第四章:雷光の進軍
「これより全軍、強行軍に移行する」
カエサルのその一言が、司令部テントの空気を凍てつかせた。
ドミティウス・カルウィヌス殿の配下であった百人隊長たちの顔に、疲労と絶望に染まっていたそれとは質の異なる、純粋な驚愕と疑念の色が浮かんだ。
敗残兵を抱え、新兵を寄せ集めたこの軍で、何を言っているのか。彼らの目がそう語っていた。
無理もない。
ローマ軍の強さの根幹は、重厚な装備と、それを維持するための堅固な兵站線にある。
強行軍とは、そのすべてをかなぐり捨てるに等しい、狂気の沙汰だった。
その沈黙を破ったのは、俺、レビルスだった。
「各百人隊長に告ぐ。兵士各自が携行する装備は、武器、盾、最低限の野営道具、そして三日分の食料のみとする。予備の武具、個人の所有物、調理器具、それ以外のすべては、この場に放棄せよ」
俺の淡々とした口調に、彼らの視線が一斉に突き刺さる。
「食料はどうするのだ!」
カルウィヌス殿の軍のある百人隊長が、思わずといった様子で叫んだ。
「食料は、我々を待っている」
俺は、広げられた地図の上を一本の線でなぞった。我々がこれから進む道だ。
「この進軍経路は、大部分がローマの属州、あるいはカエサル閣下に忠誠を誓った属国の領内を通る。タルススを発つ前に、閣下の名で各地の総督や王たちへ指令を発し、三日行程ごとに、我々が必要とする全ての物資を集積させてある。彼らは、内乱の勝者であるカエサル閣下への協力を惜しまなかった。我々は、補給物資を運ぶのではない。我々のために用意された補給物資へと向かって、ひたすら前進する」
それは、軍事力だけでなく、カエサルが持つ絶大な政治的影響力と、俺が張り巡らせた情報網を組み合わせることで初めて可能になる兵站戦略だった。
テントの中は、今度こそ完全な静寂に包まれた。
彼らは、俺が口にしている作戦の意味を、そしてその背後にあるカエサルの巨大な力を、ようやく理解し始めていた。
その日を境に、我々の軍は、軍隊であることをやめた。それは、ただひたすらに東を目指す、巨大な一つの生き物と化した。
夜明け前に起床し、固い乾パンを水で流し込むと、夜が完全に明ける前には行軍を開始する。
昼の休憩は、立ったままパンをかじるだけの、わずかな時間。
そして、日が落ち、普通の軍隊ならば野営地の設営を始める時間になっても、我々は歩みを止めなかった。
松明の明かりを頼りに、夜の闇の中を突き進む。
兵士たちの顔からは表情が消え、ただ黙々と、前の兵士の背中を追って足を動かすだけだった。
「…本当に、化け物じみた行軍だな」
行軍の列の脇で馬を歩ませながら、古参兵のセクンドゥスが悪態をついた。
彼の言葉には、いつもの皮肉に加えて、純粋な呆れが混じっている。
「一日で、通常の倍以上の距離を稼いでいる。しかも、三日に一度、あの計算屋(レビルス様)の言う通り、寸分違わず補給地点が現れる。ローマの役人が管理する穀物庫、ガラティア王デイオタルス殿が用意した家畜の群れ、ペルガモンのミトリダテス殿が手配したワインとオリーブ油…。まるで、カエサル閣下の手が、この小アジア全土に伸びているみたいだぜ」
「手ではない。威光だ」
その横で、黙々と歩いていた百人隊長ボルグが、短く答えた。
「この地の者たちは、閣下の名の下に動いている。あの人の頭の中では、我々の進軍速度と彼らの忠誠心が、すべて勝利のための数字に変換されている。我々は、その数字の上を歩かされているに過ぎん」
ボルグの言う通りだった。
俺の頭脳は、この進軍が始まって以来、片時も休息を取っていない。
兵士たちの平均的な歩行速度、地形による遅延、天候の変化、そして最も重要な、彼らの士気と疲労度。
そのすべてを計算し、斥候のエルフ、シルウァヌスがもたらす最新情報と照らし合わせながら、常に計画を微調整し続ける。
この強行軍は、カエサルの威光と、俺の計算という二つの車輪によって、かろうじて成り立っていた。
そして、その効果は、絶大な形で現れ始めた。
行軍開始から五日目の夜。シルウァヌスが、一人の男を引きずって野営地に帰還した。
ファルナケスの斥候だった。男は、恐怖に顔を引きつらせながら、震える声で尋問に答えた。
「…お、お前たちは、一体どこから湧いてきた…?昨日、カエサル軍は、まだカッパドキアの南部にいると報告があったばかりだぞ…!」
俺は、その報告をカエサルに届けた。彼は、満足げに頷いた。
「計算通りだな、レビルス。敵の斥候は、我々の残像を追っているに過ぎん」
ファルナケスの情報網は、斥候に依存している。
彼らが我々の位置を掴み、主君の元へ報告に戻る。その往復にかかる時間そのものが、我々にとっては最大の武器となっていた。
彼らの報告がファルナケスの元に届く頃には、我々は既に、報告された場所から遥か数十マイル先にいる。
ファルナケスは、常に古い地図を見て、戦いを計画しているようなものだった。
彼の計算は、その前提からして、完全に狂わされていた。
兵士たちの雰囲気も、変わりつつあった。
当初、彼らの顔に浮かんでいたのは、無謀な命令への不満と、肉体的な苦痛だけだった。
だが、自分たちが成し遂げている異常な進軍速度と、混乱する敵の情報を知るにつれ、その表情は、過酷な疲労の中に、確かな自信と、ある種の熱狂を帯び始めた。
特に、ニコポリスで敗北の屈辱を味わった第三十六軍団の兵士たちの変化は、目覚ましいものがあった。
失われた誇りを取り戻すための、これは苦行なのだ。
彼らは、自らの足で、一歩一歩、雪辱の舞台へと近づいている。
行軍開始から十日が過ぎた。我々は、ポントス王国の心臓部へと、深く、深く食い込んでいた。
眼前に広がるのは、ゼラの街へと続く、最後の平原。
兵士たちの疲労は、極限に達していた。だが、彼らの目は死んでいない。
その夜、カエサルは、全軍の兵士を前に、短い言葉をかけた。
「戦友諸君。よくぞ、ここまで来た。諸君らの足は、いかなる城壁よりも堅固な、我が軍の誇りだ。見よ、あの丘の向こうが、我々の旅の終わりだ。敵は、まだ我々の存在に気づいてすらいない。勝利は、もはや我々の手の中にある。今宵は、最後の休息をとるがいい。そして明日、この戦争を終わらせる」
英雄の言葉が、疲弊しきった兵士たちの魂に、最後の火を灯した。
俺は、その光景を静かに見つめながら、手にした地図に最後の書き込みを行う。
計算は、完了した。
盤上の駒は、すべて所定の位置についた。
あとは、王手をかけるだけだ。
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