第十七章:灰燼の知識
カエサルがナイルのクルーズへと旅立ってから、数週間が過ぎた。レビルスは、生まれて初めてと言っていい、完全な平穏の中にいた。
彼の心と体を縛り付けていた、計算と、兵站と、そして死の重圧から解放され、彼はただ、一人の知識欲に満ちた青年として、アレクサンドリアの街を彷徨っていた。
仲間たちとの他愛もない交流が、彼の人間性を取り戻させてくれた。
そして、その人間性が、彼を、この街が誇る世界最高の知の殿堂、ムセイオン(Mouseion)へと向かわせた。
アレクサンドリアの大図書館。世界中のあらゆる知識が、パピルスの巻物となって、ここに集められているという。
レビルスは、その壮麗な建物に足を踏み入れた瞬間、圧倒された。
大理石の柱が林立する回廊には、無数の巻物が、分野ごとに整然と並べられている。
歴史、哲学、詩学。彼の心を最も躍らせたのは、その奥にある、天文学の書庫だった。
彼は、そこで、一人のギリシャ人の老学者と出会った。
学者は、レビルスがローマの軍人でありながら、星々の運行や、一年の日数を計算する暦法について、専門家と対等に語り合える知識を持っていることに、深い感銘を受けたようだった。
「……驚きましたな、ローマの方」
老学者は、皺の深い顔に、知的な喜びを浮かべて言った。
「貴殿のような方が、あのカエサル様の副官とは。ローマの暦が、いかに季節とずれているか、ご存じとは」
「ええ。我々の暦は、もはや月の満ち欠けとも、季節の移ろいとも、大きくかけ離れてしまっている。いつか、誰かが、これを正さねばなりません」
レビルスは、この知的な会話を、心の底から楽しんでいた。
「先生。かねてより、一度、拝見したいと思っていた書物があるのですが……。サモスのアリスタルコスが著したという、太陽を中心とした宇宙論に関する原典は、こちらに?」
それは、地球が太陽の周りを回っていると看破した、伝説的な天文学書だった。その理論を理解できれば、より正確な暦の計算が可能になるはずだ。
だが、その問いに、老学者の顔が、ふっと、曇った。
「……ああ、その書物でしたら」
彼は、悲しそうに、首を横に振った。
「残念ながら、もう、この世には存在しません」
「……え?」
レビルスは、その言葉の意味が、一瞬、理解できなかった。
「先の、港での戦乱を、覚えておいでかな」
老学者は、静かに語り始めた。
「カエサル様が、敵の艦隊を焼き払うために、火を放った、あの戦いです。あの火が、風に煽られ、港に面していた、我々の書庫の一部にも、燃え移ってしまいましてな……」
レビルスの全身から、血の気が引いていくのを感じた。
「我々も、命がけで消火にあたったのですが、火の回りが、あまりにも早く……。数学と、工学、そして天文学に関する、最も貴重な書物を収めていた、あの第二書庫が……」
老学者は、深く、長い溜息をついた。
「……全て、灰になりました」
その言葉は、まるで、重い槌のように、レビルスの頭を殴りつけた。
灰になった。アリスタルコスの宇宙論が。アルキメデスの幾何学が。ヘロンの工学の粋を集めた設計図が。全て。
それは、自分たちが、生き残るために下した、一つの「計算」の結果だった。
港を封鎖し、敵の艦隊を焼き払う。それは、あの絶望的な状況下で、最も合理的で、最も効果的な一手だった。
その計算が、彼らの命を救った。
だが、その同じ計算が、人類が、数百年、あるいは千年以上をかけて築き上げてきた、かけがえのない「知識」を、永遠に、この地上から消し去ってしまったのだ。
レビルスは、呆然と、書庫の焼け跡を見つめていた。
そこには、ただ、黒い灰と、炭化した巻物の残骸が、虚しく転がっているだけだった。
(……俺は、一体、何を守り、そして、何を、破壊してしまったのだ?)
勝利の代償。
その、あまりにも重い意味に、彼は、打ちのめされていた。
その時、老学者が、そっと、彼の肩に手を置いた。
「若きローマの方よ。それほど、ご自分を責めなさるな」
学者の声は、穏やかだった。
「書物が灰になったのは、確かに、取り返しのつかない悲劇です。ですがね、」
彼は、自分の頭を、指で、とんとんと叩いてみせた。
「本当の知識というのは、パピルスの上にあるのではない。ここに、そして、貴殿のような、それを求める人間の頭の中にこそ、あるのです。書物は、知識の器に過ぎません。器が壊されても、知識の泉そのものが、枯れたわけではない」
老学者は、レビルスの目を、真っ直ぐに見つめた。
「書物がなくとも、知を受け継ぐ者がいれば、我々は、再び前に進むことができます。失われたものは、我々が、そして、貴殿のような次の世代が、再び、見つけ出し、築き直せば良い。むしろ、古い器がなくなったからこそ、新しい、より優れた器を、作り出す好機やもしれませぬな」
その言葉は、レビルスの心に、深く、そして、温かく染み渡った。
罪悪感が、完全に消えたわけではない。
だが、彼の心に、一つの、新たな光が灯った。
破壊してしまったことへの悔恨だけでなく、失われたものを、自らの手で、再び築き直すという、責任と、そして、希望の光が。
レビルスは、老学者に、深く、深く、頭を下げた。
「……ありがとうございます、先生。その言葉、決して忘れません」
彼の休暇は、まだ続く。だが、その過ごし方は、少しだけ、変わるのかもしれなかった。
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