一章 天界の落ちこぼれ
清流のせせらぎ。神聖なる空間。
屋内だということを忘れさせる程広く、神々しい陽光を入れる吹き抜けの天井は空高い。
白いタイルを敷き詰めた両側の通路の中央には噴水があり、そこから外へ向かって小川が流れる。緑豊かな木々、色鮮やかな花々が手入れされた状態で方々に植えられている。
この色彩豊かな植物と純白の空間は、どこか楽園を思わせる。
そして、通路を歩く二人の者がいた。歳こそ違うがどちらも背中からは白い翼が生えている。
「少し遅れてしまいましたが、補習で埋め合わせは出来ました。あなたにもなんとか行かせてあげられます」
初老の女性が威厳ある声で言う。初老のような見た目でも、実際には何百年も生きている。この天界で、教官といって修業段階である天使達に様々な知識を教える人なのだ。
もう一人の、こちらは見た目こそ一〇代後半の少女が申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、ジナイーダ教官。私の為に特別な計らいをなさってくださって」
「まあ、なんといいましょうか……サリアンナ。あなたは知識の面では見習いの中でもトップ層に入ります。でも実技はからっきし。本当におしい子ね」
「すみません……」
「謝ることではないわ。それは天性。あなたの出生上、仕様がないことですもの」そこまで言ってジナイーダ教官は口をつぐんだ。
「あらごめんなさい。気に触るようなことを言ってしまったわね」
「気にしないでください。事実ですから」
愛想良く笑い、付け加える。
「ですが地上界で沢山のことを吸収し、私にでも出来ることをやり尽くしたいと思っています」
「いい心がけね。それでこそ神様に仕える天使です。頑張りなさい」
「はい。ありがとうございます」
二人は、背丈の三倍はありそうな程大きな扉の前に着いた。光沢のある白石には扉一面に様々な天使が描かれている。
「さあ、しばしのお別れね。地上へ降りた後の把握は大丈夫ですね?」
「はい」
「それでは、あなたの幸運を祈っています」
教官に見送られ、サリアンナは扉の前に立った。横に控えていた衛兵の天使二人が彼女の前で棒を交える。
「汝は誰か」
「第九階級修学生、サリアンナです」
衛兵は彼女を厳しい目で見据え、手元の名簿を見て照査すると棒を解いた。
「通るがよい」
重厚な扉がゆっくりと開かれ、その先にはまた同じ大きさの扉が待ち構えていた。
今度の扉には琥珀色の石に、大勢の人間が縺れて物を取り合ったり手を繋いでいる絵などが様々に描かれている。
琥珀の扉を通るとまたもや扉が現れた。
次は黒い石に黒翼を持った悪魔がそれぞれに物を取り合ったり、殺しあったりしている絵が描かれている。上方で見えにくいが、人間を誘惑している悪魔の姿も描かれていた。
ここには白いローブ纏った老人が待機していた。
サリアンナはその老人の前で静かに両膝を床につけ、頭を下げる。
「そなたに誓約を与える」
老人の腰の高さほどの丸柱上には透明の水晶が鎮座されている。老人がその水晶をひとなですると、内側で黄金の光が渦を巻き、次第にもとの透明に戻る。
閉じていた目を開き、老人は厳かに告げる。
「そなたの誓約は、異性と一〇秒以上見つめ合ってはならぬ」
サリアンナは胸の前で手を組み誓約を受け入れる。
「心得ました」
地上界には悪魔がそこかしこに潜伏して暗躍している。また人間の思念には見えない力が働いており、天使のような外種への影響力もある為、地上にいる間は己を失わないよう一種の縛りを受けるのだ。
老人が手に持っていた杖を床に打ち付ける。
すると彼女の身体の周りに先ほどと同じような黄金色の光がまとう。これで契りは終了した。今の作業でサリアンナが誓約を破った際にはペナルティー現象が発動する。これはその時でないと何が起きるかわからず、実際に受けたことのある天使から彼女が聞いた話では、課題を出されたり、悲運に見舞われたり様々らしい。
