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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第五部 ゼラの戦い

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第八章:ローマの礎(いしずえ)

その夜、パラティヌスの丘に立つ一室には、カエサルが不在のローマを支える三人の男が集っていた。


一人は、影の実務家としてカエサル派の全てを差配するガイウス・オッピウス。


一人は、その卓越した経済感覚でカエサルの財政を支えるルキウス・コルネリウス・バルブス。


そしてもう一人は、名門貴族としてカエサル派の「公的な顔」となり、元老院と民衆の安定を担う法務官プラエトル、マルクス・アエミリウス・レピドゥス。


彼らこそが、カエサルがローマに残した、三本のいしずえだった。


だが今、その礎は、自らが支えるべきローマという名の巨大な天井が、ミシミシと音を立てて崩れ落ちてくるのを、ただ無力に感じていた。


「…アントニウス様の件は、もはや我々の手には負えん」


重い沈黙を破ったのは、レピドゥスだった。


彼の顔には、法の守護者としての苦悩と、秩序を回復できない無力感が深く刻まれている。


「護民官ドラベッラが提案した債務帳消し法案は、確かに過激だった。だが、それに対する市民の支持もまた、本物だったのだ。それを、アントニウス様は軍を動かし、力で鎮圧した。フォルムは血で染まり、数百人の市民が命を落としたと聞く。…ここは、ローマだ。ガリアの荒野ではないというのに」


「その結果、市場は完全に冷え込みました」


バルブスが、苦々しく言葉を継ぐ。


「商人たちは、いつ兵士に略奪されるかと恐れ、商品を隠匿している。穀物の価格は、カエサル閣下がイタリアを制圧した直後の、あの混乱期以上に高騰している。閣下がお築きになった経済システムが、根底から腐り始めています」


オッピウスは、何も言わずに、壁に掛けられた巨大な地中海世界の地図へと歩み寄った。


彼の頭脳は、この二人が語る現象の、さらに奥にある本質を見据えている。


「問題は、ローマだけではない」

オッピウスは、地図の西の果て、ヒスパニアを指差した。


「クィントゥス・カッシウス・ロンギヌスからの報告は、もはや強欲な男の自己弁護に過ぎん。彼地の有力者たちから密かに送られてくる書状によれば、ロンギヌスの圧政は限界に達している。税を搾り取り、ローマ市民の財産を奪う。…ヒスパニアは、今や火薬庫だ。いつ、我々の背後で大爆発を起こしてもおかしくない」


その時、部屋の扉が慌ただしくノックされ、一人の伝令が息を切らして駆け込んできた。


その男が携えていたのは、ブルンディシウムの港から、駅伝馬クルスス・プブリクスを乗り継いで届けられた、一巻のパピルス。カエサルの印章が、蝋に黒々と押されている。


三人の間に、緊張が走った。小アジアからの、初めての公式な戦況報告だ。


バルブスが、震える手で受け取り、その封を切る。


オッピウスとレピドゥスも、固唾を飲んでその手元を覗き込んだ。


そこに記されていたのは、彼らが想像していたような、長々しい戦いの記録ではなかった。ただ、三つの単語が、力強い筆跡で記されているだけだった。


『来た、見た、勝った』


「…おお」

レピドゥスが、安堵と歓喜の声を漏らした。


「素晴らしい。カエサル閣下は、またもやローマに勝利をもたらしてくださった!」


バルブスも、強張っていた顔をわずかにほころばせた。


だが、オッピウスの表情だけは、変わらなかった。


「…喜んでいる場合か、レピドゥス殿」

オッピウスの、氷のように冷たい声が、部屋の空気を再び凍てつかせた。


「この勝利が、我々が今直面している危機を、何か一つでも解決してくれると?むしろ、事態は悪化する一方だ」

彼は、机の上に広げられていた別のパピルスを、無造作に指し示した。


「カンパニアからの最新の報告だ。カエサル閣下が最も信頼する、あの第十軍団が、公然と反乱の兆しを見せている。彼らは、長きにわたる戦役に疲れ、約束された退職金と土地が未だに与えられないことに、不満を募らせているのだ。その怒りの矛先は、今やローマ…我々と、そして代理人であるアントニウス様に向かっている」


レピドゥスの顔から、血の気が引いた。


第十軍団の反乱。


それは、カエサル政権そのものの崩壊を意味する、悪夢のシナリオだった。


「なぜだ…カエサル閣下は、ガリアの富で、彼らに十分な報酬を約束されたはずではなかったのか?金がないわけではあるまい!」


「問題は、金の有無ではありません、レピドゥス殿」

オッピウスは、レピドゥスの甘い認識を、静かに、しかし冷徹に否定した。


「たとえ我々が国庫のすべてを彼らに差し出したとしても、もはや問題は解決せん。彼らが本当に求めているのは、金ではない。**『終わり』**だ」


オッピウスは、レピドゥスの目を真っ直ぐに見据えた。


「彼らは、この果てしない内乱に、心底疲れ切っている。彼らが忠誠を誓ったのは、ローマのためでも、我々のためでもない。カエサルという一人の男に、この戦争を終わらせ、約束された平穏な余生を与えてくれると、そう信じたからだ。だが、そのカエサル閣下は、ローマから遠く離れた東の果てで、新たな戦いを続けておられる。そしてローマでは、代理人のアントニウスが贅沢三昧に暮らし、市民を虐殺している。兵士たちの目には、我々が彼らを裏切り、彼らの血と汗で得た富を食い物にしているように映っているのだ。これは、財政の危機ではない。信頼の危機なのだ」


三人の礎は、沈黙した。


ゼラでの圧倒的な勝利。その輝かしい報せは、彼らが直面している、ローマという名の泥沼のような現実の前では、あまりに無力だった。


ヒスパニアの反乱、アントニウスの失政、第十軍団の反乱。


そして、アフリカで刻一刻と強大化する、共和派の新軍。 この四つの時限爆弾が、今、同時に爆発しようとしている。


「…もう、時間がない」

オッピウスは、決然とした表情で、二人に向き直った。


「我々三人で、このローマを支えることは、もはや不可能だ。この歪みを正せる人間は、この世界にただ一人しかいない」


レピドゥスとバルブスは、言葉なく頷いた。彼らの思いは、一つだった。


「使者を出す」

オッピウスは、新しいパピルスを手に取ると、よどみない筆致で書状を書き始めた。


「最速の船を用意させろ。カエサル閣下に、一刻も早く、ローマへ帰還していただくのだ。ゼラの戦後処理など、他の誰かに任せればよい。今、彼が立つべき場所は、東方の戦場ではない。この、崩壊しつつあるローマそのものなのだ、と」


彼のペンが、嘆願の言葉を綴っていく。それは、ローマの礎たちが、彼らの主君に送る、絶望的なまでのSOSだった。


机の上には、カエサルの勝利を告げる『来た、見た、勝った』の報告書が、まるで遠い世界の出来事のように、虚しく置かれていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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