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プロローグ

 いつものように母親の怒鳴り声が頭上から降ってくる。

「そんな物、止めなさいと言っているでしょう!」

 叱られている少年は身体を縮こまらせ、手に持っていたバイオリンを胸に抱えた。

「言う事が聞けないの? 勉強の妨げになる物は処分するわよ」

「………」

 フローリングを見つめたまま応えない。反抗的な態度に、少年の母親は溜息をついた。

「こんなことならバイオリンなんて習わせるんじゃなかったわ。才能があるわけでもないんだから、いい加減……」 

 少年は拳をぎゅっと握りしめ、強く目をつむる。言い終わらないうちにその場から逃げるようにして、子供部屋を勢いよく飛び出した。

「ちょっと!」

 母親の呼びかけを無視して玄関を出ると、外は春先の夕日が落ち電灯が点り始めていた。

 犬の散歩をしているおばさんが前から歩いてくる。今の顔を見られないように俯き加減で脇を走り抜ける。しばらくして近所の公園に入ると、少年は足を緩めて立ち止まった。

「うっ……う」

 落ちてくる涙をポロシャツの袖で拭きながら、右手に持っていたバイオリンを見つめた。家を飛び出した時、そのまま持ってきてしまったのだった。

 唇を噛んでしばらくそれを見つめると、まだ華奢な自身の肩にそっと乗せる。瞳を閉じ、弓でゆっくり弦を滑らせていくと静けさに包まれていた公園に、繊細な調べが響き渡っていく。

 ピアノの演奏家である母親の好きな曲であり、彼の好きな曲でもある。あまり有名な曲ではないし、少し難しいが一生懸命覚えてようやく弾けるようになった。その覚えたての大好きな曲を母親に聴いてもらおうと先ほど弾いてみせようとしたところ、あの反応だったのだ。

 思い出すとまた涙腺が緩んでくる。

 他に人のいない公園で一人だけの演奏会を続けていると、何処からともなく女性の歌声がバイオリンの音色にのせられる。

 自然と入って来たその歌声は透き通るように美しく、伸びやかで、音色に鮮やかな色をつけた。図ったかのような絶妙な調和は少年の身体に鳥肌を立たせた。


 弓を滑らせながら目を開けると、いつの間にか前方の小山に少女が座っていた。

 少女は、その先で輝く満月のように幻想的な雰囲気に包まれている。どことなくその雰囲気は歌声にも似ていた。

 思わず演奏を止めて、少年は息をのむ。

 彼女の美しい歌声だけが公園に響き、やがてそれも消えていく。ひと呼吸分だけの沈黙が2人の間に落ちた。

「続きは弾いてくださらないのですか?」

「え……あの」

 突然の出来事に、思わず間抜けな声が出る。

「上手ですね」

 彼女はすらりと立ちあがり、少年の方まで歩んでくると柔らかなほほ笑みを向ける。

 薄暗いなかでも宝石のような彼女のブルーの瞳は煌やかに際立っている。木々の葉擦れの音がして、彼女の滑らかな長い髪も風にそよいだ。少年が茫然と見ていると、少女が少し屈んで彼の顔を見据える。

「なっなんですか」

 驚いて一歩退くが、彼女は真剣な眼差しで見つめ続けている。間近で見る彼女の瞳は、涼しいブルーなのにどこか温かさを宿していた。そして心の奥まで見透かされてしまいそうなくらい力強い。

 うろたえていると、少女はにっこりと笑う。

「あなたの旋律は私の心を温かくしてくれる。どうかあなたのその温かさをいつまでも忘れないでください」

 唐突過ぎる言葉の意味がよくわからない。それでも、自分に向けられる優しい表情は、少年の胸を優しく包んだ。

「もう一度、弾いてくださいますか?」

 少女のお願いに、少年も笑顔で快く受ける。

「いいよ」

 先ほどと同じ曲を彼女に弾いてみせる。すると、続けて少女も美しい歌声をメロディーに重ねる。

 観客もいない、ずっと独りだった演奏会が今は二人。知り合ったばかりなのに少女といる空間は楽しくて、夢を見ているようかのような心地よさが身体の中を満たしていく。

 楽しそうに歌う彼女の横顔を見て、自然と口元が和らぎ少年は呟いていた。


「天使みたい……」


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