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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第五部 ゼラの戦い

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第一章:アレクサンドリア出航

ナイルが海へとその身を委ねる、ペルシウムの港。


吹き付ける潮風には、エジプトの乾いた砂と、この地で流された数多の血の匂いが未だ混じり合っているかのようだった。


我が主ガイウス・ユリウス・カエサルに与えられた休暇という名の時間は、アレクサンドリアの王宮で費やされた。


しかし、その甘美な響きとは裏腹に、俺、ガイウス・カニニウス・レビルスの頭脳が休息を得ることはただの一瞬もなかった。


アレクサンドリアでの戦いは、これまでのどの戦場とも異質だった。


イレルダの洪水やデュッラキウムの敗北は、計算の前提が覆されるという理の範疇にあった。


だが、あのアレクサンドリアの市街戦は、理そのものが通用しない泥沼だった。


計算に必要な変数が、無作為かつ無限に湧き出してくる悪夢。そして何より俺を苛んだのは、「沈黙」だった。


シリア、小アジア、そしてローマ。俺がガリアで構築し、イタリアで完成させた蜘蛛の巣のような情報網は、エジプト軍の厳重な海上封鎖によって完全に沈黙した。


外部との連絡が途絶し、俺の「計算」は盤上から切り離された駒と化した。


あの無力感と焦燥は、今も腹の底に冷たい澱となって溜まっている。


エルフのシルウァヌスが決死の覚悟でミトリダテス公へ報を届けなければ、我々はあの王宮地区で干からびていただろう。


二度と、あの屈辱を繰り返すわけにはいかない。


「レビルス」


背後からかけられた声に、俺は思考の海から引き戻された。振り返るまでもない。この世界にただ一人、俺をその名で呼ぶ男。


「はっ、閣下」


公的な場ではない。


だが、今は彼の部下として動いている。その切り替えは、とうに身体に染み付いていた。


カエサルは、真新しい指揮官用の赤いマントを風にはためかせながら、俺の隣に立った。


その視線は、兵士たちが慌ただしく最後の船積みを終えようとしている港ではなく、その先の、水平線の彼方に注がれている。


「小アジアの状況は?」


「は。改めて精査しましたが、ドミティウス・カルウィヌス殿の敗北は、計算するまでもなく必然でした」


俺は手にしたパピルスの巻物を広げてみせる。


そこには、俺が再構築した情報網から送られてきた、断片的ながらも信頼に足る報告が、簡潔な箇条書きで記されていた。


「カルウィヌス殿が動員できた兵力は、歴戦の第三十六軍団に加え、ポントスからの徴集兵と、デイオタルス王のガリア人部隊。ですが、その実態は寄せ集めに過ぎません。対するファルナケスは、父祖ミトリダテス大王の精鋭を引き継ぎ、なおかつボスポラス王国全土から『魔族』の傭兵をかき集めている。兵力、練度、そして地の利。全ての変数において、我が軍は劣っていた」


「ファルナケスの戦術は?」


「一点突破。ゲルマン連合が好む、原始的、かつ最も効果的な戦術です。こちらの戦列が整う前に、強力な突撃魔法で中央を粉砕し、指揮系統を麻痺させる。カルウィヌス殿は、ローマの常道で戦おうとして、その速度に対応できなかった。それが敗因のすべてです」


「つまり、我々が同じ轍を踏むぬためには、敵の計算を上回る速度で動き、敵が予測不能な地点で、万全の迎撃態勢を整える必要がある、と。そういうことか?」


カエサルはこともなげに言った。俺が数日かけて導き出した結論の核心を、彼は一瞬で見抜いていた。


「御意。そして、その『計算』を可能にするための盤は、既に整えつつあります」


俺は、アレクサンドリアでの悪夢を繰り返さないため、この遠征の準備期間のほとんどを、新たな情報網の再構築に費やしていた。


それは、かつてのガリアでのそれとは比較にならぬほど、緻密で、多重的なものだ。


第一の層は、軍事的な連絡網。我が部隊のシルウァヌスらエルフの斥候を中核とし、最前線と司令部の間を驚異的な速度で往復させ、リアルタイムの情報を供給する。


彼らの機動魔法は、あらゆる地形的障害を無視する。


第二の層は、民間の情報網。カエサルが東方で築いた個人的な繋がり(アミキティア)と、ローマのオッピウスたちが張り巡らせた経済的な繋がりを利用する。


各地の商人、船乗り、有力者たち。彼らは金で動き、利で動く。だからこそ信頼できる。


彼らには、ファルナケス軍の動きだけでなく、穀物の価格、家畜の市場価格、街道の状況といった、兵站計算に不可欠なあらゆる経済指標を報告させる。戦争とは、


突き詰めれば経済活動なのだから。


そして第三の層は、冗長性の確保。


一つの連絡路が断たれても、必ず他の二つ、三つのルートで情報が届くよう、幾重にも保険をかける。


海路がダメなら陸路。陸路が塞がれれば、山岳の民を使う。あらゆる可能性を計算し、最悪の事態を常に想定する。


この三層構造の情報網によって、小アジア全域が、俺の頭の中にある巨大な計算盤へと変わる。


敵の位置、兵力、補給状況、天候、地形。そのすべてを、俺はアレクサンドリアにいながらにして、ほぼ完全に把握し、予測することが可能になる。


「……良い顔になったな、レビルス」


不意に、カエサルが言った。


「アレクサンドリアで囚われていた時の貴様は、籠の中の獣だった。どれほど牙を研ごうと、獲物に届かぬもどかしさに、その魂をすり減らしていた。だが、今の貴様は違う。再び、世界そのものを盤上に見ている。それでこそ、我が最高の頭脳だ」


その言葉に、俺は何も返せなかった。この男は、いつもそうだ。俺という人間の、思考の根幹までも見透かしている。


「出航の準備が整ったようです」


百人隊長のボルグが、いつものように無口で実直な態度で報告に来た。


そのドワーフならではの頑健な体躯は、アレクサンドリアの死線を経て、さらに凄みを増している。


「うむ。すぐに行く」


カエサルは頷くと、俺に視線を戻した。


「ファルナケスは、父の復讐と、ローマの混乱に乗じて失地を回復するという、過去の栄光に囚われている。いわば、古い盤の上で戦っているに過ぎん。我らは、常に新しい盤を創造する。そうだろう?」


「ええ。計算通りに、事が進めば」


俺は皮肉を込めて答えた。


だが、その言葉に、かつてのような厭世的な響きはなかったかもしれない。


アレクサンドリアの図書館で、戦乱によって失われた知識の山を目の当たりにした時、俺は計算がもたらす破壊の代償を痛感した。


同時に、だからこそ、計算によって、この無益な戦いを一日でも早く、一人でも少ない犠牲で終わらせねばならないと、心の底から理解したのだ。


俺たちは船上の人となった。クレオパトラという、美しくも危険な楔を打ち込んだエジプトが、ゆっくりと遠ざかっていく。


あの女王は、カエサルという太陽の光を借りて、エジプトを己の望む形に焼き直していくだろう。それは、計算された未来だ。


そして今、我々が向かうのは、計算不能な蛮勇が渦巻く小アジア。


だが、恐怖はない。俺の頭脳は、かつてないほどに冴え渡っていた。


小アジアの山々、河川、都市、街道、その全てが、詳細な地図として眼前に広がり、ファルナケスの軍勢は、その地図の上を動く駒に過ぎない。


どこへ進み、どこで補給し、どこで野営するか。


その一手一手が、俺には手に取るように見えている。


この戦いの主導権は、もはや我らの手にある。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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