二匹の魚
アユミは僕を誰もいない屋内プールに導いた。蒸し暑いこんな夜には、プールに映し出された月の姿がとても涼しく思えた。アユミはICカードキーにもなっている学生証を使って、何事もなく屋内プールに忍び込んだ。僕もその後に続いた。
「ようこそ夢の国へ」
アユミは冗談めかして紳士のおじぎを加え、僕を迎え入れた。そこにはプールに映った月の姿、そしてプール独特の塩素の匂いだけがそこには存在しており、その他には完全なる静寂が存在するだけであった。
「誰もいないプールってもっと気味の悪いイメージがあったけれどそうでもないわね。もちろん一人きりで来たらまた別の印象を持つでしょうけれど」
アユミはそう言うと小さな靴をきちんと並べて置き、真っ直ぐに伸びた美しい脚をつま先からゆっくりとプールに入れた。僕もいちいち彼女の一挙一動に倣って靴を脱ぎ、プールに脚を投げ込んだ。蒸し暑い夜にはとても心地よい感覚が伝わってきた。
「勝手に入って大丈夫かな?監視カメラとかそういうのがあるんじゃないの?」
「キミね、私たちはここの学生よ?屋内プールだってパソコン室だって、学生の育成のためにこうしていつでも使えるようになっているんじゃないの」
夜の九時過ぎにプールに忍び込むことが大学のいう「育成」に該当するのかどうかは疑わしかったが、僕はいつものようにアユミに対して反論することはしなかった。
「この前はごめんね?ちょっと言い過ぎちゃったみたい」
足先で水面に円を描いたりしていたアユミはそう言ってしばらくの沈黙を破った。
「キミが女の子を好き好んで傷つけるような人じゃないのにね。もちろん、意図せずに傷つけることはありそうだけど」
僕は冗談めかして、
「アユミは僕を慰めたいの?それとも馬鹿にしたいの?」
と答えた。
「ごめんごめん。本当に悪かったって思っているのよ。キミって真面目な人だから、たぶんあの後ずうっと考え込んでいたんじゃないかなって。私が喫茶店の「おかあさん」とお喋りをしている間、キミはずっとだんまりだったもの」
「うん。白状するけれど、アユミの言う通り、ずっと考えていた。いや、アユミが悪いというわけじゃなくてね。確かにアユミの言う通り、僕は彼女に対して無神経だったかも知れないって。お酒が入っていたとはいえ、その場のノリみたいなもので女の子と寝て、セックスをしたから付き合いましょう、なんていうのは女の子からしたら「何それ?」ってなるもんね」
「キミって本当に正直な人ね。でも、世の中には色々な女の子がいるのよ?男の子と寝ることが青春と思い込んでいる子だっているんだから」
「アユミはそういうところは大丈夫だろうね。見た目と違ってアユミも真面目だから」
「あのね、キミのそういうのを無神経って言うのよ」
アユミはそう言うと僕の背中をぐいと押した。僕はすっかり油断していて、勢い良くプールに飛び込む羽目になった。
「そんなに大げさに飛び込まなくてもいいじゃない」
アユミがけらけらと笑って言った。僕は急に体中を支配した水の冷たさにビックリして、急いでプールから這い上がった。
「やったな?よぉうし」
僕はアユミの細い体を後ろから持ち上げ、彼女の体をゆっくりプールに浸していった。
「ちょっと待って?帽子が濡れちゃう」
いつもどことなくいわゆる上から目線を感じさせたアユミが珍しく狼狽する様を見て、僕は可笑しかった。アユミは頭の上の帽子をプールサイドに投げると、観念したように自らプールに飛び込んだ。
やがて僕らは僕らだけの海の中で二匹の魚となった。服を身につけたまま、後先のことは気にせずに頭までずぶ濡れになった。水面に浮かんでいた月の姿はすっかり乱れてしまったが、水面にはその代わりに生命の躍動が宿った。
二匹の魚はしばらくその場を泳ぎまわり、そしてひと時の泳ぎを楽しむと月を真っ直ぐに見つめながら水面に浮かんだ。時折足をばたつかせて体勢を整えた。アユミの白い肌は月夜に照らされて幻想的な蒼白さを帯びた。それは僕の知らないどこか遠い異国にでも存在しそうな妖精の姿を想像させた。
アユミと別れた帰り道、僕はずぶ濡れになった体を引きずるようにして「ムショ」へと歩いていた。しかしながら一方で、僕は僕の体の中身の部分がすっかりと軽くなったような気がしていた。
両親と暮らしているアユミはその夜の出来事を「川に落ちた帽子を拾ったの」と説明し、「もちろん帽子だけは不思議と乾いていたわけで、特にお母さんの目を誤魔化せたかどうかは怪しいものだけれど、お父さんからは危ないだろうと少しばかり叱られちゃったけれどね」と言ったが、翌日は何事もなかったように大学に行った。
僕はその後四十度の熱を出し、それから2日の間は身動きさえとれなかった。その熱はもちろん風邪によるものであったが、僕にはまた別のものにもよる気もしていた。
その日も暑い日だった。ここ数週間を支配していた蒸し暑さもずいぶん影を潜め、今年も暑い夏が訪れようとしていた。もうひと月もすれば、アスファルトにはきっと太陽の光がギラギラと照りつけており、その上に生卵を落としたらジュージューと音を立てて目玉焼きが出来上がるに違いない。こうして目をとじていても、日差しが瞼を通り抜けて伝わってくる。そして僕は、そうした想像にも負けず劣らずの高熱にうなされていた。そんな日だった。
