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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第五部 ゼラの戦い

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第九章:東方からの指令

ゼラでの圧勝から、数日が過ぎた。


戦場には、もはや死の匂いはなく、ローマ軍団による徹底した戦後処理が施された、静かな丘陵が広がるだけだった。


だが、我々の仕事はまだ終わっていない。


カエサルは、この勝利を足掛かりに、小アジア全域の秩序を再編する作業に、精力的に取り組んでいた。


その日の午後、一本の凶報が、我々の築き上げた平穏を粉々に打ち砕いた。


ローマから、オッピウスたちの送った使者が到着したのだ。最速の軍船を乗り継ぎ、嵐をものともせず駆けつけてきたその男は、まるで亡霊のように憔憔しきっていた。


彼が差し出したパピルスの巻物には、ローマを蝕む複数の危機…ヒスパニアでのロンギヌスの悪政と反乱の兆候、アントニウスの暴走、第十軍団の反乱、そしてアフリカでの敵軍の強大化…が、簡潔に、しかし切迫した筆致で綴られていた。


報告書を読み上げる書記官の声が、テントの中に重く響く。


それを聞く百人隊長たちの顔が、みるみるうちに険しくなっていく。


ある者はアントニウスへの怒りに拳を握りしめ、ある者はローマに残してきた家族を案じて青ざめた。


ゼラでの勝利の興奮は、一瞬にして不安と焦燥に取って代わられた。


だが、報告を直接受け取ったカエサルだけが、違った。


彼は、椅子に深く腰掛けたまま、その表情を、眉の一つすら動かさなかった。


書記官が報告を終え、テントの中が重い沈黙に包まれても、彼はただ目を閉じ、深く思考の海に潜っているかのようだった。


やがて、彼はゆっくりと目を開くと、動揺する百人隊長たちを一瞥し、そして俺、レビルスに視線を向けた。


「…レビルス。貴様は、予定通り小アジアの戦後処理計画を完成させろ。ファルケスに与した都市への賠償金、ローマに味方した者への報酬、そしてこの地域全体の新しい税制。すべての計算を、今夜中に終えろ。明朝、最終的な確認をする」


その声には、焦りも、怒りも、驚きも含まれていなかった。


まるで、ローマの危機など存在しないかのように、淡々と、日常の業務を命じる口調だった。


百人隊長たちは、そのあまりに落ち着き払った態度に、逆に言葉を失っていた。


「…御意」


俺は短く答え、一礼してテントを出た。俺だけは、カエサルの意図を正確に理解していた。


彼は、この複雑に絡み合った危機を前に、即断即決で動くことを良しとしなかった。


彼は、俺に実務を任せることで時間を稼ぎ、たった一人で、この絶望的な盤面に対する最善の一手を見つけ出すつもりなのだ。


そして、俺に与えられた「今夜中に全てを終えろ」という命令は、彼からの絶対的な信頼の証だった。


「貴様は貴様の役割を完璧に果たせ。そうすれば、俺も俺の役割を果たす」と。


俺は自らの天幕に戻ると、山と積まれた各都市の人口動態や税収の記録に没頭した。


ローマの危機が、頭の片隅を焼くようにちらつく。


だが、俺はそれを意識の外に追い出した。今の俺の戦場は、ここだ。


この数字の羅列の中に、カエサルが築くべき新しい秩序の礎がある。俺は、ただひたすらに、葦ペンを走らせ続けた。


翌朝、俺がほとんど徹夜で完成させた分厚い報告書を携えて司令部のテントへ向かうと、そこにはカエサルと、昨日到着した使者だけが待っていた。


カエサルの目には、徹夜明けの俺と同じように、深い思考の痕跡が浮かんでいたが、その表情は、昨日のような計り知れないものではなく、ある種の静かな確信に満ちていた。


彼は、俺が差し出した報告書に目を通すと、満足げに頷いた。


「見事だ、レビルス。これで、東方の憂いはなくなった」


そして、彼は使者に向き直った。


「貴官にも、今から我が決定を伝える。よく聞き、一語一句、オッピウスたちに伝えよ」


そこから語られたのは、ローマの複数の危機に対する、完璧な回答だった。


「まず、ヒスパニアについて。ロンギヌスの悪政は、ローマの威信を損なう恥ずべき行為だ。ガイウス・トレボニウスを後任の総督として、直ちにヒスパニアへ派遣させよ。彼に全権を与え、ロンギヌスを解任し、秩序を回復させると伝えろ。火種は、燃え広がる前に消し去る」


使者の目が、驚きに見開かれる。


東方の戦場にいながら、西の果ての統治までをも、即座に差配する。


「次に、ローマ市民へ。法務官レピドゥスに元老院を招集させ、いくつかの布告を出させる。第一に、債務問題については、私が帰還次第、正式な解決案を提示すると約束させろ。市民の暴動の、根本的な火種を消す」


「第二に、アントニウスの指揮権を制限し、首都の治安維持は、他の法務官たちによる合議制へと移行させよ。彼から、兵を取り上げるのだ。これは、元老院の承認を得た、合法的な手続きとして行わせろ」


「そして、カンパニアの兵士たちへ。バルブスに、私の個人資産から指定した額の金を引き出させ、彼らに『勝利の特別報奨金』の名目で、即座に分配させよ。彼らの正当な要求に、まず誠意で応える」


「最後に、オッピウスへ。彼には、ローマの空気を変えてもらう。ゼラでの決定的勝利の報を、あらゆる手段を使ってローマ中に広めさせろ。そして同時に、私が約束を果たすため、今まさにローマへ帰還しつつある、と。兵士たちに**『希望』**を与えるのだ。彼らの怒りの矛先が、やがて来る私との『交渉』の席へと向かうように、冷静さを取り戻させるのだ」


一連の指令は、淀みなく、完璧な論理で組み立てられていた。


使者は、畏敬の念に打たれ、ただ頷くことしかできなかった。


そして、最後に付け加えられた言葉に、彼はカエサルの真意を悟った。


「…アフリカの件は、承知している。カトとスキピオが、巨大な軍を編成していることもな。だが、その最大の脅威と戦うためには、まず我々の足元…ローマと、我が軍団という礎を、完璧に固め直す必要がある。**アフリカは、この内乱の最後の戦場となるだろう。**その戦いは、私がローマに戻り、すべての秩序を回復させた後に、開始する。そう、元老院の者たちにも伝えよ」


使者がローマへの帰路についた後、テントには、再び俺とカエサルの二人だけが残された。


俺は、尋ねずにはいられなかった。

「…閣下は、驚かれないのですね。ローマの、この惨状に」


カエサルは、椅子から立ち上がると、テントの入り口から、朝の光が満ちる小アジアの空を見上げた。


「驚きはしない。むしろ、必然だ。レビルス、戦場の敵を打ち破ることと、国家を治めることは、全く質の違う仕事だ。戦場では、敵は目の前にいる。だが、ローマでは、敵は見えない。人の心の中に巣食う、欲望、嫉嫉、そして恐怖だ」


彼は、ゆっくりとこちらに振り返った。その瞳には、深い疲労と、それでもなお揺るがぬ決意の光が宿っていた。


「…そして、アントニウスは、見えない敵との戦い方を知らん男なのだ」


その言葉に、俺は、この男の底知れない孤独と、ローマという国家そのものを背負う覚悟の重さを、垣間見た気がした。


我々は、東方で一つの戦争に勝利した。だが、本当の戦いは、これから始まるのだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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