抹茶ロール
「聞いたわよ?彼女にフラれたんだって?」
僕は耳を疑った。寝耳に水、藪から棒、青天の霹靂。このアユミという女の子は今何を言ったのかと。
「ねえ、どうしてフラれちゃったの?喧嘩別れ?」
僕が答えなければアユミはきっと手を変え品を変えで僕が答えるまで追跡してくるだろう。僕はそれについてはあまり触れたくなかったが、仕方なくアユミを喫茶店に連れていき、彼女の質問に答えることにした。
喫茶店はもう三十年も大学近くのこの場所に存在し続け、喫茶店の店主は学生たちから「おかあさん」と呼ばれていた。実際のところ、多くの学生にとっては彼らの「おばあちゃん」にあたる齢の店主であるのだが、そう呼ぶのがここ数十年の伝統なのだから仕方ない。
「ここの抹茶ロールがうまいらしいんだ」
僕はつい先日、順から聞いたばかりの情報をそのままアユミに伝え、その抹茶ロールとアイスコーヒーを二つずつ注文した。「おかあさん」は注文間もなく、抹茶ロールとアイスコーヒーを運んでくれた。
そんな「おかあさん」の姿を見て、そういえば実家の母親はどうしているだろう、と久しぶりに思った。優等生の拓実は相変わらず両親の期待に応え、父親は元気でやっているだろうかと。実家を離れてから既に三ヶ月が経とうとしていた。あれほど憧れ続けた大学生活だったから、僕は新生活をすっかり満喫していて、今の今まで約三ヶ月の間、ほとんど家族のことを思い出しもしなかったのだ。
「うん、確かに絶品ね、これ。甘さ控え目、抹茶の香りもちゃんとして」
アユミと話をしていることは僕にとってとても自然なことになりつつあった。彼女と今こうして話をしていることも、どうしてだかある種の懐かしさを思わせた。もちろん、今こうして彼女との間で上っているいる話題は別にして。
「で、話を戻すけれど、キミがどうしてフラれちゃったのかっていう話だったわよね」
「いや、僕は別にその話の続きを望んでいないけれど」
「じゃあどうしてわざわざ喫茶店にまで来たの?ちょっと意地悪かも知れないけれど、もしかしてキミのそういう行動が喧嘩の原因だったのかしら」
それに対して僕は反論を述べることは止めた。「他の学生たちの誰が聞いているかも分からない大学構内の中で、周囲の雑音に負けない声量で僕の失恋についてあれこれと話をされたくなかったからだ」と言ったところで、それはきっとアユミを納得させるだけの十分な理由にはならないだろうから。そんなことを言ったって、わずか三ヶ月の付き合いにも関わらず、アユミが「それは喫茶店でだって同じでしょう?」と返してくるだろうことは十分に予想できるのだ。
「確かに僕の行動に落ち度があったというのはまんざらハズレでもないかも知れない。でもね、そもそも僕は彼女と寝ただけでまだ彼氏にもしてもらえていなかったんだ。だからフラれたというのはおかしいよ」
アユミは大きな瞳をより大きくしてこちらを見た。そして言った。
「キミねえ、それを本気で言っているとしたら大問題よ?」
アユミはまるで母親が小さな子どもにピシャリと何かを言い聞かせるようにして続けた。
「女の子が好きでもない男の人と寝るわけがないでしょう?それでキミが恋人にしてもらえなかったとしたら、キミの彼女に対する気持ちがないってことを彼女が感じ取ったからに決まってるじゃないの」
僕はちょっとムッとして反論した。アユミには通用しないだろうと、もちろん覚悟をして。
「アユミはそういうけど、僕は彼女と付き合いたいと思っていたよ。でも、電話をしてもメールをしても全く返事が返ってこないんだ。それは僕に魅力がなかったってことだろう?」
アユミはアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、ふぅと一息ついて言った。
「あなたが今そう思うのはその人と寝たからでしょう?あなたが本当に彼女を大切に思っていたのなら、彼女は傷つくこともなく、電話にだって出てくれるでしょうし、メールだって返してくれるわよ」
情けないけれど、アユミにそう言われて僕には返す言葉が見つからなかった。
その後はアユミは器用にも「おかあさん」と仲良く世間話をし、僕は彼女たちの会話を傍らでまさに茫然自失という状態で聞いていた。何も頭に入らなかった。アユミの言うように、確かに僕の不誠実な行動があの夜に別れた彼女を傷つけたのだとしたらと申し訳なく思った。
「ねえ、キミは金曜日の夜は空いている?」
アユミはすっかり打ちのめされてしまった憐れな男を孤独にさせないようにとでも思ったのだろうか、唐突にそう言った。それを断る理由はなかったし、それ以前に今の僕には誰かに意見をする資格なんてまるで存在しないように思えた。僕は金曜日の夜に再びアユミと会うことにした。
アユミと別れ、久しぶりに寮の自室で大人しくしていると、これまた久しぶりにジョーズが訪ねて来た。「テスト勉強ははかどっているかい?」と。僕はそれを聞いてハッとした。そういえば二週間後にはテストやらレポートの提出やらをこなさなければならなかったのだ。僕は大学の授業中以外ではまだ一度も開いたことのない教科書を必要数カバンの中に詰めて持参し、ジョーズの家でがむしゃらに勉強を行った。