第二章:敗北の分析
キリキア属州の州都タルススを出立して数日、我々はカッパドキアの乾燥した大地を北東へと進んでいた。
エジプトから率いてきた三千の兵に加え、タルススでかき集めた増援、そして道中で合流した現地の同盟部族の兵も合わせ、我が軍の総兵力はようやく一軍団の定数に近づきつつあった。
だが、その大半は歴戦とは言い難い新兵であり、質は決して高くない。
その日の午後、地平線の先に、力なく揺れる鷲獅子の軍旗を、我が斥候シルウァヌスが発見した。
ニコポリスで敗れ、後退を続けていたドミティウス・カルウィヌス殿の残存兵力だった。
やがて二つのローマ軍が対峙した時、そこに広がったのは、対照的な光景だった。
カルウィヌス殿の軍は、大きく二つの集団に分かれていた。
一つは、鎧を失い、武器を捨て、明らかに士気を喪失した徴集兵やガリア人部隊の残党。
彼らは、まるで幽霊の群れのように、虚ろな目で行軍を続けていた。
しかし、もう一つの集団は違った。数は減り、誰もが深手を負っているものの、その隊列は乱れず、鷲獅子旗を中心に密集していた。
第三十六軍団。ポンペイウスの配下から投降し、カエサルの軍に組み込まれた、歴戦の兵たちだ。
彼らの瞳には、敗北の悔しさと、それでもなお失われぬローマ軍団としての誇りが宿っていた。
その夜、急ごしらえの司令部テントは、敗軍の将星たちが発する澱んだ空気で満たされていた。
カルウィヌス殿は、カエサルの前に立ち、全ての報告を終えると、深く頭を垂れた。
「…私の指揮の拙さ故、多くの兵を失いました。いかなる罰もお受けします」
「顔を上げろ、カルウィヌス」
カエサルの声は静かだった。
「貴官の報告は聞いた。だが、俺が聞きたいのは、現場の兵の声だ。何が起き、何が起きなかったのかを」
カエサルは、カルウィヌス殿の後ろに控えていた第三十六軍団の筆頭百人隊長を前に促した。
その男は、顔に深い傷跡を持つ、叩き上げの兵士だった。
「報告します」
男は力強い声で言った。
「戦いは、我々の計算を遥かに超えていました。敵の主力である魔族傭兵の突撃は、もはや人の戦術ではなかった。奴らは魔力をその身にまとって突っ込み、接触した瞬間にそれを爆発させる。盾も、鎧も、人の肉も、内側から弾け飛びました」
テントの中が、息を呑む音で満たされる。
「我々の両翼に配置されていたデイオタルス王のガリア兵と、ポントスの徴集兵は、その最初の突撃で完全に崩壊しました。恐怖に駆られ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したのです。無理もありません。あれは、悪夢そのものでしたから」
「貴官らは、どうした?」
「我々、第三十六軍団は、中央に陣取っておりました。左右の戦列が崩れ、敵が殺到してきましたが、我々は持ち場で円陣を組み、持ちこたえました。もはや攻撃は不可能。ただひたすら、仲間と背を合わせ、盾を構え、押し寄せる敵の波を押し返すことしかできなかった。多くの仲間が、目の前で『爆発』して死にました。ですが、誰一人として、持ち場を捨てた者はいません」
その言葉には、凄惨な戦いを生き延びた者だけが持つ、圧倒的な重みがあった。
彼らは敗れた。
だが、魂までは砕かれていなかった。
全ての報告が終わった時、俺は立ち上がり、テントの中央に広げられた小アジアの地図を指し示した。
「筆頭殿、感謝する。貴官らの勇気ある証言が、勝利への道筋を照らしてくれた」
俺の声に、皆の視線が集中する。
「ファルナケスが勝利できた要因は、ただ一つ。我々が知らぬ『一点突破』の戦術を用いたからです。しかし、その勝利は完全なものではなかった。なぜなら、彼の魔族傭兵は、第三十六軍団という『想定外の硬い壁』にぶつかり、その勢いを殺がれたからです」
俺は、地図の上に石を置いていく。
「ファルナケスは、この不完全な勝利を、完全な勝利だと誤認している。彼は、全てのローマ軍が、脆い徴集兵と同じだと思い込んでいる。そして、我々の動きを計算しているはずです。エジプトからの疲弊した部隊と、恐怖に駆られた敗残兵を合わせても、まともな戦力になるには時間がかかる、と。その驕り、その計算の甘さこそが、我々が突くべき唯一の弱点です」
テント内の空気が、明らかに変わった。
絶望が支配していた空間に、熱を帯びた闘志が生まれ始めていた。
俺の言葉を引き継ぐように、それまで黙って聞いていたカエサルが立ち上がった。
「レビルスの言う通りだ。ファルナケスの戦術は、初撃の破壊力に特化している。だが、一度受け止められれば、脆い。ならば、我々は戦う場所も、時も、すべて我々が選ぶ」
カエサルは地図の上を指でなぞり、遥か北東の一点を強く叩いた。
「これより全軍、強行軍に移行する。カルウィヌス殿の兵も、我が軍に組み込む。崩れた翼は切り捨て、第三十六軍団を中核として再編する。休息も、陣地の構築も、必要最小限だ。敵の斥候網を、計算不能な速度で駆け抜けるのだ。ファルナケスが我々の接近を知る時、それは我々がゼラの丘の上に立ち、奴の喉元に刃を突き立てる、その瞬間だ」
それは、消耗しきった敗残兵を抱えた軍が行うには、あまりにも無謀な計画だった。
だが、カエサルの言葉には、その無謀を覆すほどの力が漲っていた。
敗北の分析は終わった。ここから先は、反撃の時間だ。俺の頭脳は、主君が示した壮大な奇襲を、現実の行軍計画へと落とし込むため、無数の変数と格闘を始めていた。
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