アスリート 1
「二月八日、午前九時三分、ご臨終です」
ポタ。靴の上に涙が一粒こぼれ落ちた。どんなに辛くても、涙だけは見せないようにしていた。もう、我慢できなかった。
ポタ、ポタポタ、ポタ。久しぶりに泣いたからか、しゃっくりも止まらなくなっていた。
「娘さん、これまで本当によく頑張りました。お母さんもきっと、安心しておられるでしょう」
主治医がそう告げると、深く頭を下げて看護師のもとに駆けて行った。
「りりか。ありがとな」
父親の目は乾いている。危篤の知らせを聞き、職場から急いで駆けつけてくれた。その三分後のことだった。
「ゆうじさんも、ありがとうございます」
父親が言うと、パンパンに目を腫らしたゆうじさんも、お礼を言いながら父親に向かって頭を下げる。ゆうじさんは、母親のお兄さんであり、そして、私のサッカーコーチでもある。
ゆうじさんが、私の肩をポン、と一回叩いた。
「りりか、よく頑張ったな」
それだけ言うと、ゆうじさんは病室を出て行った。
卒業式まで残り一週間となった。母親が亡くなってからは、葬儀のことや家のことなど、色々とバタバタしており、学校のことなど考える余裕もなかった。気づけば、高校生活が終わりを迎えようとしていた。
「りりか! 久しぶり。落ち着いた?」
真弓が階段を小走りで上りながら近づいて来る。真弓は、小学生の頃からの親友であり、学校で唯一私の母親のことを知っている。
「おかげさまで。葬儀の時は、ありがとう」
「当たり前だよ。私も、おばさんのこと大好きだったから」
照れながら言う真弓を見て、また涙腺が緩む。
「あ、そういえば。私、四月から東京行くことになったの」
真弓の口から出た言葉に、思わず開いた口が塞がらなくなる。
「え。東京!?」
「そうなの。ずっと言えてなかったんだけど、東京の大学に行くことになって」
顔を少し赤くしながら話す真弓が、眩しかった。
「りりか、コーチやってみないか」
いきなり正座になったと思ったら、予想もしていなかった言葉がゆうじさんから発せられる。
「コーチ、ですか?」
「ああ。りりか、高校卒業してからの進路、決まってないんだろ? 決まるまでの間でも良いから、ウチでコーチやらないか?」
頼む、とゆうじさんが手を合わせる。本当は人手が足りていないわけではないのだろう。きっと、私のことを心配して提案してくれたんだ。
「やります」
というか、やらせてください。心の中で小さく言う。本当は、昨日も一日中ネットで割りの良いバイトを探していた。でも、なかなか見つからなかった。どうせなら、大好きなサッカーをして過ごしていた方がマシな気がした。
「本当に? いや〜〜、嬉しいなあ」
ゆうじさんが満面の笑みを浮かべる。そして、カバンの中から書類の入ったファイルを取り出した。
「これ、契約書」
そう言って、そのファイルを私に差し出した。
「ここに、給料のこととか色々書いてあるから、お父さんにも確認してもらって。もしこれで良ければ、サインしてウチに持って来てほしい」
唖然としながら、とりあえず書類を受け取る。
「わかりました。伝えときます」
お金までもらえるとは、想定外だった。ゆうじさんは、私をサッカー教室に無料で通わせてくれていたのだ。我が家には働き手が父親しかいなかったから、習い事などできる余裕がなかった。そんな時、地元でサッカー教室を開いていたゆうじさんが声をかけてくれた。そこが、私の唯一の楽しめる場所だった。だから、今回の提案は、その恩返しに、ということかと思っていた。しかし、どうやらまたお世話になることになりそうだ。




