第十一章:市民諸君(クゥイリーテース)
東方での戦後処理を異例の速さで完了させ、ローマへと帰還した我々を待っていたのは、市民の歓迎でも、元老院の祝辞でもなかった。
一つの「軍隊」が、我々を待ち構えていた。
カエサルがガリアで鍛え上げ、ファルサルスで共和派主力を打ち破った、世界最強の兵士たち。
その中核には、第十軍団の鷲獅子旗が、誇らしげに、そして不気味に翻っていた。
彼らは、カンパニアの駐屯地を勝手に離れ、武装したままローマへ向けて「進軍」し、市の神聖な境界線の外、カンプス・マルティウス(マルスの野)に陣取っていた。
それは、もはや請願や抗議ではない。国家そのものに対する、公然とした反逆であり、無言の脅迫だった。
「…閣下、お待ちください!危険すぎます!」
百人隊長たちが、カエサルの前に立ちふさがった。
オッピウスたちが手配したわずかな護衛兵を除けば、我々の手元に戦力はない。
一方、相手は、怒りと不満を臨界点まで高めた、歴戦の軍団だ。
カエサルがただ一言、彼らの気に障ることを口にすれば、次の瞬間には、我々は肉塊に変わっているだろう。
計算するまでもなく、無謀だった。
「案ずるな」
カエサルは、兵士でもなく、独裁官でもなく、ただ一人の市民のように、簡素な紫の縁取りのあるトーガをまとっているだけだった。
「彼らは、俺を殺しはしない。殺せば、彼らの要求を叶えられる人間が、この世からいなくなるのだからな」
彼は、そう言うと、護衛を下がらせ、ただ一人、マルスの野に設けられた演壇へと、ゆっくりと歩いていった。
俺は、オッピウスやバルブスと共に、その狂気じみた光景を、ただ遠巻きに見守ることしかできなかった。
カンプス・マルティウスを埋め尽くす、数千の兵士たち。
彼らは、決して統制を失った暴徒ではなかった。
一糸乱れぬ隊列を組み、その武具は磨き上げられ、静寂の中に、圧倒的な圧力をみなぎらせていた。
彼らの視線が、演壇に登るカエサルという一点に、槍のように突き刺さる。
カエサルは、演壇の中央に立つと、しばらくの間、何も言わずに彼らを見渡した。
兵士たちは、罵声を浴びせるでもなく、ただ冷たい沈黙で、主君の言葉を待っていた。
やがて、カエサルは、静かに口を開いた。
その声は、決して大きくはなかったが、奇妙なほどによく通り、マルスの野の隅々にまで響き渡った。
「――戦友諸君」
その一言で、兵士たちの間に張り詰めていた空気が、わずかに揺らいだ。
それは、彼らが十年以上も聞き慣れた、カエサルが戦場で、勝利の後に、そして苦難の中で、常に自分たちに語りかけてきた、親愛のこもった呼び名だった。
「諸君らの顔を、俺はよく覚えている。ガリアの凍てつく森で、ブリタンニアの荒波の中で、そしてアレシアの絶望的な包囲戦で、常に俺の隣には、諸君らがいた。諸君らの勇気が、ローマにガリア全土をもたらしたのだ」
カエサルの言葉が、兵士たちの記憶を呼び覚ます。
ある者は、固く結んでいた唇をわずかに緩め、ある者は、懐かしむように、そっと目を伏せた。
「ルビコンを渡る、あの日。国家に背を向けられ、ただ一人、賽を投げた俺に、諸君らはついてきてくれた。そして、ファルサルスでは、数に勝る敵を打ち破り、この内乱を終わらせてくれた。ローマの民が、今、平和を享受できているのは、すべて諸君らの功績だ」
彼は、兵士たちの功績を、一つ一つ、丁寧に称えた。
それは、彼らの誇りをくすぐり、彼らが忘れていた「絆」を思い出させる、巧みな語り口だった。
兵士たちの間に漂っていた敵意は、いつしか困惑と、そして期待の色に変わり始めていた。
そうだ、我らが将軍は、やはり我々のことを理解してくれている、と。
そして、カエサルは、ゆっくりと、しかしはっきりとした口調で言った。
「諸君らの要求は、聞いた。そして、そのすべてが、正当なものだと、俺は認める」
兵士たちの間に、どよめきが走った。
「よって、俺は、今この場で、諸君らの要求を、すべて受け入れよう。長きにわたる軍務からの、名誉ある除隊を許可する。そして、俺が約束した、全ての報酬…退職金も、土地も、一つ残らず、諸君らに与えることを、ここに誓う」
兵士たちは、顔を見合わせた。勝利の雄叫びを上げる者は、一人もいない。
あまりに、あっけない幕切れだった。自分たちが命を懸けて脅し取ろうとしたものを、カエサルは、いとも容易く、その全てを差し出した。
彼らは、梯子を外されたような、奇妙な感覚に襲われていた。
演壇上のカエサルは、そこで一度、言葉を切った。 そして、彼のまとう空気が、がらりと変わった。
先ほどまでの親愛と温情は消え失せ、代わりに、絶対零度の、氷のような冷徹さが、その場を支配した。
彼は、兵士たちを見渡すと、先ほどとは全く違う、他人行儀で、突き放すような響きを持つ、ある言葉を口にした。
「――市民諸君」
その瞬間、数千の兵士たちの動きが、完全に止まった。
マルスの野は、死んだような静寂に包まれた。 俺は、その一言が持つ、恐るべき破壊力を理解し、背筋が凍るのを感じた。
「戦友」ではない。「市民」。 それは、将軍が、自らの兵士にかける言葉ではない。
政治家が、フォルムに集まった、名も知らぬ大衆にかける言葉だ。それは、彼と兵士たちを繋いでいた、血よりも濃い絆を、一方的に、そして永遠に断ち切る、訣別の響きを持っていた。
カエサルは、その冷たい声で、最後の一撃を放った。
「諸君らの望みは、叶えられた。だが、よく聞け。もはや諸君は、私の兵士ではない。アフリカで、ローマの敵が最後の大軍を編成しているが、それも、諸君らには関係のないことだ。諸君らは、ただの**『市民諸君』**なのだからな」
その言葉は、剣よりも鋭く、兵士たちの魂を、その根幹から切り裂いた。
彼らが求めていたのは、金と土地だけではなかった。
彼らが本当に求めていたのは、カエサルの兵士として、この内乱を最後まで戦い抜き、歴史的な勝利を分かち合うという、最高の「名誉」だったのだ。
カエサルは、その名誉を、彼らから完全に剥奪した。
報酬は与える。だが、お前たちは、もはや俺の仲間ではない、と。
最後の戦いに、お前たちの居場所はない、と。
俺は、兵士たちの顔に浮かぶ表情を見た。
それは、怒りではなかった。 悲しみでもなかった。
ただ、自分たちの存在そのものを、そのアイデンティティを、完全に否定された者だけが浮かべる、絶対的な、絶望だった。
計算では決して導き出せない、人の心の、完全な崩壊が、そこにあった。
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