第三章:ローマの混乱
ローマ、パラティヌスの丘に立つ一室。窓の外では、初夏の陽光がフォルムの大理石を白く輝かせている。
だが、ガイウス・オッピウスとルキウス・コルネリウス・バルブスの二人だけがいるこの書斎には、街の喧騒とは裏腹の、冷たく重い空気が満ちていた。
彼らは、カエサルがローマに残した二本の柱。表の政治が法務官マルクス・アエミリウス・レピドゥスに委ねられているとするならば、オッピウスとバルブスは、その水面下で国家の全てを動かす、影の実務家だった。
「…またか」
バルブスが、手にした木簡から顔を上げ、深い溜息をついた。その手腕でカエサルの財政を支え、敵対者の経済基盤を粉砕してきた男の顔に、今は疲労の色が濃い。
「今度は何だ?」
オッピウスは、山と積まれたパピルスの巻物から目を離さずに尋ねた。
彼の仕事は、カエサル派の統治機構全体を管理し、綻びを繕い、情報を整理し、次の手を打つことだ。
その緻密な仕事ぶりは、まるで巨大な機械の歯車を一つ一つ検分する職人のようだった。
「アントニウス様が、またフォルムで騒ぎを起こしたそうだ。護民官の一人が、借金に苦しむ市民のために、カエサル閣下が定めた債務猶予令の拡大を訴えた。議論の余地はある。だが、アントニウス様は、それを反乱の扇動とみなし、兵を動かして演壇から引きずり下ろした、と」
「…また、兵をか」
オッピウスの細い眉が、わずかに顰められた。
「市民に、刃を向けたのか?」
「そこまでは至らなかったようだが、時間の問題だろう。今のローマの空気は、乾ききった枯れ草だ。アントニウス様は、そこに松明を投げ込むような真似ばかりしておられる」
カエサルがポンペイウスを追ってギリシャへ渡って以来、一年以上が経過していた。
その間、首都ローマの統治は、カエサルの代理として最高位の公職である騎兵長官に任命された、マルクス・アントニウスに委ねられていた。
彼はカエサルの腹心であり、ファルサルスでは左翼を率いて奮戦した猛将だ。
その武勇は、誰もが認めるところだった。
だが、アントニウスは戦場の天才ではあっても、為政者ではなかった。
彼がローマで行っている統治は、統治というより占領に近かった。
常に屈強な兵士を護衛として引き連れ、市民の些細な抗議活動にも、軍を動員して威圧する。
カエリウスの反乱を武力で鎮圧して以来、その強硬な姿勢はエスカレートする一方だった。
法や手続きを軽んじ、自らの感情と腕力で、複雑なローマ社会を無理やり押さえつけようとしている。
その結果、市民の間に溜め込まれた不満は、今や沸点に達しようとしていた。
「問題は、アントニウス様お一人ではない」
オッピウスは立ち上がると、壁に掛けられた巨大な地中海世界の地図へと歩み寄った。
「ヒスパニア・ウルテリオル(遠方のヒスパニア)のクィントゥス・カッシウス・ロンギヌス。奴の強欲な統治に対する反乱の火種は、未だ燻り続けている。いつ再燃してもおかしくない」
彼の指が、ヒスパニアを指す。そして、ゆっくりとアフリカへと滑った。
「アフリカでは、小カトとメテッルス・スキピオが、ファルサルスの敗残兵をまとめ上げ、属国のヌミディア王ユバの支援も受けて、巨大な新軍を編成している。その数は、今や十個軍団を超えるとも聞く。彼らは、ポンペイウス殿の死で、もはや妥協の余地を失った。我々を完全に滅ぼすまで、戦いをやめんぞ」
そして、彼の指は、最も東を指し示した。
「そして、当のカエサル閣下は、エジプトの女王との長い休暇を終えられたかと思えば、今度はファルナケスを討つために、小アジアの奥深くへと進軍中だ。ローマへの帰還が、いつになるのか、全く見通しが立たん」
三つの戦線。ヒスパニア、アフリカ、そして小アジア。
そのすべてが、未だ終わらない内乱の続きだった。だが、オッピウスが真に恐れているのは、第四の戦線だった。
「我々が最も恐れるべきは、このローマだ。バルブス」
オッピウスは、地図から振り返って言った。
「カエサル閣下は、圧倒的な軍事力と、『寛容』という名の寛大な政策によって、イタリアを平定された。市民は、内乱の終結を望み、彼を支持した。だが、その支持の基盤が、今、アントニウス様の手で根こそぎ破壊されようとしている」
バルブスが頷く。
「同感だ。カエサル閣下の経済政策の根幹は、市民の支持と信頼にある。インフレを誘発させ、富裕な債権者である元老院派の資産を削り、同時に、債務者である大多数の市民の負担を軽くする。その上で、無料の穀物配給や公共事業で民の生活を安定させる。だが、アントニウス様の恐怖政治は、そのすべてを台無しにしている。市場は停滞し、商人たちは穀物を隠匿し始め、物価は再び高騰しつつある。市民の不満が、借金の軽減という恩恵を上回り始めているのだ」
それは、カエサルが築き上げてきたものの、根本的な崩壊を意味していた。
カエサルは、武力ではなく、人心を掌握することでローマを支配しようとした。
レビルスという天才的な頭脳がそれを計算し、カエサルという英雄的なカリスマがそれを実行した。
だが、今、そのどちらもローマにはいない。残されたのは、アントニウスの剥き出しの腕力だけだ。
「レピドゥス殿は、何と?」
バルブスが尋ねた。
「名門貴族の彼には、アントニウス様を抑える力はない。元老院で、カエサル閣下の不在を嘆き、共和政の伝統を説くだけだ。だが、今のローマに必要なのは、理想論ではない。…カエサル閣下そのものなのだ」
オッピウスは、窓の外に目をやった。
遠く、カピトリヌスの丘の向こうに、夕日が沈もうとしている。
美しい、ローマの黄昏時。
だが、彼の目には、その光景が、共和国という一つの時代の終わりを告げる、不吉な残光のように映っていた。
「急がねばならん…」
オッピウスは、誰に言うでもなく呟いた。
「カエサル閣下が、東方でどれほどの勝利を重ねようと、このローマという礎が崩れてしまえば、すべてが無に帰す。我々が、何としても、彼が帰還するその日まで、この都を支え続けねば…」
その言葉は、決意であると同時に、悲痛な祈りのようでもあった。
二人の実務家は、英雄なき首都で、静かに、そして確実に崩れゆく世界の足音を、すぐそこに聞いていた。
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