最後の扉が音を立てて開くと、冷気をともなった突風が勢いよくなだれこんできた。
立ちあがり、湿っぽい通路を進んでいく。
「異性と一〇秒以上見つめ合ってはならないって……面白い誓約」
確認しようと思い出してついつい笑ってしまった。
地上へ向かうたび誓約は変わる。他の天使とも内容は異なる。サリアンナが前回地上へ降り立った時は『人間に深入りしないこと』と、まともな誓約だった。
時々突飛な誓約に遭遇するが、あの水晶が未来を占って決めることなのであくまでも突飛という訳ではない。
そうこう考えているうちに終着地までやって来た。前方の床から白い煙がもくもくと湧き上がっている。
雲の泉と呼ばれ、天界と地上界を繋ぐ入口である。ここを守る泉の番人は万が一現れた外敵を退ける要であり、また天界から地上へ向かう天使達の橋渡しを担っている。
「目的の場所周辺と繋いである。検討を祈る」
「ありがとうございます」
サリアンナは口元を引き締め、深呼吸をして翼を羽ばたかせると、湧き出る雲の中に身を投げる。視界が真っ白で雲が顔をなぶる中、強風に負けないように強く翼をはためかせた。
徐々に視界が晴れていき、眩い光が目を差す。強くつむった目を恐る恐る開けると、眼下には日本の大都会、東京のビル群が広がっていた。
「また来たんですね」
空を悠々と飛びながら、風と共に気分の高まりを感じる。
地上まで伸びる道しるべの陽光に従って降下を続けた。だが地上界の空気は天界人には酷である。高層ビルの最上階の高さまでくると、より一層汚染された空気に気分が悪くなる。
旋回しながらガラスの内側で忙しそうに仕事をしている人達を見て、サリアンナは微笑む。彼らに今の彼女は見えない。
彼女が飛行以外の天使の能力で唯一使えるのが姿を消すことである。これが使えなくては地上界へ来ることも出来ないので何十年もかけて必死に覚えたのだった。
ビルとビルの間の狭い路地に入って行くと、減速して地面に着地する。羽をしまい、そこからもっと狭そうな、二人分程度の幅しかない細道へ入り、誰もいないのを確認して姿隠しを解除する。そしてまた車が多い大通りへ出た。
歩いているとブティックのガラスに映る自分が目に入る。足を止めて、色々と角度を変えながら自分自身を見てみる。羽がちゃんとしまえてあるのを確認し、
「服装は――」
教官に渡された上下黒のスーツ。何か意図して着せられているのだろうが、この黒という色は身に付けたことのない色でサリアンナはなんだか落ち着かなかった。
「大丈夫ですよね」
チェックを終え、目的の場所であるビルに向かう。
少し来ない間に、地上はまた変化を遂げていた。以前初めて来た時より高いビルが増えているし、人間の服装も違う。通りすがりの若い女の子の色鮮やかで可愛らしい服に見惚れたり、どこからか聞こえてくるテンポのいい音楽に胸が躍る。
興味をあちこちに散漫しながら歩いていると、目的のビルの真下まで着いた。
「すごい……」
五十階建ての高層ビルを振り仰ぎ、上から見るのとはあまりに違う迫力にしばらく立ちつくしていた。
その間も彼女の横をスーツ姿の会社員が足早に通り過ぎる。
自分が通行の邪魔な事に気づいて、サリアンナは気後れしながら歩き出す。戸惑いながら自動ドアを通り、解放感のあるロビーに足を踏み入れた。
『ビルへ入ったらまずは受付へ行きなさい』
教官の指示を頭の中で確認する。こちらに気づいた受付嬢が愛想良く向かえる。
「どんな御用でしょうか」
「あの、財務部のスズキトモミさんに繋いで欲しいのです」
「失礼ですがご名前をお聞きしてもよろしいですか」
「サリアンナです」
「確認しますので、少々お待ちください」
受付の女性が手際よく電話で確認する。
「お待たせしました。確認が取れました。鈴木ですが、こちらまで迎えに来るそうなのでお掛けになってお待ちください」
「ありがとうございます」
進められた通り、ロビーの椅子に腰掛けてしばし待つことにする。周りの人達は会談をしたり、休憩をとって珈琲を飲んでいる。




