第五章:計算 vs. 過信
雷光の如き強行軍の果てに、我々が到達したのは、ゼラの街を眼下に見下ろす、小高い丘の上だった。
夜陰に乗じてこの地を確保した我々の目の前には、朝日を浴びて、敵であるファルナケス2世の大軍勢が広がっていた。
彼らは、我々が占領した丘と谷を挟んで対峙する、もう一つの丘の上に布陣していた。
こちらの丘の頂に、カエサルの軍旗である赤のマントが翻った瞬間、ファルナケスの陣営が蜂の巣をつついたような騒ぎになるのが、遠目にも見て取れた。
驚愕、混乱、そして 懐疑。
彼らにとって、我々はまだ遥か南方にいるはずの、疲弊しきった敗残兵に過ぎなかったのだから。
「…信じられん。奴らは、まるで地面から湧いて出たかのようだ」
捕虜にした敵の斥候が、呆然とそう呟いていた。
「全軍、直ちに陣地の構築を開始せよ!」
カエサルの号令が飛ぶ。それはローマ軍の不文律。
いかなる状況下においても、まず自らの拠点を固める。
兵士たちは、極限の疲労にもかかわらず、体に染み付いた習慣に従い、慣れた手つきで道具を手に取り、地面を掘り、土塁を築き始めた。
それは、この十年、彼らがガリアの荒野で、ブリタンニアの岸辺で、そしてギリシャの山中で、飽きるほど繰り返してきた作業だった。
俺は、カエサルの隣に立ち、敵陣の動きを冷静に観察していた。
ファルナケスの陣営では、将軍たちが馬を駆け巡らせ、慌ただしく命令を飛ばしている。
やがて、軍が動き始めた。だが、それは防御態勢を固める動きではない。谷へ向かって、攻撃陣形を組み始めている。
「…愚かな」
俺の口から、思わず声が漏れた。
ファルナケスが、丘の上の自陣から、こちらを見下ろしている。
その姿は、この距離からでも、傲慢なまでの自信に満ちているのが見て取れた。
彼は、我々が陣地を構築している様を、恐怖の表れと見たのだ。長旅で疲れ果てたカエサル軍が、防御を固めて時間を稼ごうとしている、と。
「好機!」
と彼は考えたに違いない。
「敵が陣地を完成させる前に、あの疲弊した兵士どもを叩き潰してくれるわ」と。
彼は、ニコポリスでの勝利体験に囚われている。
彼の頭の中では、ローマ軍団とは、自らが誇る魔族傭兵の突撃魔法一発で崩れ去る、脆い壁なのだ。
やがて、敵陣から角笛の音が鳴り響いた。それを合図に、ファルナケスの全軍が、雄叫びを上げながら谷へと駆け下り、こちらの丘を目指して殺到し始めた。
「閣下!敵が、来ます!」
カルウィヌス殿が、血相を変えて叫んだ。
「全軍で、突撃してきます!この、坂を!」
上り坂での突撃。
それは、軍事の常識を無視した、自殺行為に等しい愚行だ。
突撃の威力は、その速度に比例する。急な坂を駆け上れば、兵士は息が上がり、速度も、隊列の結束も失われる。その威力は、平地での突撃の半分以下になるだろう。
カエサルは、微動だにしなかった。彼は、ただ静かに、俺の顔を見た。
「…レビルス。貴様の計算通り、か」
「計算通り、ではありません。閣下」
俺は、静かに首を横に振った。
「これは、可能性の一つなどではない。必然です」
俺は、この戦いが始まる前から、ファルナケスという男の思考を計算していた。
彼は、王族として生まれ、偉大な父の威光を受け継いだ男だ。
そして、小アジアの地で、一度はローマ軍団を完膚なきまでに叩きのめした。
その成功体験は、彼の判断を曇らせ、正常な思考を麻痺させる、甘美な毒となる。
彼は、我々を侮っている。
彼は、自らの突撃魔法の力を過信している。 彼は、我々が陣地を築いているのを、恐怖と誤認する。
故に、彼は、最も愚かで、最も効果的だと信じる一手を打ってくる。
すなわち、こちらの態勢が整う前に、全軍で突撃し、力でねじ伏せる、と。
「閣下。我々が今行っている陣地構築こそが、この勝利のために仕掛けた、最後の罠です」
この陣地構築は、防御のためではない。
敵を誘い込むための、完璧な擬態だ。 兵士たちは、一見、無秩序に作業をしているように見える。
だが、その配置は、大隊ごとの戦闘序列に完全に基づいている。
彼らは、ただシャベルをピルム(投槍)に持ち替え、土嚢をスクトゥム(大盾)に構え直せば、即座に戦闘態勢に移行できるよう配置されていた。
最前線で掘られている塹壕は、敵の突撃の勢いを殺すための、天然の障害物となる。
そして、その後ろに積み上げられつつある土塁は、矢や投石を防ぐ、即席の胸壁と化す。
「全軍、戦闘用意!」
カエサルの声が、丘全体に響き渡った。 その瞬間、ローマ軍は、再びその本質を現した。
シャベルを放り投げる音。鎧が擦れ合う金属音。
百人隊長たちの怒声。
それらが一つの交響曲となり、先ほどまでの土木作業の現場は、一瞬にして、鋼鉄の意志を持つ、巨大な殺戮機械へと変貌を遂げた。
俺は、丘の麓から駆け上ってくる敵の津波を見つめていた。
先頭を走るのは、その身に禍々しい魔力をまとった魔族の傭兵たちだ。
彼らは、勝利を確信し、獲物に向かって突進する獣のように、獰猛な雄叫びを上げている。
だが、その速度は、丘を登るにつれて、目に見えて落ちていた。彼らの肩は大きく上下し、その表情には、焦りと苦痛の色が浮かび始めていた。
計算は、終わった。
過信という名の計算不能な変数は、俺の計算によって、完璧に制御下に置かれた。
彼らは、自らの意思で、最も不利な戦場を選び、最も不利な時に、最も不利な戦いを仕掛けてきたのだ。
丘の上で静かに待ち構える、我々の手のひらの上で。
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