第八章:フォルムの熱狂と囁き
その男の名は、ルキウス。フォルム・ロマヌムの片隅で、半生を両替商として生きてきた。
彼の小さな仕事場から見える世界は、ローマそのものの縮図だった。
元老院議員が纏う豪奢なトーガの裾から、奴隷の足枷にこびりついた泥まで、あらゆるものが彼の目の前を通り過ぎていく。
そして、彼の天秤は、その全てを冷徹な「銀の価値」に換算してきた。
彼は、マリウスとスッラがローマを血で染めた時代も、この場所から見てきた。彼は知っていた。政治家が語る美辞麗句は移ろうが、銀の重さだけは決して嘘をつかない、と。
だが、この数ヶ月のローマは、ルキウスが知るどの時代とも異なっていた。彼の仕事場は、かつてないほどの熱狂と狂気に包まれている。原因は、彼の目の前で鈍い輝きを放つ、二種類の銀貨だった。
一つは、長年ローマで流通してきた、すり減って薄くなった旧いデナリウス銀貨。
そこには、ローマの神々や、建国の英雄たちの横顔が刻まれている。
そしてもう一つは、ガリアから怒涛のように流れ込んでくる、ずしりと重いカエサルの新貨幣だ。そこには、ガリアの戦利品を模した意匠が、傲然と刻み込まれている。
「ルキウス! やったぞ! これで借金が返せる!」
店先に飛び込んできたのは、顔なじみの武具職人ティトゥスだった。その手には、数枚のカエサルの新貨幣が握られている。彼はガリアの軍団に剣を納める仕事で、この新しい金を得たのだ。
「親方に借りていた銀貨十枚、この新しい銀貨八枚で返済できたんだ! これも、俺たちのような市民のために戦ってくださるカエサル閣下のおかげだ。娘の嫁入り支度も、これでようやく整えられる…」
ティトゥスは、興奮した様子で続けた。
「俺だけじゃないんだ、ルキウス。この辺りの職人仲間は、みんな同じさ。カエサル閣下が私財を投じて始めた水道橋の修復事業で、俺の義弟も仕事にありつけた。何年も仕事がなかった男が、今じゃ毎日家族にパンを持ち帰っている。貴族様方は伝統だの法だのと言うが、腹を空かせた人間に、一体どっちがありがたいと思う?」
ルキウスは、男が差し出す旧貨幣を無言で受け取り、帳簿に印をつけた。
その背後で、職人がカエサルを称える陽気な歌を口ずさみながら去っていく。
彼の喜びは本物だろう。だが、その喜びが、誰かの周到な計算によって作り出されたものであることを、彼は知らない。
そのわずか半刻後。今度は、見るからに裕福な貴族の家令らしき男が、苦虫を噛み潰したような顔でルキウスの前に立った。
「おい、両替屋。この忌々しいガリア銭を、我が主がお持ちの旧貨幣に両替しろ。…レートは何だと?」
「旦那様。今や、カエサル閣下の新貨幣一枚に対し、旧貨幣は一枚と四分の一が相場となっております」
「馬鹿を言え! このような野蛮な銀塊が、由緒ある我が共和国の貨幣より価値があるだと? これは狂っている! カエサルは、そのガリアの泥で、ローマの伝統を汚しているのだ!」
家令は、まるで汚物でも扱うかのように新貨幣をカウンターに叩きつけると、悪態をつきながら去っていった。
彼の主人は、多くの市民に金を貸し付けている債権者だ。その資産が、日を追うごとに紙屑同然になっているのだろう。
ルキウスは、そのどちらにも肩入れすることなく、ただ静かに天秤を揺らす。
彼は知っていた。これは、自然な経済の変動などではない。誰かが、意図的に市場を動かしている。
ガリアという巨大な富を背景に、ローマの価値そのものを、根底から作り変えようとしているのだ。
その日の夕暮れ時、店じまいを始めたルキウスの元に、一人の男が顔を寄せた。東方との交易で財をなした、情報通の商人ストラボンだ。
「…聞いたか、ルキウス。この狂騒を裏で操っている糸の話を」
男は、市場の奥を顎でしゃくった。そこには、カエサルの代理人であるガイウス・オッピウスの事務所がある。
「奴らだよ。オッピウスと、あの金の亡者バルブスさ。カエサルはガリアで剣を振るっているだけ。実際にローマの心臓を握り、この経済戦争を指揮しているのは、あの二人だという噂だ」
ストラボンは、声を潜めて続けた。
「バルブスが、ガリアから流入する新貨幣の量を完璧にコントロールしている。市場がパニックを起こさぬ、ギリギリの量でだ。そしてオッピウスが、その金を使って、元老院の貧乏貴族を一人、また一人と買い取っている。奴らは、ローマの血を、静かに入れ替えているのさ」
ルキウスは、その周到な計画に、かすかな恐怖を覚えた。
「…危険な賭けだな。もし、カエサル閣下が敗れれば、奴らの首が真っ先に飛ぶ」
「そうだろうな」
ストラボンは、にやりと笑った。
「だが、奴らはカエサルという男に賭けているのではない。この共和国の『腐敗』に賭けているのだよ、ルキウス。カエサルは、この国が患った病の原因ではない。病を治すために現れた、腕利きの外科医さ。オッピウスとバルブスは、その手術がうまくいくように、患者が暴れないよう、静かに手足を縛っているだけだ」
商人が去った後、ルキウスは一人、静かになったフォルムを見渡した。
ライトゥス神殿の向こうに、元老院の議事堂が夕闇に沈んでいる。
あの建物の中で、貴族たちがどれだけカエサルを罵ろうと、もはや意味はない。本当の戦いは、自分のような名もなき両替商の店先で、とっくに始まっているのだ。
彼は、手元に残った二種類の銀貨を、指先で弾いた。片や、ローマの歴史をその摩耗した肌に刻む旧貨幣。片や、ガリアの血と富で輝く、未来を約束する新貨幣。
ルキウスは、天秤を丁寧に磨きながら、時代の大きな変化を肌で感じていた。共和国という船は、今、静かに、しかし確実に、未知なる嵐の海へとその舵を切っていた。
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