第七章:来た、見た、勝った
戦いの喧騒が嘘のように、静寂が丘を支配していた。
いや、完全な静寂ではない。耳を澄ませば、遠くで負傷兵が呻く声、仲間を呼ぶ声、そして死に行く者が最後に絞り出す、か細い息遣いが聞こえてくる。
戦場に特有の、血と土と鉄が混じり合った匂いが、夕暮れの冷たい風に乗って鼻をついた。
俺、レビルスは、丘の頂に立ち、眼下に広がる凄惨な結果をただ見つめていた。
谷は、ファルケスの兵士たちの死体で埋め尽くされている。ある者は投槍に貫かれ、ある者は味方に踏みつけられ、そして大多数は、丘を駆け下りてきたローマ軍団の、無慈悲なまでの白兵戦の前に命を落とした。
俺の計算が、この光景を創り出した。無数の変数を組み合わせ、勝利という解を導き出した、その数式の最終的な答えが、これだった。
そこに、ゆっくりとした足取りで、カエサルが隣に立った。
彼は、鞘に収められることのない剣を、杖のようにして地に突き、静かに戦場を見渡している。
その横顔に浮かぶのは、勝利の狂喜でも、殺戮への嫌悪でもない。
ただ、一つの仕事を終えた職人のような、静かで、どこか非人間的なまでの達成感だった。
「…見事なものだな、レビルス」
カエサルが、ぽつりと言った。
「貴様の計算は、もはや芸術の域だ。敵の思考を読み、地形を味方につけ、天候すらも変数に組み込む。そして、兵士たちの疲労と誇りという、最も不確かなものまでをも、完璧に計算しきった。この勝利は、九割がた、貴様の功績だ」
「…いいえ」
俺は、かぶりを振った。
「私の計算は、ただの設計図に過ぎません。その無謀な設計図を信じ、実行に移す決断を下されたのは、閣下です。そして、その決断を、血と汗で現実に変えたのは、兵士たちです」
俺たちの後方では、兵士たちが黙々と戦後処理を始めていた。
負傷した仲間を運び出し、戦死した敵兵から武具を剥ぎ取り、そして、自らの持ち場を清掃する。
彼らの顔にも、勝利に酔いしれるような表情はない。彼らは、これが戦争であり、これが自分たちの仕事であることを、骨の髄まで理解している。
だからこそ、強い。
「…そうだな」
カエサルは、ふっと笑みを漏らした。
「我々は、皆、それぞれの役割を果たした。ただ、それだけのことか」
彼はしばらく戦場を眺めていたが、やがて、くるりとこちらに背を向けた。
「書記官を呼べ。ローマへ、戦勝報告を送る」
すぐに、司令部のテントに粗末な机と椅子が運び込まれ、書記官がパピルスと葦ペンを手に、カエサルの言葉を待っていた。
居並ぶ百人隊長たちも、固唾を飲んで主君の言葉を待っている。
彼らは、この歴史的な勝利が、どのような美辞麗句で飾られ、ローマの元老院と民衆に伝えられるのか、期待に胸を膨らませていた。
ファルサルスの勝利報告よりも、さらに荘厳な言葉が紡がれるのだろう、と。
カエサルは、椅子に深く腰掛けると、一度だけ目を閉じ、そして、静かに口を開いた。
「…来た」 (ウェーニー)
書記官のペンが、さらさらとパピルスの上を滑る。
百人隊長たちは、その次に来るであろう、壮大な前置きの言葉を待った。
我々がいかにしてエジプトを発ち、いかにして小アジアを駆け抜けてきたか、その英雄的な行軍の記録が語られるのだ、と。
だが、カエサルは続けた。
「…見た」 (ウィーディー)
テントの中が、わずかにどよめいた。見た?それだけか?我々が敵の陣形を見抜き、その弱点を分析した、あの緻密な戦術についての言及はないのか?
そして、カエサルは、最後の言葉を、まるで余韻を断ち切るかのように、短く、鋭く言い放った。
「…勝った」 (ウィーキー)
それだけだった。 三つの、単語。 書記官は、呆然と顔を上げた。
これで、終わりなのか、と。百人隊長たちも、あまりに簡潔な報告に、言葉を失っていた。
だが、俺だけは、その三語に込められた、恐るべきほどの意味の密度に、打ちのめされていた。
来た(Veni)。
それは、アレクサンドリアの泥沼から我々を解き放ち、常識外れの速度で小アジアを駆け抜けた、あの雷光の進軍そのものだった。
敵の計算を上回り、世界そのものを盤上として支配した、我が兵站術の勝利。
見た(Vidi)。
それは、ニコポリスの敗戦を分析し、ファルナケスの戦術を見抜き、彼の性格、その驕り、その過信、その思考のすべてを完璧に読み解いた、我が計算の勝利。
勝った(Vici)。
そしてそれは、俺の計算と、兵士たちの勇気と、そのすべてを信じ、最も効果的な一点で実行に移した、我が主君の決断の勝利。
この遠征のすべてが、この内乱の真実のすべてが、そのたった三つの言葉の中に、完璧な形で凝縮されていた。
これ以上何を付け加える必要がある?いかなる美辞麗句も、この三語の前では色褪せる。
俺は、静かな達成感に満たされていた。アレクサンドリアの図書館で失われた知識を嘆き、自らの計算がもたらす破壊の代償に苦悩した。
だが、今ならわかる。計算とは、破壊のためだけにあるのではない。無駄な血を流さず、戦いを最も効率的に、最も速やかに終わらせるための、最も理知的な刃なのだ。
カエサルは、立ち上がると、俺の肩を一度だけ、強く叩いた。
その目には、言葉にはならぬ、深い信頼の色が宿っていた。
「行くぞ、レビルス。やるべきことは、まだ山積みだ」
その言葉は、ローマを指しているのか、それともまだ見ぬアフリカの敵を指しているのか、俺には分からなかった。
ただ、この勝利が、決して終わりではないことだけは確かだった。
俺は静かに頷き、主君の後に続いた。ゼラの丘に吹く風が、戦場の血の匂いを、少しだけ洗い流してくれているような気がした。
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