娘 1
ドキッ。心臓の音が聞こえた気がした。目が、合った。一瞬だったが、時が止まったような気がした。
「佐賀選手、今日はご講演いただき、ありがとうございました! 本学の生徒にとっても、大変貴重な経験になりました。皆さん、佐賀選手にもう一度盛大な拍手を!」
担任の戸川先生の興奮した声で現実に引き戻される。
佐賀選手。佐賀りりか選手。日本女子サッカー選手の一人だそうだ。帰宅部で友達もいない、ただ本が好きな自分とは縁のない世界。失礼ながら、今日の講演で初めて知った。
私が通う川波学園では、毎年有名人が講演に来るというイベントがある。高校三年生、最後の年に来たのが、佐賀選手だった。発表された時のクラスのどよめき具合から、すごい人が来るんだなと思ったことを、思い出した。
「佐賀選手のご入場です! 拍手でお迎えください!」
拍手喝采の中、佐賀選手が手を振りながら体育館に入ってきた。
ドキッ。真横を通り過ぎた佐賀選手を見上げた瞬間、全身から振り撒かれた輝きに思わず息を止めてしまった。
「佐賀選手は、普段どういったことを心がけていますか?」
「そうですね、監督とかチームメイトとか、とにかく周りのことを忘れないっていうことですかね。自分が競技を続けられているのも、ひとえに周りのお陰なので。もう嫌だな、練習行きたくないな、っていう日は、特にこのことを思い出すようにしてます。そうすると、自然と力が入るんです」
爽やかな笑顔。眩しい。
「佐賀選手のこと、テレビとかで見たことあるよって人?」
ワーーと言いながら、周りが手を挙げ始める。佐賀選手がニコニコしながら体育館を見渡す。
気まずくて、目線を下に向けようとした瞬間だった。
あ。こっちを見た佐賀選手と一瞬目が合った。周りがみんな挙手をしている中、キョトンとしている自分がかえって目立ってしまったのかもしれない。
講演中は横顔しか見えていなかった佐賀選手の顔。あの目。一緒だ、と思った。一瞬だったが、周りの音も聞こえなくなるくらい、何もかもが止まったように感じた。その余韻のまま、いつの間にか講演が終わっていた。
「佐賀にパスが回る。ここで決めれば逆転。逆転。決めた〜〜! ラストは佐賀! 日本の誇り、佐賀が決めた〜〜!」
タッタッタ。母が階段を上る音が聞こえる。慌てて音量をゼロにする。
「えりちゃん? 夜ご飯だけど、食べれる?」
「あ、うん。すぐ行くね」
ノートの下に隠したスマホを、さらに腕で隠して母の方を見る。
「じゃあ、下で待ってるから。冷めないうちに来なさいね」
ドアが閉まり、再び階段を駆け降りる音を聞いてから、再びスマホを開き、音量を戻す。
「決めなきゃって思いよりも、ここで決めたいっていう気持ちが強かったですかね。そう思わせてくれたチームメイトや応援に来てくれたファンの方々への感謝の気持ちでいっぱいです。みんな、ありがとう!」
画面の中には、あのキラキラした笑顔で手を振る佐賀選手がいる。さっきまで体育館にいたとはとても思えない。
クラスメイトや下級生が、講演の後に佐賀選手と握手やらサイン会やらをしているのを遠くに見ながら、静かに去ることしかできなかった。
これまでにも、有名な人の話を聞いたり、街で偶然見かけたりしたことはあった。でも、自分とはあまりに遠い存在すぎて、冷めた感情しか湧かなかった。
今日の佐賀選手も、その一人になるはずだった。




