表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
内乱記異聞  作者: 奪胎院
第五部 ゼラの戦い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

97/113

第十二章:涙の降伏

「――市民諸君クゥイリーテース


カエサルが放ったその一言は、物理的な質量を伴って、マルスの野を支配したかのようだった。


最強を誇った軍団の、鋼鉄の規律と、揺るぎない誇りが、音を立てて砕け散る。


俺は、その瞬間を、確かにこの目で見た。


兵士たちの顔から、血の気が引いていく。


ある者は、信じられないというように、隣の戦友と顔を見合わせる。


ある者は、まるで呪いでもかけられたかのように、その場に立ち尽くす。


そして、歴戦の古兵ヴェテランたちの目から、一筋、また一筋と、涙が流れ始めた。


それは、悔しさや、悲しみの涙ではない。 自らの存在価値そのものを、敬愛する主君によって、根こそぎ奪われた者の、魂の慟哭だった。


やがて、一人の百人隊長が、その場に崩れ落ちた。


彼は、兜を地面に叩きつけると、子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。

「閣下…!カエサル様…!どうか、お許しを…!」


その声が、引き金だった。 一人、また一人と、兵士たちが膝を突き、武器を地に置いた。


マルスの野を埋め尽くしていた、あの威圧的なまでの沈黙は、今や、数千の男たちの嗚咽と、許しを乞う絶叫に変わっていた。


先ほどまで国家を脅迫していた反乱軍は、もはやどこにもいなかった。そこにいたのは、敬愛する父親に勘当された、迷子の子供たちの群れだった。


「我々は、間違っておりました!どうか、そのお言葉を、お取り下げください!」


「我々は、あなたの兵士です!市民などでは、断じてない!」


俺は、その光景を、畏怖の念をもって見つめていた。


計算が、通用しない。 金銭でも、土地でもない。彼らが渇望しているのは、ただ一つ。


「カエサルの兵士である」という、アイデンティティ。


その一点を、カエサルは的確に見抜き、奪い去り、そして今、彼らの魂を完全に支配下に置いていた。


その時、第十軍団の最前列にいた、一人の百人隊長が、よろめきながら進み出た。


その男は、顔中を涙と鼻水で濡らしながらも、カエサルの前で、最後の誇りを振り絞るように叫んだ。


「…罰を!我々には、罰が必要です!我々は、あなた様を裏切った!ならば、それに値する罰を、お与えください!」

彼は、自らの胸を叩いた。


「十分の一刑デキマティオすら、甘んじてお受けします!十人に一人が殺されるクジを引くことになろうと、構わない!ですから、どうか…!我々を、あなたの戦友コンミリートーとして、死なせてください…!」


十分の一刑。それは、反乱や敵前逃亡を犯した部隊に課せられる、ローマ軍で最も過酷で、最も不名誉な処罰だ。


仲間が、仲間をくじで選び、石や棍棒で撲殺する。


その残虐な刑罰を、彼らは、自ら望んで申し出たのだ。


ただ、カエサルとの絆を取り戻すためだけに。


俺の隣で、オッピウスが「…信じられない」と呟いた。


バルブスは、そのあまりに人間的な光景に、ただ絶句している。


これが、ガイウス・ユリウス・カエサルの、本当の力。 人の心を、ここまで完全に掌握する、魔術的なまでのカリスマ。


カエサルは、兵士たちの慟哭が最高潮に達するのを、冷徹なまでの計算で、じっと待っていた。


そして、彼が演壇からゆっくりと降りると、潮が引くように、兵士たちの間に一本の道が開かれた。


彼は、涙ながらに許しを乞う百人隊長の前に立つと、その肩に、そっと手を置いた。


その表情は、先ほどの冷徹な独裁官のものではなく、道を誤った息子を諭す、厳格で、しかし慈愛に満ちた、父親の顔に変わっていた。


「…顔を上げろ」

カエサルの、静かで、しかし温かみのある声が響いた。


「諸君らの涙が、私に、諸君らが犯した過ちの大きさと、そして、私への忠誠が偽りではなかったことを、教えてくれた」


彼は、ゆっくりと兵士たちを見渡した。

「私は、諸君を許そう。もはや、市民諸君クゥイリーテースとは呼ばん。そして、罰も不要だ。カエサルの兵士が、カエサルの兵士の血を流すことなど、私は望まん」


その瞬間、マルスの野は、歓喜の爆発に包まれた。


兵士たちは、武器を放り出し、抱き合って喜び、カエサルの名を、神の名のように叫んだ。勘当を解かれた息子たちの、心からの歓声だった。


カエサルは、その歓声が少し収まるのを待って、続けた。

「約束通り、報酬も、土地も、すべて与えよう」 彼は、そこで一度、言葉を切った。そして、まるで、今、思いついたかのように、こう付け加えた。


「…アフリカでの最後の戦いが、間もなく始まる。それは、この内乱で、最も過酷で、最も血なまぐさい戦いになるだろう。私は、もはや除隊した諸君らに、それを強制することはできん。…だが、もし、この私と共に、最後の勝利を分ち合いたいと願う者がいるのなら…」


彼は、兵士たちの顔を、一人一人、見つめた。


「最後の戦場へ、私と共に来ることを、許可しよう」


許可する、と彼は言った。


それは、もはや命令ではなかった。与えられる、恩寵だった。


兵士たちの目から、再び涙が溢れた。だが、それは、先ほどの絶望の涙ではない。


与えられた名誉と、再びカエサルの兵士として戦えることへの、熱狂的な、歓喜の涙だった。


「カエサル!我々は、あなたの兵士だ!」


「アフリカへ!どこへなりと、お供します!」


地鳴りのような歓声が、ローマの空に響き渡った。


反乱は、終わった。 いや、終わったのではない。


カエサルは、反乱という名の、兵士たちの絶望的なエネルギーを、自らへの、より強固で、より熱狂的な、忠誠心へと、完璧に変換してみせたのだ。


歓喜の渦の中心で、カエサルは、俺たちのほうへ、静かに歩み寄ってきた。


その表情からは、先ほどの慈愛に満ちた父親の顔は消え、いつもの、底の知れない支配者の顔に戻っていた。


俺は、その光景をただ、呆然と見つめていた。


計算は、人を動かすことができる。


だが、人の魂を、ここまで完全に掴み、揺さぶり、そして作り変えることは、断じてできない。


この男が持つ力は、俺が理解することわりの、遥か外側にあった。


そして、その計り知れない力こそが、これから、ローマの全てを、そして世界の全てを、塗り替えていくのだということを、俺は、この時、確信した。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