第十三章:若き獅子たちの計算
その日、ガイウス・オクタウィアヌスの邸宅の庭園には、三人の若者が集っていた。
一人は、この家の主である、カエサルの大甥、ガイウス・オクタウィアヌス。
病弱な見た目とは裏腹に、その瞳には年齢にそぐわぬ冷徹な光を宿している。
一人は、彼の無二の親友、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ。頑健な体躯を持つ、天性の軍人。
そしてもう一人は、騎士階級出身のガイウス・マエケナス。
柔和な物腰の中に、人の心の機微を見抜く、鋭い観察眼を隠している。
彼らは、次代のローマを担うべく、運命によって引き寄せられた、若き獅子たちだった。
ローマは、この数日の間に、二つの巨大な衝撃に揺さぶられた。
一つは、東方からもたらされた「来た、見た、勝った」という、雷光のような勝利の報せ。
もう一つは、ローマの門前で繰り広げられた、反乱軍団が涙と共にカエサルに降伏したという、にわには信じがたい、魔術のような光景。
「…ゼラでの戦いぶりは、まさしく神業だ」
最初に口火を切ったのは、アグリッパだった。
彼の声には、軍事を志す者としての、純粋な畏敬の念がこもっている。
「常識外れの強行軍で、敵の計算を完全に破壊する。そして、敵が最も愚かな一手を打つであろう場所と時を完璧に予測し、万全の態勢で待ち構える。兵法の教科書があるならば、その最初の頁を飾るにふさわしい、完璧な戦いだ。力と計算が、ここまで見事に融合した戦いを、俺は他に知らない」
アグリッパは、庭園の敷石を戦場に見立て、小石を駒のように動かしながら、ゼラでのカエサルの動きを再現してみせる。
彼の頭の中では、兵士の疲労度、補給線、地形の優位性といった、無数の変数が渦巻いているのだろう。
彼が見ているのは、軍事の天才としての大叔父の姿だった。
「確かに、ゼラの勝利は素晴らしい」
そのアグリッパの熱弁を、マエケナスが、優雅な手つきでワインを弄びながら、静かに制した。
「だが、アグリッパ。君は、より重要で、より恐ろしい戦いを見逃しているのではないかな?」
「何だと?」
「カンプス・マルティウスでの戦いのことさ」
マエケナスは、その目に、愉しむような、それでいて底知れないものを見るかのような、複雑な光を浮かべた。
「考えてもみたまえ。数千の、武装した歴戦の兵士たちを、武器を一切使わずに、たった一人の、丸腰の男が屈服させたのだ。それも、ただ屈服させただけではない。彼らの怒りを、より熱狂的な忠誠心へと完全に作り変えてしまった。…あれは、もはや戦争ではない。魔術か、あるいは、神々の業だよ」
マエケナスは、軍事的な変数には興味を示さなかった。彼が分析していたのは、人の心だ。
「最初に『戦友』と呼びかけて彼らの誇りをくすぐり、絆を思い出させる。次に、彼らの要求をすべて呑むことで、彼らが振り上げた拳のやり場をなくさせる。そして最後に、『市民諸君』という、たった一言の、しかし最も残酷な刃で、彼らの魂を、アイデンティティを、根こそぎ切り裂く。…一つ一つの所作、一つ一つの言葉が、完璧に計算され尽くした、壮大な舞台演劇のようだった。人の心をここまで自在に操れる人間を、私は他に知らない」
マエケナスが見ているのは、人心掌握術の天才としての大叔父の姿だった。
アグリッパは軍事の「硬」の力を、マエケナスは人心の「軟」の力を、それぞれに分析し、感嘆していた。だが、それまで黙って二人の議論を聞いていたオクタウィアヌスが、静かに口を開いた。
「…二人とも、正しい。だが、どちらも、本質の一部分しか見ていない」
その冷たい声に、アグリッパとマエケナスは、思わず口をつぐんだ。
オクタウィアヌスは、ゆっくりと立ち上がると、二人の間を歩き、ローマの街並みを見渡せる場所へと進んだ。
「アグリッパ、君はゼラでの『力』の行使に感嘆する。マエケナス、君はローマでの『心』の掌握に感嘆する。だが、なぜ、大叔父がその両方を行い、そして成功させることができたのか。その理由を考えたことは?」
彼は、二人に問いかける。
「答えは、単純だ。ゼラでの圧倒的な勝利という『力』の証明があったからこそ、彼はローマで、兵士たちの『心』を掌握する舞台に立つことができたのだ。もし彼がゼラで敗北していたら?あるいは、戦いが長引いていたら?ローマの兵士たちは、彼を『無敵の将軍』とは見なさず、ただの『約束を破った男』として、軽蔑し、そして殺していただろう」
オクタウィアヌスの言葉は、二つの全く異なる事象を、一つの冷徹な因果関係で結びつけてみせた。
「逆に、彼がローマの反乱を力で鎮圧していたら?アントニウスのように、兵士たちを殺していたら?彼は、最強の軍団の忠誠を永遠に失い、アフリカで待ち構えるカトやスキピオに、敗れ去っていただろう」
彼は、ゆっくりと、二人の友人に向き直った。
その病弱そうな少年の中に宿る、底知れない政治的知性が、その場の空気を支配していた。
「ゼラでの勝利は、『武力』。ローマでの降伏は、『人心』。大叔父は、この二つを完璧に連動させ、互いを補強しあう一つの巨大な『システム』として動かしている。彼の戦場は、もはや小アジアやローマといった、物理的な土地ではない。人々の頭の中、そのものなのだ」
アグリッパとマエケナスは、言葉を失った。彼らがそれぞれに見ていた天才の側面を、この友人は、一つの巨大な戦略として、完璧に理解していた。
だが、オクタウィアヌスは、そこで言葉を止め、微かに首をかしげた。
「…だが、分からない」
彼の声には、初めて、純粋な疑問の色が浮かんでいた。
「これほどの力、これほどの計算。その全てを、大叔父は、一体何のために行っているのだ?ただ内乱に勝利するため?それだけのために、これほどの手間をかける人物ではないはずだ。彼は、このローマを、この共和国を、一体どこへ導こうとしているのだろう…?」
その問いに、答えられる者はいなかった。
三人の若者は、沈黙した。
彼らは、今、自分たちが生きている時代が、歴史的な大変革期にあること、そして、その中心に、カエサルという名の、常人には計り知れない怪物がいることを、改めて痛感していた。
そして、オクタウィアヌスは、自らの内に生まれた、その根源的な問いの答えを、近々、その怪物本人と直接対峙する中で、見つけ出すことになるのを、まだ知らなかった。
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