第十二章:涙の降伏
「――市民諸君」
カエサルが放ったその一言は、物理的な質量を伴って、マルスの野を支配したかのようだった。
最強を誇った軍団の、鋼鉄の規律と、揺るぎない誇りが、音を立てて砕け散る。
俺は、その瞬間を、確かにこの目で見た。
兵士たちの顔から、血の気が引いていく。
ある者は、信じられないというように、隣の戦友と顔を見合わせる。
ある者は、まるで呪いでもかけられたかのように、その場に立ち尽くす。
そして、歴戦の古兵たちの目から、一筋、また一筋と、涙が流れ始めた。
それは、悔しさや、悲しみの涙ではない。 自らの存在価値そのものを、敬愛する主君によって、根こそぎ奪われた者の、魂の慟哭だった。
やがて、一人の百人隊長が、その場に崩れ落ちた。
彼は、兜を地面に叩きつけると、子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。
「閣下…!カエサル様…!どうか、お許しを…!」
その声が、引き金だった。 一人、また一人と、兵士たちが膝を突き、武器を地に置いた。
マルスの野を埋め尽くしていた、あの威圧的なまでの沈黙は、今や、数千の男たちの嗚咽と、許しを乞う絶叫に変わっていた。
先ほどまで国家を脅迫していた反乱軍は、もはやどこにもいなかった。そこにいたのは、敬愛する父親に勘当された、迷子の子供たちの群れだった。
「我々は、間違っておりました!どうか、そのお言葉を、お取り下げください!」
「我々は、あなたの兵士です!市民などでは、断じてない!」
俺は、その光景を、畏怖の念をもって見つめていた。
計算が、通用しない。 金銭でも、土地でもない。彼らが渇望しているのは、ただ一つ。
「カエサルの兵士である」という、アイデンティティ。
その一点を、カエサルは的確に見抜き、奪い去り、そして今、彼らの魂を完全に支配下に置いていた。
その時、第十軍団の最前列にいた、一人の百人隊長が、よろめきながら進み出た。
その男は、顔中を涙と鼻水で濡らしながらも、カエサルの前で、最後の誇りを振り絞るように叫んだ。
「…罰を!我々には、罰が必要です!我々は、あなた様を裏切った!ならば、それに値する罰を、お与えください!」
彼は、自らの胸を叩いた。
「十分の一刑すら、甘んじてお受けします!十人に一人が殺されるクジを引くことになろうと、構わない!ですから、どうか…!我々を、あなたの戦友として、死なせてください…!」
十分の一刑。それは、反乱や敵前逃亡を犯した部隊に課せられる、ローマ軍で最も過酷で、最も不名誉な処罰だ。
仲間が、仲間を籤で選び、石や棍棒で撲殺する。
その残虐な刑罰を、彼らは、自ら望んで申し出たのだ。
ただ、カエサルとの絆を取り戻すためだけに。
俺の隣で、オッピウスが「…信じられない」と呟いた。
バルブスは、そのあまりに人間的な光景に、ただ絶句している。
これが、ガイウス・ユリウス・カエサルの、本当の力。 人の心を、ここまで完全に掌握する、魔術的なまでのカリスマ。
カエサルは、兵士たちの慟哭が最高潮に達するのを、冷徹なまでの計算で、じっと待っていた。
そして、彼が演壇からゆっくりと降りると、潮が引くように、兵士たちの間に一本の道が開かれた。
彼は、涙ながらに許しを乞う百人隊長の前に立つと、その肩に、そっと手を置いた。
その表情は、先ほどの冷徹な独裁官のものではなく、道を誤った息子を諭す、厳格で、しかし慈愛に満ちた、父親の顔に変わっていた。
「…顔を上げろ」
カエサルの、静かで、しかし温かみのある声が響いた。
「諸君らの涙が、私に、諸君らが犯した過ちの大きさと、そして、私への忠誠が偽りではなかったことを、教えてくれた」
彼は、ゆっくりと兵士たちを見渡した。
「私は、諸君を許そう。もはや、市民諸君とは呼ばん。そして、罰も不要だ。カエサルの兵士が、カエサルの兵士の血を流すことなど、私は望まん」
その瞬間、マルスの野は、歓喜の爆発に包まれた。
兵士たちは、武器を放り出し、抱き合って喜び、カエサルの名を、神の名のように叫んだ。勘当を解かれた息子たちの、心からの歓声だった。
カエサルは、その歓声が少し収まるのを待って、続けた。
「約束通り、報酬も、土地も、すべて与えよう」 彼は、そこで一度、言葉を切った。そして、まるで、今、思いついたかのように、こう付け加えた。
「…アフリカでの最後の戦いが、間もなく始まる。それは、この内乱で、最も過酷で、最も血なまぐさい戦いになるだろう。私は、もはや除隊した諸君らに、それを強制することはできん。…だが、もし、この私と共に、最後の勝利を分ち合いたいと願う者がいるのなら…」
彼は、兵士たちの顔を、一人一人、見つめた。
「最後の戦場へ、私と共に来ることを、許可しよう」
許可する、と彼は言った。
それは、もはや命令ではなかった。与えられる、恩寵だった。
兵士たちの目から、再び涙が溢れた。だが、それは、先ほどの絶望の涙ではない。
与えられた名誉と、再びカエサルの兵士として戦えることへの、熱狂的な、歓喜の涙だった。
「カエサル!我々は、あなたの兵士だ!」
「アフリカへ!どこへなりと、お供します!」
地鳴りのような歓声が、ローマの空に響き渡った。
反乱は、終わった。 いや、終わったのではない。
カエサルは、反乱という名の、兵士たちの絶望的なエネルギーを、自らへの、より強固で、より熱狂的な、忠誠心へと、完璧に変換してみせたのだ。
歓喜の渦の中心で、カエサルは、俺たちのほうへ、静かに歩み寄ってきた。
その表情からは、先ほどの慈愛に満ちた父親の顔は消え、いつもの、底の知れない支配者の顔に戻っていた。
俺は、その光景をただ、呆然と見つめていた。
計算は、人を動かすことができる。
だが、人の魂を、ここまで完全に掴み、揺さぶり、そして作り変えることは、断じてできない。
この男が持つ力は、俺が理解する理の、遥か外側にあった。
そして、その計り知れない力こそが、これから、ローマの全てを、そして世界の全てを、塗り替えていくのだということを、俺は、この時、確信した。
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