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NoVeiL  作者: 天窪 雪路
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ブルー・フェアリー

約束の金曜日は蒸し暑い夜だった。滅多にメールの入らない僕の携帯電話に、その日の昼過ぎにはアユミからメールが届いていた。


「午後九時に学生会館の噴水前に集合ね」


喫茶店でアユミに言われたことがずっと気になっていた。だから僕はそういう厄介な悩みごとを出来る限り考えないでいるようにと、普段は取り組みもしない勉強に精を出していた。何か嫌なことがあった時はそうするのが一番良い。つまり、何らかの嫌な出来事と全く関係しない種類のやるべきことに打ち込むのだ。頭の中を別の物事で埋めてしまえば、僕の頭はそれでいっぱいになって、それまで僕の頭の中を支配していた物事をどこかよそへと押しやってくれるのだ。ただし、この方法はその場凌ぎの一次的な対処療法に過ぎないわけで、取り組みの勢いが鈍化すると全くその効果を失うから注意が必要だ。だから僕は一日に五時間も六時間も勉強した。まるで大学受験を控えた高校三年生のように。おかげでここ数日はずっとジョーズと行動を共にしていた。ジョーズのように真面目に勉強に取り組んでいる我が身を心配し、僕は時々、自分にもジョーズのような銀色の歯列矯正器が備わってしまったのではないかと思い、鏡を見て確かめ、安心した。


大学の六限目の授業を終えて「ムショ」の共用棟で順に髪を切ってもらった。貧乏学生の僕たちはそのようにしてお互いの髪を整え合った。髪を整え合うと学生浴場に行った。浴場の中で髭を剃り、散髪で出た細かな髪の毛を丁寧に洗い落とし、ゆっくりと湯船に浸かってこの後のスケジュールを確認した。

まだ十分に時間があったので、一階の共用洗濯機の中に洗濯物を投げ込んでおいた。僕の部屋のある三階の洗濯機よりも一階の洗濯機の方が新しくて綺麗なのだ。洗濯機がまわっている間にレポートのまとめを進め、八枚スライスの食パンをふた切れかじった。


僕はアユミとの待ち合わせの時間まで、そのようにしてせかせかと過ごし、そしてすっかり身支度を済ませてしまうともう他には何をやるにしても中途半端な時間しか残っていなかったものだから、待ち合わせの時間よりはずいぶんと早いけれど、先に行ってアユミを待つことにした。


さすがに午後八時をまわる時間になると、学生会館の辺りには人気がなかった。あちら側の中央図書館の辺りの広場でスケートボードに興じている学生たちが何人かいる程度のものだった。

僕はアユミに言われた通り噴水前で待つことにした。


一時間も早くから、僕はまだアユミの来るはずのない待ち合わせ場所で懸命に彼女の姿を探していた。アユミと似たような背格好の女性は何人か見かけたが、もちろん彼女たちはこちらに目もくれず、どこかへと足早に去って行ってしまった。タバコを吸う。足元にわずかに積もり始めた吸殻と、それと同じ回数だけ胃の中に溜まったブレスケアの錠剤とで、僕はすっかり手持無沙汰になってしまったこの一時間を何とか耐え抜くことになるだろう。アユミはイマヌエル・カントのように時間に正確な人だから(というよりも、時間に余裕を持って早めに行動することがない、というのが正しいかも知れない)。


季節は夏へと移行していくところであったが、街中が季節を見まがうようなへんてこな服装で溢れかえっていた。そんな時代であった。僕は僕にはまったく理解し難いそういう服を好む人種に一度だけ訊ねてみたことがある。どうしてノースリーブに毛糸の帽子を合わせるのかと。センスよ、センス。彼女はそう短く答えた。僕は間違ったことを訊ねてしまったことに気付き、適当な相槌でそれを受け入れ、それ以上質問するのを止めた。


待ち合わせの場所に着いてから、僕の想像した通り一時間きっかり経ってからアユミは現れた。真っ白な生地に黒い文字のプリントされたTシャツの上に少しタイトなジーンズジャケットを格好良く着こなし、少し短めなスカートからはコンパスのようにずっとまっすぐに伸びた脚を覗かせていた。


「待った?」


アユミは僕がそれに答えるよりも早く続けた。


「こっちよ」


待ち合わせ場所に現れたと思ったら、今度は僕をどこかへと連れて行こうとしている。アユミと行動すると時間がいつもの数倍は速く流れた。数倍速く流れるから、それだけ色々な出来事が起こった。それは大げさな表現ではない。例えば朝目覚めてから僕が口にできるのは、せいぜいコッペパンを半分とそれとは組み合わせの悪い冷蔵庫から取り出した麦茶くらいのものだったが、彼女と朝から会うと少なくともそれにベーコンエッグと温かいコーヒーがついた。しかし、それは良いことばかりをもたらすものではなかった。あるいはまた、彼女と遊びに出掛けたとする。アユミと一緒にお台場に行けば、大観覧車にも乗れるし、ショッピングテーマパークだって満喫できるし、アミューズメントパークでだっていつもの数倍の種類のアトラクションを楽しめる。けれどその一方で、その疲労感たるや相当なものだ。ぶらぶらとあてもなく歩き回るウィンドウショッピングとは異なり、彼女と遊んでから家に戻ると、僕はもう十歳も二十歳も歳を取ったような顔になっているのだから。

もしも仮に彼女と付き合うことになるとしたら、僕は学生時代のうちにすっかり疲弊してしまって、きっと彼女の半分も生きられはしないだろう。

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