和訳の仕事もあったし、何だか詳しくは分からないが運動実験の被験者を求める広告もあった。家庭教師の募集もされていたし、学生食堂や学生街にある飲食店からの求人もあった。遺跡採掘の手伝い、企業アンケートの電話調査を行うものや、カタログを見て若者の意見を聞きたいなどの仕事もあった。そうした様々な求人広告を半ば感心しながら眺めていると、ふと目の留まった広告があった。
《求人資格》
・○○大学理工学部一年生
・男性
・八月一日(日)~八月二十九日(日)まで勤務可能
・勤務時間応相談
・勤務地××× ×××××× ×××
僕にとってかなり都合の良い求人条件だった。というより、それは意図的に僕に対して向けられた求人広告であるようにも思えた。勤務地も恐らく自転車で十分かそこらも行けば辿り着くことができる場所にあると思う。何度か見かけたことのある地名だった。肝心の時給は大体家庭教師の時給と似たような金額であり、文句はない。ただ一つ、仕事の内容が非常に抽象的で分かりにくい点が引っかかった。しかしそれゆえに僕の関心はより強くその広告に向けられたのかも知れない。電話をかけてみて仕事の内容を聞き、それで自分には向かなそうな仕事であれば断れば良いのだ。僕はお尻のポケットから携帯電話を取り出し、広告に掲載されていた問い合わせ番号に電話をかけてみた。ワンコールで採用担当者が出た。落ち着いた感じのする女性の声だった。
「お電話ありがとうございます、△△△採用課でございます。」
非常に丁寧な第一声だった。僕は短期のアルバイトだからともっとくだけたイメージを抱いて電話をしたために、ちょっと緊張した。不況な時代に少しでもマシなアルバイトスタッフを雇うために、求人を出す会社も必死なのかも知れない。そう思った。僕は相手に心中を読み取られまいと急ぎ気持ちを落ち着けると、
「○○大学の求人広告を見て電話をしてみたのですが、こちらでよろしいですか?」
と聞いてみた。
「はい、さようでございます。こちらでのお仕事をお手伝い頂けるのでしょうか?」
採用担当の女性は受話器の向こうでにこりと笑ってそう答えた。そんな気がした。電話の相手の女性はとても気持ちの良い声で、そしてとても気持ちの良い話し方をするために僕はうっかり仕事の内容を質問し損ねるところであったが、再び求人広告を見たおかげで質問を思い出すことができた。そして質問をしてみた。
「求人広告には『世界の仕組みに関する調査手伝い』とありますが、具体的には何をお手伝いすれば良いのですか?」
質問を投げかけてからふと頭をよぎったのだが、もしかすると何かの宗教ではないかと思った。仕事の範囲を「世界」としているのは、その求人広告くらいのものだ。世界の仕組みというのだから、「我らが崇める唯一神の啓示に従い、この世界を再び平和に導くために世界の仕組みを解き明かすのです。」と、そのような答えが返ってきてもおかしな想像ではなかった。しかし、そんな想像は僕の身勝手な想像でしかなく、電話相手の女性は極めて誠実に僕の質問に答えてくれた。
「はい、お仕事について大まかにご説明させて頂きますと、世の中の仕組みを把握するためにデータ集計をお手伝い頂きたい、というものでございます。お電話だけでは十分にご説明差し上げることが難しいので、よろしければ一度お越しいただけませんでしょうか?お仕事のご説明を兼ねてまず一日だけご体験頂き、お仕事の内容をご理解頂き、その上でお手伝い頂けましたら大変助かります。」
それならばと思い、僕は明日の午後にその会社に訪れることにした。
今思えばちょっと怪しい種類の会社なのかも知れないが、僕は電話の相手の声と話し方に対して安心をし、そして信頼すらしていた。あの女性が怪しい種類の会社の職員ではないことはこれから初めて仕事をする僕にでもよく分かった。