第十章:動き出す歯車
カエサルへSOSの使者を送ってから、十数日が過ぎた。
その間も、ローマの状況は悪化の一途をたどっていた。
アントニウスはフォルムでの虐殺の後、半ば自暴自棄に陥り、公務を放棄して私邸に引きこもる日が増えた。
権力の空白が生まれた首都では、物価は高騰を続け、市民の不満はもはや怒りを通り越して、諦観と無気力な空気に変わりつつあった。
そしてカンパニア地方からは、第十軍団がローマへ向けて進軍を開始した、という未確認情報までが流れ始めていた。
パラティヌスの丘にあるオッピウスの書斎は、カエサル派にとって最後の砦であり、同時に、出口のない監獄のようでもあった。
レピドゥスは、無力感に苛まれ、日に日にその顔をやつれさせていた。
バルブスは、刻一刻と崩壊していくローマの財政状況を前に、打つ手なく眉間の皺を深くするばかり。
そして、この状況を誰よりも冷静に分析しているオッピウス自身もまた、その唇を固く結び、沈黙する時間が増えていた。
彼らは、自分たちが築き上げてきたものが、砂上の楼閣のように崩れ落ちていくのを、ただ待つことしかできなかった。
その日、三人が重苦しい空気の中で対策を練っていた時だった。
一人の伝令が、衛兵の制止を振り切るようにして、部屋になだれ込んできた。その男の体は汗と埃にまみれていたが、その瞳には、これまでの凶報を運んできた者たちとは明らかに違う、確かな光が宿っていた。
「ご報告します!カエサル閣下からの、ご指令です!」
男が差し出したのは、カエサルの印章で固く封じられた、一巻のパピルスだった。
三人の間に、電撃のような緊張が走った。
早すぎる。
小アジアの戦況すらまだ不明なのだ。この返信の異常な速さは、一体何を意味するのか。
バルブスが、震える手で封を切る。三つの頭が、そのパピルスを覗き込んだ。
そこに記されていたのは、彼らが送った嘆願への、完璧な回答だった。
ヒスパニア、ローマ市民、アントニウス、そして反乱を起こした兵士たちへ。
複数の危機に対する、的確かつ大胆な指令の数々。それは、絶望の淵にいた彼らにとって、天から差し伸べられた一筋の光だった。
「…なんと」
レピドゥスが、かすれた声で呟いた。
「東方の戦場にいながら、まるで、このローマの惨状を、ご自身の目で見ているかのようだ…」
「いや、見ているのだ」
オッピウスが、静かに、しかし確信を込めて言った。
「カエサル閣下は、我々が報告した事実の裏にある、問題の本質を完全に見抜いておられる。そして、我々がどう動くべきか、その最適解を示してくださった。…もはや、迷っている時間はない」
その瞬間、書斎の空気は一変した。
先ほどまで部屋を支配していた無力感と絶望は消え失せ、代わりに、鋼のような硬い意志と、明確な目的意識が漲り始めた。止まりかけていた歯車に、再び油が注がれたのだ。
「レピドゥス殿」
オッピウスの声が、鋭く響いた。
「直ちに元老院を招集してください。カエサル閣下からの正式な委任であると宣言し、布告を出すのです。市民の支持を取り付け、アントニウスを合法的に無力化する。あなたにしかできん役目ですぞ」
「…うむ、わかった!」
レピドゥスは、力強く頷いた。
彼の瞳には、法務官としての誇りと自信が戻っていた。彼は、もはや混乱にうろたえる名門貴族ではない。
カエサルの威光を背に、ローマの「表」の秩序を再建する、法の執行者だった。
彼は、すぐさま部屋を飛び出していった。
「バルブス」
オッピウスは、次に盟友に向き直った。
「指令にあった通りの金額を、カエサル閣下の個人資産から引き出す。そして、護衛をつけ、カンパニアへ。一刻も早く、兵士たちの手元へ届けるのだ。お主の経済網の、真価を見せる時だ」
「承知した」
バルブスは、短く応じた。
その目には、複雑な金の流れを読み解く、いつもの冷徹な光が戻っていた。
彼は、もはや財政の崩壊を嘆く男ではない。カエサルの莫大な富を武器に、兵士たちの怒りという名の最大の負債を清算する、最強の財務官だった。
彼もまた、部下たちに指示を飛ばすため、足早に部屋を後にした。
一人残されたオッピウスは、窓辺に立つと、眼下に広がるローマの街並みを見下ろした。
彼の仕事は、これからだ。 彼は、書斎に戻ると、何人もの密使を呼び寄せた。
「一人目の者は、カンパニアへ。第十軍団の兵士たちの中に紛れ込み、噂を広めろ。『ゼラでカエサル閣下、大勝利。ファルサルスを上回る圧勝なり』と。そして、『閣下は、我らの功績に報いるため、今、ローマへ向かっておられる』と」
「二人目の者は、フォルムへ。カエサル閣下の名で、市中のパン屋と穀物商に告げよ。近日中にエジプトからの穀物船団が到着する、価格は安定するゆえ、市民への配給を滞らせるな、と。これは、バルブスと連携せよ」
「三人目の者は、元老院へ。レピドゥス殿の動きを影から支援し、反対派の動向を探れ。不穏な動きがあれば、即座に報告せよ」
次々と、的確な指令が、闇の中へと放たれていく。
オッピウスは、もはやカエサル不在のローマを憂う男ではない。
彼は、カエサルという太陽の光を、情報という名のレンズで集め、ローマ中に拡散させる、巨大な灯台そのものだった。
彼の紡ぎ出す情報が、人々の心を動かし、絶望を希望へと変えていく。
数時間後。三人の礎は、再びこの書斎に集まっていた。
彼らは、それぞれが自らの任務を開始し、ローマという巨大な機械の、錆び付いていた歯車が、ゆっくりと、しかし確実に動き始めたのを、肌で感じていた。
街の空気は、まだ緊張をはらんでいる。だが、その質は明らかに変わっていた。
絶望的な無気力さは薄れ、代わりに、噂話に花を咲かせる市民たちのざわめきと、カエサルの帰還を待ち望む、熱を帯びた期待感が生まれ始めていた。
「…時間を、稼いだか」
バルブスが、呟いた。
「ああ」
とオッピウスは頷いた。
「我々は、カエサル閣下のために、盤面を整えた。あとは、彼自身が、このローマという盤に降り立ち、最後の王手をかけるのを待つだけだ」
彼らの目には、安堵と、そしてこれから始まるであろう、より大きな戦いへの覚悟が宿っていた。
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