気の遠くなるような意識の中、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。僕はそれが夢の中で起こっているのか現実に起こっているのかよく分からずにいて、結局それに応えずにベッドの上に横たわり続けた。
少し時間が経って、誰かの気配を横に感じた。僕は驚いて目をこじ開け、ベッドの横に目をやった。
そこには心配そうにして、いや、半ば呆れるようにして僕の方を眺めているアユミの姿があった。
「あなたねえ、いくら学生寮だからといって玄関の鍵をかけないっていうのは無防備過ぎるわよ。ドアが半開きになっていたわよ?」
アユミはそう言うといつの間にか僕の額の上に置かれていたタオルを取り上げ、どこからか見つけてきた我が家の洗面器の上でそれを絞り直した。
「そう言われれば確かにその通りだけれど、我が家にはエアコンなんてものはないから、それなら窓という窓を開け放って風通しをよくした方がいいんだよ。風通しが良ければ扇風機もいらないだろう?」
アユミはそれに対しては何も言わなかった。そもそも僕の言い訳なんて聞いてすらいなかったかも知れない。
「それはそうとアユミだって変わってるよ。普通はドアをノックして応答がなければ部屋まで上がり込んだりしないよ。それに、僕たちは恋人同士じゃないんだから、いくら相手が僕だからといって男の部屋に上がり込むなんてアユミこそ無防備だよ?」
「あら、友だちだって何度メールしても音信不通となれば様子だって見に行くわよ。特にキミなんか友だちだって少ないんだし。私が様子を見に来なかったら死んじゃってたかも知れないわよ?それは勝手に上がり込んだのは悪かったけれど。結果的に」
アユミはそう言って勉強机の上のいかがわしい種類のビデオテープをぐいと向こうへ遠ざけた。
順に頼み込んでやっと手に入れた代物だった。
「キミってこういうのが好きだったわけ?ふうん。キミも男の子なのね」
アユミとはわりとオープンな間柄だとはいえ、僕は一抹の気まずさを感じた。
アユミの言う通りだった。確かに僕はあまりにも無防備過ぎた。
そのようにして僕たちはしばらく他愛もない会話を続けた。最近大学の必修授業が難しくなってきたとか、アユミのアルバイト先のお客さんで愉快な人がいるとか、そういう話だ。
ふと時計に目をやると、時刻は午後6時をまわっていた。
アユミの献身的な介抱のおかげで僕の熱はずいぶんマシになった気がした。いくぶん体が楽になった気がした。
アユミも時計に目をやるとそろそろ帰らなくちゃと言った。僕は玄関まで送ると言った。
もちろん彼女は、
「いいわよ、そんなの。それに送るなんて言うけれど、迷うほどの広さなんてないじゃない」
と、僕の厚意を断ろうとした。けれど、僕は健康な時の倍くらい重くなった体を無理矢理起こし、言葉通り彼女を玄関まで送ることにした。
その時、やはり無理がたたったのだ、僕はふらふらとよろめいた。
転びはしなかったが、壁に手をついた。アユミが振り向いた。
「ほら、だから言ったじゃない。私は帰る。キミはベッド。少しくらい言うことを聞きなさい?キミって本当に変わらないわね」
そう言って彼女は僕に肩を貸してくれ、玄関まで送ると言った僕を逆にベッドまで導いてくれた。
僕はベッドの上に横になった。横になるとやはり楽だった。何しろ僕の身体は健康な時に比べて倍の重さにも感じられるのだから。
気が付くと僕はアユミの左手を握りしめていた。
僕の左手はきっと熱を帯びていただろうが、優子の左手からはそれよりも温かい心地よさを感じた。
僕がアユミの左手を握りしめていたことに気付いたのと同時に、アユミもそれを意識したようで、今日彼女がこの部屋に訪れてから初めてぎこちない沈黙の時間が流れた。それはごく短い時間であったのだろうが、その時の僕にはそのようには感じられなかった。
「ねえ、友だちでも手をつなぐことって普通なのかな?」
そのぎこちない沈黙を破ったのはやはりアユミだった。こんな時いつだって助け船を出してくれるのはアユミの方なのだ。
それからは再び時間が流れた。その時間はそれまでとは違う種類のものだった。あっという間に時間が流れた。
「うん。友だち同士だって手はつなぐよ。よく知らない他人同士だって、何かの折に握手だってするだろう?」
そう言うと僕はアユミの手を引いた。そして髪を撫でた。
「ねえ、友だち同士でも髪を撫でたりするかな?」
「うん。アユミはこんな僕を看病してくれたんだ。感謝の気持ちを込めて褒めたっていいだろう?」
そう言って僕は彼女を抱き寄せた。
「ねえ、友だち同士でもこうやって抱き合ったりするのかな?」
「うん。外国ではハグは愛情を示す身振りとして一般的だろう?」
僕は彼女にキスをした。
「じゃあキスは?友だち同士でも?」
「キスだって挨拶の一つでもある」
僕はそう言うと、彼女と唇を重ねながら、彼女の着ていたエメラルドグリーンのシャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していった。
「ねえ、友だち同士でもこういうことって許される?」
「友だち同士なんて無理だと思う。少なくとも僕は」
それから目が覚めると翌朝の四時だった。
アユミもその頃に目を覚まし、帰り支度を整えると、
「じゃあ、またね。早く良くなるのよ?授業が終わったらアルバイトまでは看病してあげるから」
と、そう言った。
しかし、もちろんアユミは来なかった。
それはもちろん、彼女も僕と同じように高熱にうなされることになったからだ。