第十八章:休息の終わり
レビルスの静かで内省的な日々は、ナイル川から帰還したカエサルの元に届いた、一隻の伝令船によって唐突に終わりを告げた。
カエサルとクレオパトラを乗せた壮麗な船団が、アレクサンドリアの港に帰還した、まさにその日の午後だった。
レビルスは、休息期間中に自らが考察した、新たな暦の計算について、カエサルに報告しようと、彼の私室を訪れていた。
だが、部屋の空気は、彼が予想していたような、穏やかなものではなかった。
カエサルの前には、小アジアから命からがら辿り着いたであろう、ボロボロの伝令兵が膝をついていた。
そして、カエサルが読んでいた一枚の報告書には、彼の表情を、絶対零度の氷のように変えてしまうほどの、凶報が記されていた。
「……読め、レビルス」
カエサルは、言葉少なに、その報告書をレビルスへと手渡した。
レビルスは、そのパピルスに目を通した瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。
それは、ギリシャと小アジアの平定を任せていた、腹心の将軍ドミティウス・カルウィヌスからの、絶望的な報告書だった。
ポントス王国のファルナケス2世が、父、ミトリダテス6世の栄光を取り戻すべく、ローマに対して大規模な反乱を起こした。
そして、その報を受けて迎撃に向かったドミティウスのローマ軍団は、ゼラの地で、敵の奇襲に遭い、壊滅させられた、と。
その報告書を読んだ瞬間、レビルスの顔から、数週間にわたる休暇で得られたはずの、穏やかさは完全に消え失せていた。
彼の目は、再び、全てを数字と変数として捉える、冷徹なカエサルの副官の顔へと戻っていた。
図書館の老学者が与えてくれた、人間的な温かさも、星空を見上げて感じた静かな感動も、この一枚のパピルスがもたらした、冷厳な事実の前には、あまりにも無力だった。
「……百人隊長を、全員、この部屋へ召集してください」
レビルスは、カエサルにではなく、彼の護衛兵に向かって、静かに、しかし、有無を言わせぬ口調で命じた。
「それから、港の艦隊司令官代理に伝えろ。出航可能な全ての船の状況を、一時間以内に報告させよ。ボルグには、第十軍団の全ての兵士に、完全武装で待機するよう、命令を伝えろ」
彼は、カエサルの指示を仰ぐことなく、直ちに軍団の出撃準備を命令していた。
彼の頭脳は、すでに、次なる戦場、小アジアへと向かっていた。
必要な兵士の数、船の数、補給路の計算。彼の思考は、再び、戦争という名の、巨大な計算盤の上を、猛烈な速度で駆け巡り始めていた。
カエサルは、その姿を、何も言わずに見つめていた。
そして、レビルスが全ての初期指示を出し終えたのを見計らって、ただ一言、 「……行けるか」 とだけ、尋ねた。
「はい。今すぐに出航すれば、三週間で、小アジアに到着できます」
レビルスは、即座に答えた。
その夜、アレクサンドリアの港は、昼間の平穏が嘘のように、ローマ軍団の出撃準備の喧騒に包まれていた。
レビルスは、その指揮の合間に、一人、宮殿のバルコニーに出た。
彼の視線の先には、月明かりに照らされた、アレクサンドリアの大図書館、ムセイオンの白いシルエットが、静かに浮かび上がっていた。
彼は、失われた知識への哀悼と、それでもなお「計算」によって勝利し続けねばならない自らの宿命を、静かに受け入れるしかなかった。
あの老学者の言葉が、彼の脳裏をよぎる。
『書物がなくとも、知を受け継ぐ者がいれば、前に進める』と。
(……そうだ) レビルスは、心の中で呟いた。
(俺は、進まねばならない。俺の計算で、カエサル様が描く、新しいローマの礎を築くために。それが、俺が、あの灰燼の知識に対して、唯一、果たせる、償いなのだから)
彼は、図書館に静かに背を向けると、再び、喧騒の中へと、その身を投じた。 彼の休息は、終わった。そして、次なる戦いが、すでに始まっていた。
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